白鳥山から富士山を眺める

 静岡県道223〔ふじさん〕号では、道路交通法は適用されない。 

 静岡県の清水港と土肥港を結ぶ海上航路だからである。

 この海上からの富士山の眺めが素晴らしいと評判になり、観光目的で県道に昇格したのが2013年4月。

「駿河湾フェリー」は一躍有名になったが、駿河湾沿いの陸上道路網の発達はいかんともしがたく、2019年3月末で廃止と発表されたのが昨年5月のことである。
 そこで今年の新年登山は、ラフカディオ・ハーンも絶賛した海上からの富士山展望を計画したのであるが、昨年末に富士宮駅に貼ってあるJR東海のお知らせに絶句した。


 駿河湾を泳いで渡ることもできず、吉原駅南口の津波タワーやふじのくに田子の浦みなと公園にある富士山ドラゴンタワーからの眺望で誤魔化すわけにもいかず、できるだけ南の方から眺めようと地図で探して、身延線は芝川駅の西にそびえる白鳥山に登ることにした。
  静岡県と山梨県の境界は複雑である。東の端、駿河・甲斐・相模の接する三国山からほぼ西に向かうが、小富士から富士山頂までの間は現在でも県境が未定。山頂から西に下りながら10キロほど北上して、本栖湖の南岸・竜ケ岳からは天子山脈を南下して富士川を越えて駿河湾にあと10キロまで迫り、今度はまた北上すること50キロ、白根三山の間ノ岳が駿河・甲斐・信濃の境界になる。

 その南端近くにあるのが白鳥山であるから、富士山を南西方向から眺めることになる。

 登り方は至って簡単である。静岡県側の身延線芝川駅から往復とも歩き。

 ただし西富士宮から北は1時間に1本の電車、16時台は一本もない。バスやタクシーがからまないから、下り時間でのバタバタがない。
      *    *    *
 1月26日(土)早朝、日本海に小さな低気圧があって無風快晴だったが、身延線に乗り換えるころから北風になった。高気圧からの吹き出しが始まったようだ。

 とちゅう富士根駅のホームの北端からは電線が一本もない富士山が見える。


 芝川駅は無人駅である。掃除の行き届いたトイレはある。県道を左に行って踏切を渡り、バイパスと合流したところで左折すると鋼鉄製のアーチ橋・釜口橋がある。


 上流側から見るとこのような場所である。


 およそ1万4000年前、富士山から吐き出された芝川熔岩流がほぼ真横から富士川に流れ込んで右岸に大きく蛇行させ、幅広い河川敷を造り、左岸では10メートルも熔岩塊を削り込んで直線の水路を造った。なぜこのように複雑な地形になったのかいまのところよく分からない。
  日本三大急流である富士川の舟運最大の難所がこの釜口峡となったが、川幅が狭いことを生かして古くから橋が架けられていた。
《慶長十三年、神祖駿府御在城の時、台命にて此所に刎ね橋架けたりと云う。》(『駿河記 下巻』桑原藤泰著、足立鍬太郎校訂、加藤弘造出版、昭和7年)
 慶長13年といえば1608年、江戸時代の初めに、神祖すなわち徳川家康の命令で刎ね橋が架けられたというのである。 

 甲州街道の猿橋のような構造だったのだろうか。詳しくは分からないが、何度か掛け替えられるうちに幕末には、藤蔓や竹を縄のように編んで使う吊り橋になったようである。
《其の橋造り毎歳八月竹縄を作り、両岸に岩石を多く積んで中央に題目石を掘り建て、彼の竹綱四本を巻き付けて結び付けかため、此方の岸より彼方の岸へ八筋引き渡し、其の上に竹綱を凡そ九尺計りに切りて隙なく横に結びて、縄簀の如くになし、其の上に厚さ一寸・幅尺許りの長板を正中に一枚通り敷き渡し、其の板の上を歩行す。又左右に橋より少し高く二筋の綱を渡したり。又向こうの岩上橋下の大木より此方の橋上の大木に一筋の大竹綱を張り渡して、釣橋を下より中央のたるむを扣〔ひか〕え置くなり。》(同前)
  次の絵図は『駿河記』を書き残した桑原藤泰が描いたスケッチである。


  ちなみに桑原藤泰(1762〜1832)は、東海道島田宿の作り酒屋に養子にはいり、駿府奉行の『駿河大地誌』編纂計画に従事するが参加者が次々に亡くなり、単独で『駿河記』をまとめたのは文化3年(1806)。しかし桑原家にはすでに財力もなく、『駿河記』が刊行されたのは死後100年経った昭和7年(1932)、『駿河記 絵図集成』が陽の目をみたのは平成10年(1998)のことであった。
 蝦夷地探検で有名な松浦武四郎が明治2年(1869)にこの橋を渡っている。
《如何にも足おのゝきて渡りがたき物なりしに、両掛けを持たせし人足は未だ始めてのよしにて荷を卸して越え難き由申せしに、余も実に当惑したるに、大宮より案内致し来り呉し直吉の養子は、此の内房村の者のよしに而日々渡りしとてすぐ此の両掛けを荷い渡りしが、其の者橋三分も行くや揺れし橋キッとしまり如何にも渡りやすくぞ見えたり。》(「明治二年東海道山すじ日記」『松浦武四郎紀行集(上)』古田武三編、冨山房、昭和50年)

 この橋の明治時代の写真が残っている。


  危うげな吊り橋の向こうに霞んで見えるのが、本日の目標、白鳥山である。
  大正4年(1915)この100メートル下流、おそらく現在の釜口橋の位置に、長さ34間・幅9尺、木造トラス補鋼の鉄線吊り橋が架けられる。しかし大正7年(1918)年10月28日、豊橋歩兵第六十聯隊が通過中に落下、死者7人という大惨事を引き起こしている。

 
 当時の『静岡民友新聞』は原因を重量オーバーと報じているが、兵隊の揃えた歩調で橋桁の震動が共鳴して大きくなって鉄線が切れたのではないか。

 わたしが小学校時代の遠足で、一行が橋に差しかかると、付き添いの先生が「足並み乱せ!」と怒鳴っていたのは、この事故の記憶があったのではないか。
 われわれは昭和26年架橋の鋼鉄アーチのトラス橋で瀬戸島に渡り、続いて内房橋にかかると右手正面に白鳥山が見えてくる。


 富士川の右岸山裾を右折して間もなく、日蓮宗本成寺の手前に白鳥山への看板がある。10時35分、標高74メートル。
 ちょっと登ると峯集落があって、正面の民家の庭に入っていくと山道が始まる。
  林床がきれいに掃除された孟宗竹の竹林が続く。直径20センチ近い竹も立っている。富士宮市内房はタケノコの産地として有名なところである。
 まもなくお題目塔にぶつかる。左面には「身延道」、右面には「七面宮 安永二癸巳二月日」と読める。右の、20〜30年生の杉の植林地をジグザグに登っていく。
 登山家が造る登山道は最大角度を採って一直線になるが、伐木造林の作業道は一定の傾斜を保ってジグザグになる。作業員が現場に着いたとき、息が切れていたら仕事にならんからである。


 あいかわらず杉林のジグザグを登っているととつぜん、石段と立派な看板が現れる。
《平成十一年(一九九九年)地元有志五人が、定年退職記念に白鳥山登山をおこなった。一行が途中休憩した処に、石ノミの痕跡がある岩が覗いていた。これが参道階段敷石の発見となり、驚きと感動で地元有志が集い発掘のうえ今日の整備に至っている。》
  そりゃ驚いたことであろう。何もないはず土の斜面から175段の石段が現れ、下のお題目塔に書いてある七面宮跡が実在したのである。

 七面宮とはなじみがないが、ここから20キロ北方、身延山の隣の七面山には七面天女が祀ってあるという。
《七面神 日蓮宗の守護神。七面明神・七面天女・七面大菩薩とも称す。本地は吉祥天、または弁財天という。》(『国史大辞典第六巻』国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館、昭和60年)
 ところで、今日流通している国土地理院2万5000分の1地図「富士宮」にはお宮マークが記されている。


 こんなちっぽけな無住の廃寺跡がなぜ記載されているのか、疑問が湧く。
 手持ちの地形図を調べてみると、もっとも古い国土地理院5万分の1地形図「富士宮」(1969年発行)、その前の内務省地理調査所「富士宮」(1946年発行)、さらにその前の大日本帝国陸地測量部の「大宮」(1920年発行)にまで溯ってみると、ずっとここにお宮マークが付されている。さらにそれ以前の大日本帝国陸地測量部「大宮」の1913年版、1899年版には記載がない。
 つまり、大正2年から9年の間に行政当局がここに神社があると認識し、地名調書原簿に書き込まれたことになるが、それ以降は誰もがそのことを忘れていたということである。ともあれ、めでたしめでたし。
 国土地理院地形図にはもう一つ間違いがある。
 最新の電子板ではお宮マークが標高280メートル地点に記されているが、今回GPSデータを解析したところ、もっと上、標高430メートル付近ではないかという結論が出ている(地図上の矢印)。展望の利かない杉林のなかであるが、等高線から考えてもそうではないか。
  12時08分、標高470メートルの小ピークに出る。杉の大木の根元に卵形の大石があり、《豊雲野姫金神大神》と陰刻してある。日本神話に出てくる天地開闢の神の1柱である。
 ここから頂上まで標高差100メートル。やや急斜面になるが、《頂上迄350叩佞箸い辰神个良玄韻50メートル置きに建てられている。
 12時26分、標高568メートルの白鳥山山頂である。


《白鳥山砦跡 静岡県との県境の富士川右岸に位置する白烏山にある砦。白鳥山は城取山ともいう(甲斐国志)。……永禄一二年(一五六九)武田信玄が駿河へ侵攻した折設けたという煙火台で、山中には陣場・鞍掛・馬ノ背・大鼓・打揚山などの地名が残る(同書)。「甲斐国志」はさらに白烏山の山名について、白鳥は日本武尊の陵の名であり、駿河にも尊の古跡があることから、山名に冠したとしている『日本歴史地名大系第一九巻 山梨県の地名』平凡社地名資料センター編、平凡社発行、1995年)
  確かに、冨士山麓に軍隊が動けば手に取るように分かる。
 正面に富士山は見えるが、山頂部に雲か掛かってきた。アルプスを越えてきた雪雲だろうか。それにしても富士山の山肌にはほとんど雪がない。
  頂上には戦争にはふさわしくないものもある。石板が立っていて、ハート形の窓が富士山側を向いている。《恋人の聖地》と書かれている。
《恋人の聖地プロジェクトでは、……全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定し、地域の新たな魅力づくりと情報発信を図るとともに、地域間の連携による地域活性化を図っています。》(NPO法人地域活性化支援センター、ホームページ)
 現在「恋人の聖地」は全国で140カ所あるそうだが、ネットで探しても白鳥山は写真は一枚も出てこないし、当の地域活性化支援センターのホームページには静岡県内で8カ所の恋人の聖地が紹介してあるのに、白鳥山は漏れている。
  つのる想いを抑えて、何も言わずにここまで連れてきて、ハイ! プロポーズ、というケースがありうるだろうか。
   *    *   *
 風が出てきた。枯れ草が深いので火が使えない。
 西側、つまり武田側に10分足らず下ると東屋とトイレがあって、ブランコまである。ここで昼食。
 下りはゆっくり歩いて麓の本成寺まで60分、帰りは新内房橋で富士川を渡った。
 釜口峡のいちばん狭い場所に竹綱や藤蔓の吊り橋があったと思われるのだが、いまは直径6メートル、巨大な鉄管を渡すサイホン橋がある。


 鉄や銅の精錬は酸化物や硫化物を高温で融かして還元するが、アルミニウムは電気分解みたいなものだから、大量に電気を必要とする。東海道線蒲原駅近くにある日本軽金属では工場に隣接して富士川第二水力発電所を持っている。


 写真のGoogleのGが発電所で、その右が工場である。
 日本軽金属ではここから7キロ上流に富士川第一発電所を持っており、使った水は富士川に戻さないまま左岸の山中深く掘ったトンネルを通して釜口まで流し、ここで富士川左岸はサイホン橋で越えさせ、瀬戸島からは河川敷の下のトンネルで右岸に渡し、さらに今度は右岸の山中深く刳り抜いたトンネルで10キロ南の蒲原まで送水しているのである。
     *    *    *
 翌1月27日(日)午後、静岡県富士山世界遺産センターで聴きたい講演があるので、皆さんを見送ったあとでその夜は富士宮に泊まり、翌日は朝一から富士宮市立図書館に入った。

 富士山データベース作業の一環で、この日は『岳南朝日』新聞の昭和42〜44年をめくった。釜口峡関係の記事が立て続けに5本も見つかった。
  昭和44年6月11日付「縄橋絵図見つかる 江戸末期の釜口(芝川)風景」
  昭和44年8月18日付「ルポ 釜口を探る(1)悲劇のクロス 昔は舟運、今はダンプ」
  昭和44年8月19日付「ルポ 釜口を探る(2)原始の藤縄吊橋 足がすくんだ旅行者」
  昭和44年8月20日付「ルポ 釜口を探る(3)人命奪った岩々 対策は祈りだけ」
  昭和44年8月21日付「ルポ 釜口を探る(4)釜口版ローレライも 許せない悲劇の放置」
  前日に釜口橋を渡った印象が残っていなければ見落としていたかもしれない。

2年がかりの金剛石 ダイヤモンド富士@女人天上

 明治5年(1872)太政官布達によって女人結界が廃止されるまで、富士山も女人禁制であった。吉田口登山道でいえば、二合目・小室浅間神社の地に道者改所が置かれ、登ってくる道者(登山者)のなかに女性が混じっていると、ここから追い返したといわれる。

 もっとも富士講のなかには禁制に従わない講社もあり、また山麓の御師にも売り上げを優先して女性登山を容認したところもあったようで、富士山が出現したとされる庚申の年には女性登山を推奨したと思われるポスターもつくられている(一恵齊芳幾筆『万延元年庚申六十一年目ニ當リ 冨士山北口女人登山之圖』品川屋発行、万延元年=1860年)。

 それ以外の年はどうであったか。
《ここ〔女人御来迎場〕は正式に認められた場所ではなかったが、……山頂や朝日を拝することができないため、女性は内緒でここまで登って拝したという。……男性であっても、登山期以外の時期にはここを遙拝所として利用したという。》(『富士吉田市歴史民俗博物館企画展図録「富士山明細図」』富士吉田市歴史民俗博物館編、富士吉田市教育委員会発行、平成9年)

 ところでいつ誰が気づいたことか知らないが、太陽暦で1月8日を挟む3日間、この女人天上からダイヤモンド富士が見られることが分かった。よし、見に行こう!
  昨年、2018年1月8日、われわれは勇躍、富士急行線富士山駅に降り立った。しかし天は非情である。

  女人天上の位置は富士山に被る雲ほど高くはないが、あえて登っていこうとは誰も言わない。急遽方向を変更し、船津胎内から吉田胎内、泉水を経て、雨のなかを雁ノ穴まで歩いたのである。
 反省点として、今年はあらかじめ日にちを固定しないでおいて、1月1日の夜に気象占いをして決行日を決めようということになった。気圧の谷通過は1月6日と計算し、7日の翌日予報はご覧の通り。

  8日の朝、富士急行線の電車が寿駅に近づくと、任せてくれと言わんばかりの富士山である。


 富士山駅裏から三立〔みたて〕交通のタクシーに乗る。この会社は迎車料金をとらないので、帰りが便利である。

 馬返までクルマで、登山道に入ってもまったく雪がない。運転手もこの冬の天気はおかしいと言う。風も吹かない。
 一合目・鈴原天照大神の周辺には、一抱えもあるカラマツの大木が50センチの長さに輪切りにして、あちこちに置かれている。

 切り口を見ると洞のない大木で、よほどの強風に倒されたものであろう。倒木を整理した人たちがベンチ代わりにおいてくれたものと思われる。

 しばらく登っていくと、枝葉付きの大木が登山道を塞いでいる。コメツガの古木である。

 こちらはオフシーズン、9月30日・台風24号による風損で、一合目に掃除部隊が入ったときには発生していなかったようだ。

 単独で倒れたものではなく、洞のあるミズナラ(?)の老木が吹き倒されて、道連れにされて複雑な構造になっている。下手に枝払いすると跳ね返ったりして危険である。大型チェンソーで、端から順番に切り刻んでいくほかに片づけようがないだろう。

 二合目・小室浅間神社奥宮前の旧社殿は北半分が崩壊してしまってもはや救いようがない。かつて雨降りにはこのなかで弁当を使うこともあった。こうなるまえに行政はなんとかできなかったものだろうか。

   林道細尾野線に入ると、所々の日陰に吹きだまりの雪が現れた。カチカチに凍っているが斑である。滑るぞとアピールしている氷でも、木の葉や小石、草といっしょに踏み込めば大丈夫で、アイゼンは要らない。
   いよいよ女人天上に近づいて、林道から青空のもと、見上げる富士山は大きく懐を開いている。

 中央のいちばん高いところが白山岳、そこから右手前に下がる屏風尾根。吉田大沢を挟んで左からかぶさっているように見えるのが久須志岳、そして吉田口登山道は左の尾根を登っていく。

  最後の急斜面はコメツガの原生林で、雪がまったくない。

 1時30分、女人天上に着いた。

 東側、つまり朝日の昇る方向はシラビソの人工林がびっしり壁をつくって展望はまったくないが、南側、つまり富士山頂側は大きく切り開かれて展望が利くようになっている。
 これまでは、あの枝が邪魔だとなれば、人目がないことを見計らってゲリラが出動して根元から切り倒していたのだが、いまや恩賜林組合や行政の協力を得て、展望が確保されている。すその路郷土研究会の皆さま、ありがとうございます。 
 左のなだらかなピーク・久須志岳の左から、まぶしく輝く太陽が近づいている。
  1時50分、太陽を遮るように黒い雲が湧いてきた。
 われわれの中に、前世の悪行を悔い改めない奴がいるに違いない!

  おんあびらうんけんばーさらだとーばん

  おんあびらうんけんばーさらだとーばん

  おんあびらうんけんばーさらだとーばん   

 そして最後に、日没寸前に、奇跡が起こる。
         

 われわれは、2年がかりで、ダイヤモンドをつかむことができたのであった。

 

 以下にGPSデータに基づくわれわれの行動ルートを紹介しておこう。

 馬返から一合目は、登りは行政ご推薦の新道、下りは旧道を通った。

新年はまず「道者道」の掃除から

 

《「道者道」とは、道者(富士登山者)が通っていた道である。昔の富士登山は「六根清浄」を願う修行であった。道者道は、先達(登山のリーダー)に導かれ山頂を目指した道者の姿を想い起させてくれる貴重な道である。》(富士宮市歩く博物館)
 という解説とともに、富士宮市教育委員会のブログには次の地図が載っている(部分)。

  

 

 場所は富士宮市村山・西見付跡のすぐ西側、西に直進する国道469号の下から粟倉観音堂のすぐ上まで。道幅が拡張されないままの旧い道者道が残っているとされ、まことに貴重な存在である。
 住宅地図を見るとよく分かる。

 左は昭和29年発行の『富士根村精細地図』。黄色は古い国道469号で、中央を斜めに横切っている赤線が道者道である。富士宮市教委ご推薦のオレンジ色の道は、農家の作業道であったことが分かる。
 右2010年の『ゼンリン住宅地図』ではすでに道者道表示は消滅しているが、図中「山辻の石畳」の所に細い破線がちょこっと書き込まれている。

 これが道者道の名残である。現在この地図の赤線部分は富士宮歩こう会で倒木など掃除して、時に歩く人もいるようである。しかし左下の赤い破線部分はほとんど誰も足を踏み入れることはない。
  2019年1月1日午前7時20分に村山ジャンボを出発したときには、富士山は半分雲のなかだった。
 林の中にはいり、7時48分、道者道のいちばん右上に着いた。
 路面はきれいだし藪も被さっていない。右の杉に「道者道」プレートを提げる。


  しかし5分後に道に傾斜がつくと様変わり。雨水で洗われてデコボコになった足場に杉の小枝が積もって地面が見えない。着地して体重を掛けないと足首がどちらを向くか分からない。

 落葉樹は秋にまとめて葉っぱだけを落とすが、多くの針葉樹は通年、小枝ごと古い葉っぱを落として新陳代謝をはかるし、なかなか腐らない。
 まもなく石畳になるが浮き石だらけで条件はもっと悪い。
 8時08分、直径15センチの倒木が行く手を塞ぐ。


 8分後、どうぞお通りください。


 8時24分、倒木の3本連続だ。


 いちばん手前は踏みつけて体重を掛ければおしまい、2本目は半ば腐っているので鋸を抜けば1分で片づいたが、3本目は大きな梢の房々枝がこんもり。まず小枝切りが30本ほど、両側に積みわけ、15センチの主幹に辿り着いて切り落として、さらに地面の小枝を処理する。


 22分後、なんとその陰に直径20センチの大物が隠れていた。これは根方も梢も両側の土手にしっかり乗っているいるので左右2カ所を切らないと道が開かない。チェンソー部隊に譲ろう。
 8時48分、半分腐った15センチの杉。


 1分後、はいどうぞ。

 9時00分、「山辻の石畳」。もともとここにあった「右富士山道」の石碑は村山浅間神社駐車場に引っ越している。

 ここから市教委ご推薦の道を1分下ったところが旧来の道者道であるが、踏み跡が付いていないので分かりにくい。

 右側の杉の植林の中に「道者道入り口」のプレートを提げる。


 ここから土道になって足場が楽になり倒木もすくなくなるが、それでも枯れて腐った孟宗竹は踏み砕き、15センチ級の倒木5本は鋸で切り落とし、9:20枯れ沢の左岸に出る。

 ここには向こう岸から見えるように「道者道」プレートを提げ、沢を渡って右岸にも向こうから見えるようにプレート。
 あとは足場もしっかりして倒木もなくなり、10時01分に山口鉄工所の前で国道469号に出る。

 ここにも最後の「道者道入り口」プレートを提げて、元旦のお掃除はおしまい。


 1キロ足らずの下りだから30分で通過だなと思って入ったのに、2時間以上かかってしまった。
 振り返ると、お山の周りの雲は跡形なく消えていた。


 本年もよろしくお願いします。

足利アルプス、歴史と自然の残る岩稜ハイキング

 足利アルプスというのがどこからどこまでか、使っている人によってまちまちではっきりしない。

 環境省が整備した関東ふれあいの道のうち、足利市周辺の縦走路を指すらしく、全コース歩くとなると1日や2日では済まないかもしれない。

 今回、2018年12月16日(日)は、そのなかで一般向きコース「歴史のまちを望むみち」を歩いた。北は行道山浄因寺から織姫神社までの9キロの尾根道である。

「歴史のまち」とは足利学校や鑁阿寺(ばんなじ)など史蹟の残る足利市のことであるが、市街地の西を南下する稜線もまたなかなか歴史の山であった。

 


 

 当初はJR両毛線足利駅前からタクシーで登山口まで入るつもりであったが、バス便があるという。

 足利市の生活路線バスで、運行は足利中央観光バスに委託されている。「行道山行き」は1日に3本だが、休日には9:20発の増便があるから、登山客の便を考えているのであろう。バスが来た来た! 


 20人も並んだら積み残しが出るだろう。
  ミニバスは足利市内の住宅地をくねくねと舐めるように回って、9:40には終点に着く。途中で老婦人登山者が1人乗車したから、行道山は市民ハイキングコースになっているようだ。
 アスファルト道を登りはじめると間もなく左に見上げるような石塔が立っている。


「観世音菩薩尊像 三萬三千體安置 行道山」
 嘘800とか1000本松原とか誇張数字はよく使われるが、33000体とは気宇壮大である、ぜひとも拝観したいものである。
 40分も上るとアスファルト道は終わって駐車場。左に蜜柑畑にあるような参拝客用のモノレールがあって故障中らしい、右側から石段が始まる。
  石段の両側は観世音の石像群、ざっと300体はあるらしい。


「昭和九年五月二十日建之 足利市緑町一丁目 為道心妙覚大姉」とあるのは墓標のようにも思えるが、「昭和四年九月二十三日 東京元大蔵大臣・市長 市来乙彦」は墓ではない。市来の死亡は昭和29年2月19日である。
  間もなく浄因寺に着く。迎えてくれるのは猫たち、無住のようだが荒れ果てた感じはない。ネット情報によると、何年かまえに住職がなくなり、4匹の猫はいったん里に引き取られたが、山中に逃げ帰って住み着いているらしい。ニャアオと近寄ってくるのを見ると腹を空かしているようだ。
  目を引くのは大きな岩塊のうえに引っかけたように建てられている茶室・清心亭。黄葉が映える。


 葛飾北斎が『足利行道山くものかけはし』として作品を残していることは初めて知った。


《行道山浄因寺  断崖絶壁に囲まれた山中にあり、「関東の高野山」とも呼ばれるこの寺は、和銅7年行基上人の開創と伝えられる名刹です。断崖の上に清心亭が建つ風景は南画さながらの景勝の地としては昭和50年、県の名勝第1号に指定されています。》(https://www.ashikaga-kankou.jp/spot/jouinji
  困ったのは、この長い歴史と規模を持つこのお寺の歴史が、これ以上はまったく分からないことである。尋ねようにも人影なく、栃木県内図書館横断検索からも何も引っ掛からない。「三萬三千體」の実態はともかく、せめて石段両側に並んでいた観音像の由来ぐらいは知りたいものだ。
 
 まだしばらく急坂は続いて、歴代住職の墓地を抜けて鞍部に上がると展望台となり、てっぺんに寝釈迦がある。


 1メートルほどの石像の周りを数十体の石仏が囲んで釈迦の入寂を悼んでいる。涅槃図や室内の涅槃像は各所で拝観できるが、このように山頂の石像群は初めてである。
 浄因寺のちょっと上までは石仏の首が飛ばされて廃仏毀釈の痕がうかがわれたが、ここまで破壊の手は及ばなかったようである。
 ここからは岩稜のハイキングになる。岩はゴツゴツ露出しているが、おおむね踏み跡は、つろいで登山者の話題はもっぱらカモシカを見たとか見なかったとか。
 小さなピークの登り下りを繰り返し、大岩山のピークを越えて急坂を下るとやがて大屋根が見えてくる。毘沙門天最勝寺である。 

《大岩の毘沙門天は、奈良信貴山、京都鞍馬山とともに、日本三体霊仏の一つで、聖徳太子御作と伝えられ閻浮檀金の仏像である。平城京、西国、東国と各々に位置し、鎮護国家祈祷霊場として安置された。行基菩薩は、聖武天皇の詔を奉じ、天平十七年(七四五年)この地に祀り、本堂、経堂、釈迦堂等や十二坊を建立し、帝より多門院最勝寺の称号を賜った。》(足利市観光協会の看板) 
 同じ観光協会が、同じ行基開創の寺を説明するのに、浄因時と最勝寺ではなぜこんなに温度差があるのか。
 最勝寺ご本尊の拝観はかなわなかったが、残りの紅葉を楽しみながら鐘楼に昇ると、一撞き100円。余韻がなかなかの鐘の声であった。


 ルートはここからさらに南下。夕暮れ迫るなかを、いくつもの小ピークを上り下りしながら両崖山を越え、織姫神社に向かって下っていく。途中、仙人のような杖を突いたお爺さんとか、ごく軽装でスニーカーの若者が登ってくるのに出会う。地元では、毎日登山のコースになっているのかもしれない。


  最後のチェック・ポイントは織姫神社。社務所前のご神木は樹冠を真ん丸に剪定されていて、薄暗いので樹種がよく分からない。


 蕎麦屋の親父さんに訊いたところクスノキだと断言するが、どうにも腑に落ちない。帰宅して調べてみたらスダジイ(ブナ科シイ属)である。

 ここではマルコメ君にされているが、浄因寺のすぐ上には、野生のままに伸び伸びと大枝を広げた巨樹があった。
 全山が岩山でありながら、いやいや古くから信仰の残る岩山だからこそというべきであろう、自然の植生が保存されている歴史の山であった。何種類ものツツジ咲き乱れる花のコースでもある。全山新緑のころ再訪すれば、足元の草の花も盛りだくさんなハイキングを楽しむことができそうだ。

国土地理院地形図製作手法の変遷

「青木ケ原の溶岩流:吐き出し口から墓場まで その1」の最後で、国土地理院地形図に問題があることを述べておいた。

  じっさいに歩いたGPSデータと地形図の登山道が合致しない。と同時に、富士砂防事務所の広報誌『ふじあざみ』にはGPSデータと合致する赤色立体地図と等高線地形図が掲載されていることも指摘しておいた。

「どうやらそれらの情報をしっかり反映した地形図があるらしい」、国土地理院関東測量部に行って「全図歴を調べてみることにしよう」。
 じつはわたしの手許には、「甲府8号富士山の1鳴沢」の1:25000地形図が5種類ある。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
昭和3年測量 昭和6年 (1931)発行 大日本帝国陸地測量部            
昭和3年測量 29年修正測量 航空写真併用 31年(1956)発行 地理調査所
昭和3年測量 46年現地調査改測 48年(1973)発行 国土地理院
昭和3年測量 46年改測 63年修正測量 航空写真使用 平成元年 (1989)発行 国土地理院
平成27年調整 平成27年(2015)発行 国土地理院
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 昭和31年発行版とそれ以降では、精進口登山道一合目から上が大きく改変されており、しかもGPSデータとは似ても似つかない登山道になっている。このこともすでに述べておいた。そこで、わたしのコレクションにはない未知の図版が国土地理院にはあるのではないか。
 10月25日、久しぶりに東京に出る機会があったので、地下鉄東西線は竹橋駅と九段下駅の中間にある国土地理院関東測量部に行った。そこでは大日本帝国陸地測量部、戦後業務を引き継いだ地理調査所、そして今日の国土地理院発行の地図(成果物)をすべて閲覧することができる。
 閲覧者用のディスプレイの前にすわれば、たとえば問題になっている1:25000地形図「鳴沢」の図歴が次のように表示される。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
2.5万地形図 鳴沢 なるさわ
リスト番号 測量年 更新履歴 発行年月日 カラー種別 測地系    用紙
84-8-1-1   1928(昭3)   測図 1931/05/30(昭6)  モノクロ 日本測地系  柾判
84-8-1-2     1928(昭3)   測図   1947/05/30(昭22) モノクロ    日本測地系  柾判
84-8-1-3     1954(昭29)  修正   1956/07/30(昭31)  カラー     日本測地系  柾判
84-8-1-4     1971(昭46)  改測   1973/03/30(昭48)  カラー     日本測地系  柾判
84-8-1-5     1977(昭52)  修正   1978/09/30(昭53)  カラー     日本測地系  柾判
84-8-1-6     1954(昭29)  修正   1956/11/30(昭31) モノクロ    日本測地系  柾判
84-8-1-7     1988(昭63)  修正   1989/11/01(平1)   カラー     日本測地系  柾判
84-8-1-7B    1988(昭63)  修正   1989/11/01(平1)   カラー     日本測地系  柾判
84-8-1-7C    1988(昭63)  修正   1989/11/01(平1)   カラー     世界測地系  柾判
84-8-1-8     2006(平18)  更新   2006/11/01(平18)  カラー     世界測地系  柾判
84-8-1-8B    2006(平18)  更新   2006/11/01(平18)  カラー     世界測地系  柾判
84-8-1-9     2015(平27)  調製   2015/05/01(平27)  カラー     世界測地系  柾判 〔項目の一部は省略〕
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これだけならネットを通じて呼び出すことはできるが、こへ行けば地図1枚1枚をディスプレイに呼び出して、地図の中身を読むことができるようなっている。
  結論はあっという間に出る。
 砂防事務所広報誌に掲載されている「図3 航空写真測量による地形図」に符合する地形図はここには存在しない。
 もっともこの図歴は、あくまでも国土地理院に現存するものを電子化したものであって、経年の成果物発行記録に基づいて整備されたコレクションではない。こちらには欠落しているが、砂防事務所がたまたま所有している版があるかもしれない。

 顔見知りの職員に話しかけてみると、話はもっと単純である。
「近くに三角点も少ないし、森林のなかの登山道なんてとてもじゃないが、正確さは保証できません。砂防事務所でつくった地図ではないでしょうか」
 11月22日、富士宮市は万野風穴を見にいく機会があったので、帰りに富士砂防事務所に寄った。

「ちょっと古い話になるんですが、『ふじあざみ』38号にこのような地図が載っています」

『ふじあざみ』38号

「この図3に該当する地形図は、国土地理院に残っている図歴をぜんぶ調べたのですが、見つかりませんでした。ひょっとしてこちら、砂防事務所に原図があるのではないでしょうか」
「平成14年ですか? 毎年膨大な書類がたまっていまして、われわれだいたい3年で異動しますし人員もどんどん削られています。探し出すのはほとんど不可能だと思います。ただ、これはあくまでも推測ですが、この赤色立体地図の納入業者が『図5 レーザープロフィラによる等高線図』を基にしてつくってくれた可能性があります」
  これで『ふじあざみ』掲載地図のルーツ探しはおしまい。

 

 せっかくだから航空写真の分解能についてわたしの経験をご披露しておこう。
 場所は富士山の青木ケ原とは反対側、水ケ塚駐車場から幕岩にかけての一帯である。

 もう十数年昔、幹周り3メートル以上の巨樹がどれだけ残っているか調べるために毎月のように通ったことがある。

 あそこに大きな木が見える! となれば、登山道や営林署の作業道にかまってはいられない、背丈を超える熊笹の弱点を見つけて、根元まで突進するのである。
 幸い調査メンバーに民間の地図会社の人がいて、8000メートル上空から撮った写真を1:5000にプリントして提供していただいた。
  まずは水ケ塚近辺の航空写真と地形図を見比べていただきたい。

航空写真 水ケ塚付近地形図 水ケ塚付近

 富士山スカイラインやエバーグリーンラインは当然判別できるとして、地形図に描かれている須山口登山歩道に注目していただきたい。

 お! 航空写真でも見えているではないか。

 しかしでは、須山口下山歩道は見えるだろうか。また写真をじっと見つめていると登山歩道と交差する同じような筋が何本も見えてくるが、これらは登山道ではないとどうして否定できるのだろうか。
 次にこの写真に隣接する右上、幕岩付近の航空写真と地形図を見比べていただきたい。

航空写真 幕岩付近地形図 幕岩付近

 舗装された道路も三角点もないので位置合わせがむずかしいが、さいわい砂沢(ずなさわ)がきっちり符合していてくれる。

 では、この写真から須山口下山歩道を見つけだして地形図上に描きこむことができるだろうか。
 今日では国土地理院の地形図は撮影位置をずらした立体写真を使って描いているそうである。三角点や独立標高点を基準にすれば等高線はそれなりに描けるだろう。しかし森林の樹冠に隠された登山道を読み取ることは、まず不可能ではないか。
 数年前に富士市で、富士山は村山口登山道の歴史について講演したことがある。明治20年代の大日本帝国参謀本部の正式図から始まって、今日の国土地理院地形図までをずらりと並べて、説明した。
 限られた三角点と独立標高点を基に等高線を引き、航空写真もないまま描かれてきた登山道は必ずしも正確ではない。GPSデータと比べてみると、どの部分をどういうふうに位置合わせさせればいいのか、戸惑うことも多い。

 しかしじっさいにこの地図を見ながら歩いてみると“独特の味”がある。描画した技官の創造性には感心すると述べたことがある。

 もちろん国土地理院としても、そういった批判・指摘に安閑としているわけではないようだ。昨年末、「登山者のGPSデータ、地形図修正に活用」という新聞記事が載った。
《国土地理院(茨城県つくば市)は、地形図に記載した登山道の修正を迅速に進めるため、ハイカーが登山情報サイトに寄せたデータを活用する。このほどサイトの運営会社2社と協力協定を結んだ。「穂高岳」などの人気の山から修正作業を始め、来年度中に主な登山道を修正する。》(朝日新聞デジタル>2017年12月25日16時30分)
 感心したのは、その発想法である。
《地理院の村上広史院長は「一人ひとりの登山経路には誤差があっても、数百人分を集めれば正確になる」と話す。》(同前)
 かつて地形図は精密な三角測量を積み上げて職人芸で描かれてきた。その後、立体航空写真を利用する半自動のアナログ手法に置き換えられ、そして今日では統計学手法も加味されることになったのである。
 わたしも先日、国土地理院関東測量部を退院するとき、精進口登山道のGPSデータを提出しておいたが、数の問題がある。もっともっと多くの登山者に歩いてもらってデータを集積しないことには、なかなか改善は実現しないだろう。

オールコック異聞 その4

 時はまだ3月である。
 3月22日は午前6時00分、JR藤沢駅の指定席券売機で新たな青春18きっぷを購入した。通常料金であれば藤沢―静岡間は片道2270円、往復4540円かかる。ジパング倶楽部の30パーセント老人割引でも3200円の出費だ。ところが青春18きっぷは5回・人分で11850円だから、1日1往復2370円で済む。ただしにこの切符では、自動改札は通過できない。駅員が見張っている改札横の関門で、日付スタンプを捺してもらう必要がある。
「今シーズン3セット目です」
「それはありがとうございます」、バシャ。
「まだ夜明け前なのに、なぜサンセットと言うか分かりますか」
「はア?」
「青春を謳歌している若者だけでなく、われわれたそがれの老人にも使えるからです。ありがとう」
 6:08藤沢発沼津行きに乗り、熱海で7:22始発の浜松行きに乗り換えると8:30には静岡に着く。トイレに寄ったりしてもゆったり、しずおかけんりつちゅうおうとしょかんれきしぶんかじょうほうせんたーには9:00前に入れる。
 藤沢までの小田急線車窓からは丹沢山塊とその左に富士山が見えるかどうかをまず確認する。東海道線を下るにつれて平塚辺りからは大山はもちろん、丹沢表尾根から丹沢主稜線のどこまで見えるか、国府津をすぎるとぐっと近くなった富士山のご機嫌をうかがう。酒匂川鉄橋を渡ると箱根の山が仕切りになってしまい、丹那トンネルを抜けるまで富士山とはおさらばである。ぐうーっと長い暗闇を出るとすぐ函南駅である。ここでは左の車窓の展望が開けて沼津アルプスが見える。
 わたしが以前から気にしていたのはかなたの沼津アルプスではなく、駅のすぐ下、冷川を隔てた向こうの高みである。

 


 木立に隠されてはいるが、あの稜線通しには古い街道があるのではないか。オールコックが富士登山の帰りに熱海入りした間道というのはそこを通っているのではないだろうか。
  帰宅して現行の国土地理院2万5000分の1地形図を開いてみると、確かにその山の尾根には道路がある。三島地先の大場から上って平井、鬢の沢〔びんのさわ〕、軽井沢を経て、熱海峠を越えれば熱海は来宮〔きのみや〕神社の所に下っている。静岡県道11号熱海函南線(熱函道路)の旧道である。

 

  念のため明治20年、大日本帝国参謀本部発行の2万分の1正式図をみると、ほぼこの道を辿ることができる。沢筋は避けて、尾根通しに街と街を繋ぐ古くからの道であることがこれで分かる。

 


 オールコック一行はこの日、1860年9月14日(万延元年7月29日)、三島から下田街道に入って、いったん韮山に向かっている。
 韮山といえば江川太郎左衛門の居館。富士登山でお世話になったお代官さまにお礼の一言も言ったかどうかオールコックの記録からは分からないが、大場村まで引き返し、ここから熱海への函南越えが始まる。オールコックは書いている。
《われわれがだんだん高くのぼるにつれて、優雅な花をつけたイトシャジンがあたり一面にあらわれた。もっと高い山の背に到達して、谷間ごとに海の方をふり返ってながめてみると、一歩ごとに開けてゆく展望は名状しがたいほど美しい。それに、木のしげった丘や段々になった山の構成が雄大であることが多い。山岳地帯のまん中で、突如として百軒ばかりの家がある閑静な美しい村に出くわした。……下りは馬にとってかなりつらいもので、ところどころひじょうに急なところがあった。》(『大君の都』前掲)

 

 ここで時制は3カ月飛ぶ。2018年6月は5日付『朝日新聞』の「文化の扉」が伊能忠敬没後200年を記念して『大日本沿海輿地全図』の特集をしており、『朝日新聞デジタル』版に伊能中図のまさにこの函南越えの部分が載ったのである。
 ただ残念ながら画像の目が粗くて経路の細部はもとより、重要な手掛かりになる途中の地名すら読めない。単なる模様であって、具体的な分析の素材にもならない。
  幸いなことに『伊能図大全』(渡辺一郎監修、河出書房新社、2013年)の第5巻は伊能中図・伊能小図をカラー版で収録しており、韮山のすぐ北の大場村から平井村、軽井澤村を経て熱海村に通じる朱線が描き込まれている。

 


   伊能測量隊の行程についてはこれ以外にも、詳しいデジタル記録が残っている。
《〔文化11年12月16日〕……右日金山〔ひがねさん〕道追分、是ヨリ十八丁ト云。字峠。右ニ地蔵堂アリ。其側ニ堂守ノ家、是ヨリ下〔リ〕坂ナリ。田方郡江川支配所軽井沢村字ゾウシ場ニ三島街道打止(ソ)印ヲ残シ畢〔おは〕ル。》(伊能忠敬著『伊能忠敬測量日記 伊豆篇』佐藤陸郎校注・発行、2003年)
 年が明けて、
《〔文化12年正月26日〕曇天、午後晴。風烈〔シ〕。熱海村出立。無測ニテ山越一里半許〔ばかり〕行〔ク〕。豆州田方郡韮山支配所軽井沢村地内字ゾウシ場去冬残置(ソ)印初め。三島街道測量。是ヨリ下〔リ〕坂、都〔すべ〕て草野山広シ。此辺ヨリ羅宇竹出ル。字轆轤坂。右駒形権現・観音合殿〔相殿〕。……》(同前)
 オールコックに先立つこと半世紀、第9次伊能忠敬測量隊が東から西に越えた三島街道、こと根府川往還がこれである
《東海道の間道として諸大名・旗本ら武士たちが熱海へ湯治に来るための利用が多かったものと思われる。……軽井沢村は軽井沢から熱海村まで、平井村は軽井沢・三島間の継ぎ立てを行っていた。万延元年(1860)9月イギリス公使オールコックは富士登山の帰りに三島から根府川往還を通って熱海に入った。その様子が『大君の都』に書かれている。》(NPO法人伊豆学研究会伊豆大事典刊行委員会編『伊豆大事典』羽衣出版、平成22年)

 

 車窓の謎が解けたところで、ちょっと脱線。
 鎌倉幕府をはじめ江戸幕府からも深い帰依を受けていた伊豆山修験では、年末12月15日に伊豆山を出発、1カ月かけて伊豆半島を時計回りに一周するという修行が行われていた。ここで『伊能忠敬測量日記』に出てくる日金山、峠の地蔵堂、駒形権現はいずれも伊豆山修験の修行場である。修行行程の最後に当たっている(『伊豆峯次第』宝暦11年写本、昭和8年湯原基筆写)。
  というわけでいずれこの根府川往還を歩いてみたい。富士登頂を果たしたオールコック一行がどんな気分で凱旋していったかを感じてみたい。そしてこのすぐ北を通る東海道とは違った、信仰の道の歴史も味わえるのではないか。
 ついでに些細なことではあるが、山口光朔訳『大君の都』に出てくる「イトシャジン」についても現地で確認したい。 

 

 漢字で書くと糸沙参ではあるが、北欧原産の園芸植物が幕末のこの時季、函南高原に咲き乱れているという情景が想像できるだろうか。オールコックの原文ではharebellであるから、ツリガネニンジンかホタルブクロ、良くてキキョウではないかと思うのだが、いかがなものだろうか。

青木ケ原の熔岩流:吐き出し口から墓場まで その2

 前回の9月22日は、9世紀の半ば過ぎ、富士山は北西斜面中腹の割れ目から噴き出した熔岩流を追って、大急ぎで精進湖まで下った。そして今回は、その熔岩流の終点、溶岩流の墓場を見届けようという企画である。

 

 

 といっても熔岩流の舌端は広い。本栖湖東岸から精進湖東岸、御坂山塊にせき止められた所から西湖の西岸、そして足和田山塊にまで及ぶ。

 まるで現場を目撃したような記録が残っている。

《甲斐国言ひけらく、『駿河国富士大山〔ふじのおおやま〕に忽〔たちま〕ちに暴火あり。崗巒〔かうらん〕を焼砕し、草木を焦殺し、土を鑠〔とか〕し石を流し、八代郡の本栖、并〔なら〕びに■〔せ〕の両〔ふたつ〕の水海〔うみ〕を埋〔うづ〕む。水熱くして湯の如く、魚鼈〔ぎょべつ〕皆死に、百姓〔ひゃくせい〕の居宅〔いへ〕、海と共に埋れ、或は宅有りて人無きもの、其〔そ〕の数記し難し。》〔■=「棧」の旁と「利」の旁の合字。〕
 真偽のほどはともかく、延喜元年(901年)に成立した勅撰国史『日本三代実録』にはこのように書かれている(『訓読 日本三代実録』武田祐吉ほか訓読、臨川書店、昭和61年)。
 もともとこの一帯には■ノ海〔せのうみ〕という大きな湖があって、貞観噴火の熔岩流が流れ込んで西湖と精進湖に分断されたという、1200年前のその現場に行くことはできないか。今回入り込むのは前掲地図のブルー円内であるから、もちろん整備された登山道などというものは、ない。 
        *      *      *
 まずは天気。気圧配置は、今回も前夜に前線が通過して移動性高気圧が張り出してくるパターンであるが、北寄りから季節風を吹き出しているので、回復が遅れるかも知れない。

 

 

 中央本線各駅停車、前から2両目に乗って梁川駅に停車すると、桂川の谷間から向こうに遠い山が見える。手前に見えているのは九鬼山か? 水平視程のいい日はその先に三ツ峠山は御巣鷹山の鉄塔があるのだが、きょうは見えない。雨がぐずつかなければいいが。

 きょうは富士山駅前発9:00の新富士行きバスに乗るので、トイレに行ったりの余裕がある。バスは順調に走って、出発点である「西湖入口」に到着。バス停の標識以外なにもないここで降りるのは我々だけ。
 西湖に入る山梨県道21号を右に見送って富士パノラマラインを精進湖方面に向けて数分歩くと、樹海のあいだに右に入るアスファルト道路が見える。標識は何もない。ここを入る。右側は前回に飽きるほど目にした樹海、ゴツゴツの熔岩塊のうえにツガ・ヒノキを中心にした混交林が広がる。ヒノキが極端に少なくミズナラが目立つようである。
 前回と大きく違うのは左側。熔岩塊が20〜30メートル鋭く切れ落ちた溝になっており、向かい側も急斜面がそそり立っているが、地面は土である。熔岩流ではなく、風化した堆積岩、御坂山塊のお目見えである。
 ほどなく四つ角に出る。右に曲がれば青木ケ原衛生センター、左が林道大和田線。ここを入るといきなり台風による風倒木。

 

 

 ミズナラに寄り掛かかられたヒノキの幹にはひび割れが入っているが、なんとか持ちこたえている。梢は上に伸びるから、20年もたてば見事なS字形檜に仕上がるであろう。
  左は御坂山塊の風化した土壌の急斜面vs.右は苔むしたゴツゴツの熔岩流。その間を進んでいくと右の熔岩の塊が途切れて、熔岩流の最末端は泥んこの平地になる。古い地形図を見ると(後出)この一帯は広い窪地だったようで、御坂山塊の土砂がたまって草原化しはじめているようだ。無数に広がっている足跡はイノシシのもので、背中をこすり付ける木は決まっているようだ。

 

 

 ここから東に向かう。御坂山塊の風化した土壌の斜面vs.苔むしたゴツゴツの熔岩流は続き、われわれ一同はイノシシ一族の踏み跡に導かれて進む。

 

 

 ここは真っ赤な熔岩が《草木を焦殺し、土を鑠し石を流し》湖に流れこんだ最先端である。なぜか先端の1〜2メートルのところがずーっと割れ落ちている。

 

 

 きょうは同行のT氏が法螺貝を手にいれてはじめての登山。ここではどんな音を出しても近隣からの苦情は来ない。そのかわりカモシカが1頭、びっくりして逃げて行った。

 

 

 あれは? 炭焼き窯の跡である。小さいながらも、地面に盛り土して建物の礎石と思われるものもある。原生林どころか、人の生活痕いっぱいである。

 

 

 クワの古木が生い茂り、アオジソが青々と繁殖しているところに出た。

 

 

 ここで明治24年出版、大日本帝国陸地測量部の2万分の1正式図を見ていただきたい。

 

 

 オレンジで塗りつぶした矢印は窪地で、今日ほとんどが埋まって平地になっている。
 黄色で塗りつぶした破線は古道である。これまで見てきたように熔岩流の上はとても歩けない。機械力もダイナマイトも使えない昔の人々は、御坂山地の急斜面を均し固め、御坂山地と熔岩流の隙間を生活道として、精進湖と西湖を結んでいたのである。西湖の古老によると、ここは牛蒡平という。土壌が深くて土がいいのでゴボウを作っていた、お蚕のクワの葉はここから運んでいた、ということである。
  地図の水色に塗りつぶしたところは桑畑のマークである。

 

  このあと山梨県道21号線に出て、こんどは整備されたハイキング道を野鳥の森公園まで歩く。といっても紆余曲折・登ったり下ったりの熔岩流の上で、両側は規模の小さい風穴の連続である。ここから西湖周遊バスで富嶽風穴まで行き、そこから富士パノラマラインをまた3キロ歩いて辿り着いたのがジラゴンノ熔岩流の露頭である。

 

 熔岩の厚さが最大で10メートル、横幅200メートルのこの露頭は天然ものではない。熔岩採石場の跡地である。


 

 

 このアリジゴクの跡だらけの赤っぽい砂は、3000年前に噴火した大室山のスコリアである。その上に1150年前の貞観噴火による熔岩が流れ込んできたのである。そこでこの火山灰を掻き出してしたを空洞にすると、ミリミリメシメシ、熔岩の塊が落下する。そのときもともとあった熔岩の収縮亀裂に沿って割れるので、あとで加工がしやすい。しかもこの熔岩に含まれている小さな気泡のおかげでひじょうにおいしい焼き肉ができる、熔岩焼きですね。

 

 

 もうひとつ面白いのは、この中間にある空気穴。ふつう熔岩は後から流れ出たものが上に重なるが、ここでは粘性の低い熔岩がたまって表面だけが固まっているときに後出しの熔岩がカサブタの下に潜り込んでしまったのだそうである。これを熔岩膨張(インフレーション)というそうで、その境界線が見えるのが面白い。

 

 

 もうひとつ問題になっているのがこのギザギザ部分。現地の看板の説明によると地面の植物などの水分が熔岩の熱で噴出した水蒸気噴気孔(スパイラクル)ということになっているが、最近の学説では否定されているようだ。そうではなく、熔岩樹型がインフレーションによって竪に引き裂かれたものであるという。
 さいごにジラゴンノについて説明しておいたほうがいいであろう。単なる地名である。
 山梨県東部、郡内地方の中世の用語では、長兄=太郎はタラ、次郎はジラというそうである。タラは富士山本体であるが、ちょうどこの場所を甲斐と駿河を結ぶ若彦路が通っており、ジラとしては富士山の裾を借用=権能ゴンノウしたという。(「鳴沢村のなぜなぜ物語」http://www.vill.narusawa.yamanashi.jp/forms/info/info.aspx?info_id=15628


 

 

 ジラゴンノ熔岩流露頭のすぐ北側にあるのが本日の終着点、「道の駅なるさわ」。バス停に着いたとき、ポツリポツリときたが雨というほどにはならなかった。
 その1でぽつりと漏らしておいたが、来年は新緑のころに、大室山単独登山を目的にもう一度来ることにしよう。

オールコック異聞  その3

 3月といえば青春18きっぷが使えるようになるので、恒例の静岡通いが始まる。静岡県庁近くの民間ビルに しずおかけんりつちゅうおうとしょかんれきしぶんかじょうほうせんたー という一息では発声できないように長い名前の施設がある。端的にいえばかつて『静岡県史』シリーズが編集されたおりに集められた史資料の倉庫のようなところで、一般公開はされているのだがわたし以外の閲覧者はゼロという日が多い。
 嬉しいことにここでは静岡県内に残っている明治以降の古新聞がマイクロフィルムからプリントアウトしてクロス装で製本してある。新聞1ページがA3に縮小されているのだが、パッと開いて1ページ全体が見渡せるので、フィルムリーダーを覗くのに比べて3倍ぐらいスピードが上がる。

               

 このところ『静岡民友新聞』をめくっており、3月19日には大正11年4月分の閲覧に差しかかった。と、久々にめぼしい記事にぶつかった。

「泰西人最初の富士登山者 英国公使オールコツク氏の記念碑及び愛犬の墓碑(熱海)」、静岡民友新聞社は後藤粛堂記者の7回連載ものである。 
 


 この記事によると、先に示した熱海・大湯間歇泉の石碑は事故の翌年になってオールコックが送ってきたもので、オールコック自身が建立したものであることが分かる。そうすると、やはりきちんと自分の目で確かめておきたい。
 チャンスは7月9日にやってきた。富士山は村山入山式に向かうとき、熱海で途中下車したのである。ただし朝日がちょうど順光になっていて、陰刻の文字がよみづらい。石碑まで上がって行って、かろうじて読みとることができた。 
 

 

 右の石碑:
《 南無阿弥陀仏
      徳本〔花押〕》
 むかしこの噴出口に甲虫が群がり、熱湯に吹かれて死ぬ様が哀れであった。たまたまこの地に巡錫された徳本上人が梵法をおこないこの名号石を建てたところ、ふたたび虫は来なくなったという。文化12年(1815)のことであろう(『あたみの碑と像とレリーフ』熱海市観光施設課編、発行年不明)。ケチを付けるわけではないが、虫には効いたがスコッチテリアには効力がなかったらしい。
 中央はトビーの墓:
《 Poor Toby!
     23 Sept. 1860 》
  この墓石はいちど行方不明になったので、大正7〜8年の大湯改修工事のとき、熱海館主の岡野さだ氏が寄贈した2代目らしい。
 左がオールコックの富士登山記念・熱海訪問記念碑:
《                    予奉國命寫日本荏土府十有六月公暇無事茲萬延元年
                   庚申七月十八日發江都廿六日登冨士山廿九日到豆州
RA(September 1860) 羅多保津斗安有留古津久英國美仁須登留
                 浴熱海温泉十有四日愛玩山海奇勝之餘建此石使後人
                 知英人遊干此自吾輩始矣 》

 繰り返すようであるがこれは墓碑ではない。オールコック自身が造った富士登山の記念碑である。

  途中で間歇泉が噴き出してびっくりしたが、噴出量がすくなくて背中に飛沫がかかっただけで、トビーの二の舞に遭わないですんだ。
  徳本上人による護法の効き目は、わたしのばあい虫と犬の中間らしい。

オールコック異聞 その2

「その1」を上梓(アップロード)したのが7月27日だから、あの殺人的な猛暑をくぐり抜けてずいぶん間延びした話のようになるが、舞台はまだ2017年が暮れて、新年になったばかりである。
  年が明けて3月初め、「富士山学を拓く」と銘打った国際シンポジウム(静岡県富士山世界遺産センター・ふじのくに地球環境史ミュージアム共同主催)が開かれ、2日目の3月4日にイリノイ大のロナルド・トビ氏による「富士山国際化の前史−−江戸期の言説を中心に」と題した基調講演があった。

 そのなかで『日本とペチリ』の著者であるエワード・ド・フォンブランクの紹介があった。おお! るこっく、彼こそはまさにオールコック隊の一員として富士登山に参加しており、オールコック登山の貴重な側面記録を残してくれていたのである。
 トビ氏の説明では、ド・フォンブランクは著書の中で《富士山の図》を紹介しているという。調べてみると『馬を買いに来た男−−イギリス陸軍将校の幕末日本日記』(宮永孝訳、雄松堂、東西交流叢書13、2010年)というタイトルで翻訳・出版されており、その絵図は《富士山の全景》として収録されている。

 

 どこかで見た絵図だなあと首を捻る間もなく、この絵図は《富士山表口眞面乃圖》(麗山白石圖、富士山別當村山興法寺三坊蔵板)の忠実な模写であることが分かる。


  この絵図は、駿河湾岸から富士山頂までを俯瞰した大画面で、西は三保の松原・清見寺から東は沼津・千本松原まで収められている。中間には、愛鷹山と麓を巡る根方街道と下方五社などの社寺、甲斐に向かう南西麓には日蓮宗の富士五山や白糸瀧などの名所が描かれている。登山道は富士川東岸から大宮浅間に向かうルートと吉原宿の西外れからじかに村山に向かう道も明記されている。

 歴史的に意味があるのは村山に「村山浅間御造営所 一山守護不入之地」とあって、周辺に「辻ノ坊」「大鏡坊」「池西坊」の3坊が配置されている。この村山3坊がこの絵図の板元である。山頂に「大日」があり、左上の囲みには村山浅間の由来が書かれていることにも注目しておきたい。
 ド・フォンブランクの絵地図ではマンガの吹き出しのような文字部分は完全な空白になっているが、図柄は《富士山表口眞面乃圖》に忠実にコピーされている。どういう技術を用いたのであろうか。        
 ここでもう一つ注意喚起しておきたいことは、全体の構図がしっかりしていて、細部の描写がひじょうにうまいことである。山襞や植生の描き方に写実性があり、社寺林の描き方も巧みに変化を持たせて画一的ではない。
 麗山白石とは何者であろうか。
 あまり詳しい研究はいまだないようであるが(「富士山と酒を愛した画家・神戸麗山」〔ローリング父さんの富士探遊日記〕)、分かっているところを簡単に紹介しておこう。麗山は享和2年(1802)、駿河国庵原郡で医師の家に生まれたが、幼少より書画に秀で、家業を弟に譲って、文政9年(1826)京都は岸派の人気画家・岸岱に師事している。

 絵図を描かせてもうまいわけだ。
《麗山為人清恬寡慾平生酒ヲ好ム時ニ或ハ連日頽然タリ其ノ画風勁抜能ク岸家ノ蘊奥ヲ得タリ富士図最其ノ得意トスル所ニシテ其ノ世間ニ伝フルモノ亦頗ル多シ静岡浅間神社ニ富岳図ノ扁額アリ天覧ノ印ヲ押捺セリ……岸岱曾テ猛虎図碑ヲ富士山頂ニ建立セントスルヤ麗山其ノ図ニ竹石ヲ合作ス》(「神戸麗山之伝」静岡県立葵文庫資料)
  その後の天保12年(1841)、岸岱から「白石」という号をもらっている。

 話はさらに脱線していくのだが、《富士山表口眞面之図》にはそっくりの絵図がもう1枚ある。



  よく似てはいるが、注意深く見ると大いに違う。まず描線に勢いがない。描かれた道幅が違う。富士山中腹は狭く手前の平地で広いのは遠近法を採ったためではないであろう。道のカーブの省略、山襞や里の田畑の描線が少ないことも勘案すると、手抜きと考えたほうが自然である。なによりも麗山図に比べて、全体から粗雑であるという印象を受ける。
 絵図の説明内容も違っている。「大宮浅間」は「本宮浅間」となり、「村山浅間御造営所 一山守護不入之地」は「奥院大日 根本宮浅間」となり、山頂にあった「大日」は消えて「頂上浅間神社」となった。富士山に吹き荒れた廃仏毀釈の結果である。
 左上の囲み記事は子持ち罫から表罫に変わり、内容は大山・江ノ島・身延山などまでの里程標、つまり観光案内になってしまった。
 作者は左下に《画工 彫工 太田駒吉》となっている。
 太田駒吉といえば、浮世絵の名人彫り師しか思い浮かばない。
《彫駒こと太田駒吉が語る、彫巳(ほりみの)についての技量です。すなわち、役者東海道五十三次の白須賀の猫婆を彫ったのは、巳の、十八の時だと言い、「あの猫婆の長い髪の毛が、ちゃんと毛筋が通り、本はこまかで末まで広がり、しかもフワリとして一本も乱れて居ない手際、あの百枚余りの続き絵の中で、第一等の出来で、当時大いに評判されたものだった」とするのです》(「浮世絵を読む」http://ukiyoe.cool.coocan.jp/kaisetsu.htm
 彫り師の天才も画家としては二流以下だったのか、あるいは駒吉工房のようなところでやっつけ仕事をしたものかもしれない。
 ところで、この地図はいつ発行されたものであろうか。
『富士山村山口登山道跡調査報告書』(富士宮市教育委員会編・発行、平成5年3月)には、「明治7年村山浅間神社発行登山案内図」としてこの地図が掲載されている。

『描かれた富士の信仰世界』(企画展図録、富士吉田市歴史民俗博物館編、富士吉田市教育委員会発行、平成5年5月)にはこれが「富士山表口真面之図 明治初期」として収録されている。発行年に疑惑が生じたのかもしれない。

 そして『村山浅間神社調査報告書』(富士宮市教育委員会編・発行、平成17年)には「富士山表口真面之図(明治13年 村山浅間神社発行)」として載せられている。どれが本当なのか。
  最近になってかなり信憑性のある論考が発表された。
《富士山大掃除は、多数あった仏像類を取り払い山頂景観を変えた。この変化は絵図からも確認できる。村山では、明治十三年に絵図の版木を再版した。「富士山表口真面之図」の版木背面には、「明治十三年庚辰年六月頂上図共再版之」「富士宗四郎・富士太郎・三井環・長谷川静宏・旭近尓」と刻まれており、村山の人々によって再版されたことが分かる。》(梶山沙織「富士山頂の信仰世界」『日本一の高所・富士山頂は宝の山』しずおかの文化叢書21、静岡県文化財団、2016年)

 

 では麗山図はいつ発行されたものだろうか。
 話を元に戻すことになるが、ド・フォンブランクは富士登山の翌月には中国に戻っている。日本で軍馬と糧秣を買い付けて中国駐留のイギリス軍に送ることが彼の任務だったからである。

 このことからオールコック登山隊は麗山白石の《富士山表口眞面乃圖》を携帯していたことが類推できる。この登山絵図はそれ以前につくられたものということになる。
  幕末の大宮には先の酒屋さんの日記のほかにもう一つ日記が残っていて、筆者は大宮町の町役人で、『角田桜岳日記』(28字×26行×2段、全5冊2000ページ、富士宮市教育委員会、平成16〜21年)として翻刻されている。
 桜岳は麗山白石の親しい友人であり、いっしょに酒呑んだとか借金取りから庇ったとかまで書かれているほどである。

 じつはわたしは前記通院中にこちらもぜんぶ目を通したのだが、この麗山の絵地図発行のヒントでもないかというのが一つの目的でもあった。しかし残念ながら、そのときは何の手掛かりも得られなかった。

 そしていささか遠回りではあったが、今回ここに図らずもこの地図の製作は、麗山が白石号をもらった天保12年(1841)以降、オールコック富士登山の万延元年(1860)以前だということが分かったのである。

 

  以上まで書いた翌日未明、夢枕に役行者が立たれた。
「角田桜岳日記はボロボロの底抜け笊ではないか、欠落部分に重要な情報が隠されていることを読者に伝えよ」
  その必要性は分かっていたのだが、じつはそれだけは避けたかった。旧暦の日数の計算が面倒なのである。

 当時の暦は現在と違って各月ごとの日数が固定していない。大の月30日、小の月29日を組み合わせって1年12カ月を構成することになっているが、組み合わせは幕府天文方が決定したその年ごとの暦を見ないと分からない。しかもときどき閏月を入れて閏年の調整をしているために1年13カ月の年もある。

 えいッ! 一日単位の計算はやめて一月単位に丸めた数字でも意味は通じるだろう。ということで計算したのが、以下の一覧表である。
 左の日付は『駿州富士郡大宮町 角田桜岳日記』の目次から拾った数字、右は日記の残っている部分と欠落部分を計算したものである(内田正男編著『日本暦日原点』雄山閣出版、昭和50年を利用した)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 天保12年閏正月11日〜天保12年6月5日      5カ月残って1カ月欠落
 天保12年7月9日〜天保12年8月26日        1カ月残って8カ月欠落
 天保13年4月24日〜天保13年5月29日       1カ月残って1カ月欠落
 天保13年7月7日〜天保13年12月2日        5カ月残って6カ月欠落
 天保14年5月24日〜天保14年8月14日       3カ月残って4カ月欠落
 天保15年正月11日〜天保15年7月8日        6カ月残って4カ月欠落
 天保15年11月13日〜弘化3年6月15日       20カ月残って5カ月欠落
 弘化3年11月1日〜弘化3年12月9日         1カ月残って3カ月欠落
 弘化4年3月16日〜弘化5年5月16日         14カ月残って2カ月欠落
 嘉永元年8月1日〜嘉永元年9月20日          1カ月残って1カ月欠落
 嘉永元年10月11日〜嘉永2年5月30日        8カ月残って2カ月欠落
 嘉永2年8月19日〜嘉永2年9月20日         1カ月残って57カ月欠落
 嘉永7年5月17日〜嘉永7年7月9日          2カ月残って8カ月欠落
 安政2年2月21日〜安政2年4月11日         2カ月残って2カ月欠落
 安政2年6月16日〜安政2年7月26日         1カ月残って38カ月欠落
 安政6年正月23日〜安政6年4月6日          3カ月残って5カ月欠落
 安政6年9月12日〜安政6年11月23日        2カ月残って1カ月欠落
 安政6年12月24日〜安政7年3月10日        3カ月残って30カ月欠落
 文久2年8月27日〜文久2年9月20日         1カ月残って……
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 残っているのはたったの3分の1かと言うべきか、よくぞこれだけ残っていたものだと評価すべきか。
 この一覧表の始まりと麗山が「白石」の号をもらった年は一致している。『角田桜岳日記』はまだまだ続いていくのだが、一覧表の最後のところ、安政7年3月11〜文久2年8月26日の後の30カ月間の日記欠落部分にオールコックの富士登山がおこなわれている。

 すなわち安政7年3月18日に改元があって万延元年となり、翌万延2年2月19日にさらに改元があって文久元年になる。この間の万延元年7月27日(グレゴリオ暦1860年9月11日)にオールコックが富士登頂を果たすのである。
 これら多数回の、長期にわたる欠落部分に、麗山の《富士山表口眞面之図》製作過程が書かれていたと考えていいだろう。

 しかしもはやこれ以上打つべき手段はない。       

 

 

 

青木ケ原の熔岩流:吐き出し口から墓場まで その1

 貞観6年(864)から2年間、富士山北西面の割れ目から熔岩流が吐き出されて青木ケ原樹海がつくられたという。

 熔岩の量は14億立方メートル――縦横高さが1キロの立方体1杯分――で、30平方キロ――東京ドーム640面――の広域に及んで、水深100メートルのセノウミを埋めて西湖と精進湖に切り離した。

 今回はその樹海ではなく、土台となった熔岩流そのものを、吐き出し口からどこまで流れていったか墓場まで観察しようという企画である。
 出発の前日、9月21日18時の現況天気図では、秋雨前線がどっかと本州の東西に横たわっている。

 

 希望を持たせるのは翌朝、22日06時の予想天気図である。

 寒冷前線が未明に通過して、移動性高気圧が張り出してくる図柄である。日本海を北回りで高気圧が南下するばあい、天気の回復が遅れることもあるが、このように南回りでせり出してくるのは吉兆である。
  22日は4時に起床、新聞を取りに出ると霧雨である。気象庁の地域時系列予報「山梨県東部・富士五湖」を見ると、午前9時ごろまで雨が残りそうである。スバルライン三合目を潜るトンネル内で、青木ケ原熔岩流について1時間ぐらい講義して時間稼ぎすることになるかなと思って家を出た。
  小田急線・横浜線・中央線と乗り継いでいくたびに空が明るくなり、四方津では日が差してきた。富士急線で三つ峠駅を過ぎると青空の下に富士山が半分みえる。

 

  全員ぶじ登山バスに乗り換えてスバルライン三合目で下りたのは我々8人のみ。雲はかかっているが空気は乾いている。精進口登山道の概要・資料説明をして出発。
 初めのうちは溝状に抉れた土の道で、富士山本体ができた1万年前のスコリア(多孔質の小石)である。ところどころ雨水に浸食されて熔岩流が露出しているが、登山道と同じ安定勾配だから歩く邪魔にはならない。ウラジロモミの風倒木が目立つが、きれいに掃除されている。この辺り、笹枯れのあとにはミヤマシキミが進出している。

 

 しだいに笹が増えてきて、二合目・富士林道から下は背丈を超す笹になるが、大きく右に、ほぼ直角に曲がる正面の藪の中に踏み跡が見える。

 ここに踏み込むと直径50メートル・深さ10メートルほどの円形窪地がある。斜面から底には苔にくるまれた巨岩がゴロゴロ、乱雑に折り重なっている。とりあえず氷穴(こおりあな)火口列火口1と名付けておこう。

 

  登山道は火口列からいったん離れるが、左に曲がってふたたび右に大きく湾曲するところで、氷穴火口列火口2を見ることができる。

 

 そして火口2の手前に、直径5メートル・深さ5メートルの火口3がある。ここは周囲がぐるりとオーバーハングになっているので、落っこちると、しかるべき道具がないと救助できない。

 

 私がいつ初めて精進口登山道を登ったか記憶にはないが、ここに変な穴があることは気づいていた。なんとなく単発の噴火口だろうと思っていたのかもしれない。はっきり意識したのは15年ほど前である。富士砂防工事事務所(現・富士砂防事務所)の広報誌『ふじあざみ』(第38号、平成14年10月1日)に青木ケ原のレーザー測量写真が掲載されて、これは単発の噴火口ではなく割れ目噴火の火口列だということが分かったのである。

 


 レーザー測量の原理と分解能についてここでは触れないが、これまでの可視光線の航空写真ではぜったい見えなかった登山道の屈曲もはっきり識別できる。この写真からは火口が20以上数えることができる。火口1、火口2も、ここだと指摘できる

 ここを過ぎると傾斜が緩くなって水平近くなり、間もなく一合目・鳴沢林道に着く。横切っているのは甲斐から駿河に抜ける室町時代以前からの若彦路で、ちょっと左に行くと天神峠、峠を越えると氷池にかかわる富士講の石碑があるが今回は割愛して先を急ぐことにしよう。
 このあと長尾山の裾でふたたび風損木が何本も現れるが、こちらは誰も手入れをしていないので、潜れるところは潜り、ばあいによっては迂回する。

 

 このあとは熔岩流のうえに土盛りした直線路を延々と歩いて、ようやく大室山の登山口に着く。
 大室山は3300年前に噴火した円錐形に近い側火山であるから、1200年前の貞観噴火の熔岩流の海に浮かんだ島のようなものである。しかも大室山は熔岩ではなくスコリアを噴出している。

 

 この写真の手前の砂地むき出し部分が大室山の裾のスコリアで、向こうの苔にくるまれているのが熔岩流である。

 

 熔岩流の上の植生は貧弱だが、スコリアには大森林が発達する。

  本日の予定にはこの大室山登山が含まれていたが時間がない。来年は新緑のころに、大室山単独登山を目的にもう一度来ることにしよう。
  風穴というのは火口ではない。熔岩流がたまって冷え固まるとき、カサブタの下にガスが集まって空洞をつくることがある。パチンと弾けてトンネルの入り口が露出する。大室山のすぐ側にある富士風穴は奥行きが230メートルもあり、一年中氷柱も下がっているが、今回は取り急ぎ入り口広場に下りるだけ。

 

 あたふたと上がってきた時はすでに3時15分。

 昭文社の山と高原地図『富士山』によれば、ここから精進湖湖畔の赤池バス停まで95分かかることになっている。河口湖行きバスが4時54分発であるから、まだ間に合う。急げ!
  我々が赤池バス停に着いたのは4時50分。バスは7分遅れの5時01分に到着。

 バス停手前1キロの辺りで、平服でビニルの500円傘を突いて佇んでいる若い女性がいた。両側には薄暗い青木ケ樹海が続いている。「大丈夫ですか?」「はい」
 バス停の道路際に富士五湖消防本部河口湖消防署上九一色分遣所というのがあって、訓練中の隊員にそのことを伝えたところ、「貴重な情報、ありがとうございました」と挙手の挨拶が返ってきた。あの女性ぶじに帰宅できただろうか。
  バスの窓から見ると、茜色に染まりはじめた富士山が、そんなこと知らんよと顔を出していた。

 

                     *                             *                       *
 ここで国土地理院の地形図について言及しておかねばならないだろう。
 今回の山行は、全行程を国土地理院地形図に記載の登山道を歩いたはずである。氷穴火口列火口に入ったときも、荷物は入り口に置いてルートを外れ、また元の位置に戻って出発している。藪漕ぎの新ルートは通っていない。一方でGarminのGPS受信器は腰に着けて歩いたから、全行程の位置情報は記録されているはずである。
 ところが、地形図上の登山道とGPSデータによる歩行位置が合致しないのである。地形図が正しいとすれば我々は登山道を無視して背丈を超える笹藪のなかを歩いたことになり、GPSデータが正しければ地形図はでたらめということになる。
ちなみに手持ちの1:25000地形図、甲府8号富士山の1「鳴沢」の〔昭和31年発行、地理調査所:旧版〕と〔平成27年発行、国土地理院:新版〕を比較してみよう。

 


 中央を斜めに横切る一合・鳴沢林道から左上は両者ともほぼ一致しているが、右下部分は驚くほど食い違っている。とくに問題にしたいのは精進口登山道の「一合」と「二合」の部分である〔黄色部分〕。一般的に言って発行年が新しいほど正確度は増すはずと考えられるが、今回はGPSデータとは似ても似つかない登山道になっている。

 

 とりあえずは旧版にGPSデータを重ねてみよう。方法は、近所に固定した三角点がないので、地形図の「一合」地点と「二合」地点を基準点として、GPSデータを拡大してその2点に重ねたのである〔赤線〕。

 場所のズレはあるが、登山道の屈曲具合はそれなりに反映されていることがお分かりだろうか。「氷穴」の右斜め下には、点々と小さな火口列も描き込まれている。地形図作成者が現地を歩いた情報に基づいていることがうかがえる。
 ところが新版はのっぺりした登山道となっており、GPSデータとは懸け離れている。現地情報はまったく反映されていない。
 さいごにもう一度、先に触れた『ふじあざみ』の記事に触れておきたい。

 

 ここには可視光線写真とそれに基づいて作成された地形図、レーザーパルスによる立体画像が掲載されている。右下の立体画像に注目していただきたい。
 弓射塚とイガドノ山の位置と形がはっきり分かり、登山道の屈曲もくっきりしている。

 しかも、左上の地形図を見ると、どうやらそれらの情報をしっかり反映した地形図があるらしい。

 近いうちに東京・大手町にある国土地理院関東測量部に行って、1:25000地形図「鳴沢」の全図歴を調べてみることにしよう。