寒の最中に梅雨前線!!

 けさ6時の現況天気図をご覧いただきたい(http://www.jma.go.jp/jp/g3/)。

  本州の東海上1500キロにある低気圧から西に伸びる前線は、本州南岸沖を通って台湾近くまで及び、さらに華南の内陸部にまで達している。日付を隠せば、これは梅雨期の天気図だと言われても違和感を持たないだろう。
 これが今週末から来週後半までつづく雨の正体である。
 寒の最中に梅雨が来た!
 ちなみに、23 18:00UTC JAN 2020 の太平洋域天気図、すなわちけさ2時現在の広域天気図(http://www.jma.go.jp/jp/g3/asia.html?area=jp&time=20012406)もながめてみよう。

  中心示度1044ヘクトパスカルのシベリア高気圧は台湾のすぐ北まで張り出してはいる。しかし太平洋高気圧はというと北緯30度近くまで北上、緯度でいうと台湾より北に鎮座している。
  もともとの気象学教科書によれば、この時期、太平洋高気圧はもっと南、亜熱帯で英気を養っているはずであった。春になるとこの太平洋高気圧が北に向かうことになる。そうはさせないと冬の王者シベリア高気圧が抵抗する。そのときの押しくら饅頭が、春から夏のあいだに起きる梅雨である。
  ちょっと古い話になる。
 もともと雪国として雪に慣れていたはずの北陸地方を中心に、大きな被害が出たサンパチ豪雪というのをご存じだろうか。
《1962年(昭和37年)のクリスマス付近を境に、まとまって降り出した雪は翌1963年(昭和38年)には本格的な大雪となった。気温が平年より3℃前後も低い異常低温となり、日本海側では日照時間の短さが加わり、降雪のほとんどが融けずに蓄積することになった。豪雪の中心は新潟県・北陸地方から西の日本海側であった。寒波は1月末頃ピークを迎え、長岡市や福井市など、北陸地方の都市部でも積雪が2m以上に達した。》(https://ja.wikipedia.org/wiki/
 このときの極東天気図をながめてみよう(http://agora.ex.nii.ac.jp/)。

 さきに示したけさの太平洋域天気図によく似ているなあと感心しないで、等圧線と各所の観測地点に描かれている矢羽根の向きに注目していただきたい。
 シベリア高気圧からの吹き出しが、華南どころか台湾の南東海上、さらにフィリピン海域にまで及んでいることが分かる。中心示度が高いだけでなく、範囲が桁違いに広い。
 いっぽう太平洋高気圧はどうかというと、フィリピンのはるか東4000キロかなたの海上に鎮座している。日本の冬など、われ関せず焉という態度である。もともと、北半球が冬の時期の太平洋高気圧の定位置はここであった。
 サンパチ豪雪の原因として当時ささやかれた原因は、地球の中緯度付近を流れている偏西風の南北蛇行が大きかったためということであった。そのころはまだ地球温暖化という危機感は薄かったように思う。
  ここ10年来気になっていたことがある。
 むかしはフィリピンの東の海、赤道付近に熱帯低圧部といわれる場所があり、台風の産屋とされていた。そこで生まれた熱帯低気圧は西に向かい、フィリピン近海で台風となって北上、じっくり発達しながら日本付近に到達するものとされていた。
 ところがいつの間にか、梅雨明けを告げる太平洋高気圧の張り出しと同時に、そのすぐ南側にその熱帯低圧部がくっいてきていて、ぽこぽこ台風を打ち出すようになったのである。至近距離だから進路が予想できない、2個3個と複数だから動きが複雑になる、気温差が大きいのでいきなり発達するという傾向が強まったようである。
 今回の寒中梅雨前線はその伝でいうと、冬の間はフィリピンの東でおとなしくしていたはずの太平洋高気圧が、緯度でいうと20度も北上してしまった結果ではないか。
 3月下旬ともなれば、菜種前線・菜種梅雨という現象は昔から知られていた。季語にもなっている。ただしこれは移動性高気圧の谷間に通過するもので、気圧配置の構造が原因ではない。
 これからのお天気判断は、長期的な地球温暖化の影響を加味しながら考えていかなくてはならないようである。嗚呼!

思いもよらぬ歴史的発見 補足

 先に山梨県芦川渓谷にある古刹で室町時代の制作とされる役行者画像を発見したことを書いたが、役行者の真言が違うではないかと、鋭い質問が寄せられた。
  なーむじんべんだいぼさつ
  なーむじんべんだいぼさつ
  なーむじんべんだいぼさつ
 ではないかと。   
 確かに現在ではその通りであるが、われわれが立っている舞台は室町時代である。当時なんと唱えていたいう資料をわたしは知らないのだが、少なくとも現在のとおりではなかったはずだという時代考証の結果、あのように書いておいたのである。

 たとえば、和歌山県紀の川市の中津川には、現在でも修験者の修行を支えてきた五鬼とよばれる家々があり、行者堂境内には「役行者大菩薩」と刻んだ石塔が残っている

(「修験道場 中津川 行者堂」https://imachika.com/item/5a73576d23679c47e003041a/)。

 ところが役行者の真言にはちょいとした歴史がある。
《聖護院は、寛治四年(1090)、白河上皇が熊野に行幸された際、その先達を務めた増誉に、その功として建てられた寺院です。……天明八年(1788)の大火で御所が炎上してしまった際は、光格天皇が仮皇居としてはお住まいになり、政務を執られていたこともありました。そして、寛政十一年(1799)、光格天皇は役行者に「神変大菩薩」との諡号を贈っていますが、それはこの聖護院においてのことでした。それ以来、役行者を礼拝する折には、「南無神変大菩薩」と唱えるようになっています。》(『役行者霊蹟札所会』http://www.ubasoku.jp/organization/36jisha/shougoin.htm
 次に示すのはその時の勅書であり、全文が光格天皇の親筆とされる。

 画像データがなかなか入手できないので『山伏の総本山 聖護院門跡』(本山修験宗総本山聖護院門跡発行のパンフレット、発行年不明)からコピーさせてもらった。
 ブォーオーブォーオーブォーオォオオォー ブォーオーブォーオーブォーオォオオォー

思いもよらぬ歴史的発見

 甲府盆地のいちばん南のはしっこ、右左口(うばくち)峠の登山口に真言宗は七覚山圓樂寺がある。薬師如来が本尊であるが、ぼろぼろの木造役行者半跏像が有名である。胎内に延慶2年(1309)の修理銘をもち、わが国最古の役行者像とされる。

 われわれが興味を持ったのは、この寺と富士山の関係である。
《大宝元年(701)辛丑、役行者小角(おづぬ)の草創にして、此所より始めて富士登山の路を開けりと云ふ。されば富士の北麓に祀れる行者堂は明治の初頃までは、当寺にて之を摂掌し、登山者に金剛杖を施与したりしとぞ。》(『東八代郡誌』大正3=1914年)。
 つまり明治初年の廃仏毀釈までは、富士山北麓にある行者堂を圓樂寺が管理し富士登山者に金剛杖を与えていたというのである。
 しかも《昔シ役ノ小角富士登山ノ時此ノ処ヨリ発シ迦葉(かしょう)・阿難ノ二嶺ヲ踰(こえ)エテ精進・西海(せのうみ)・長浜・大嵐・大田和・成沢数村ヲ経テ直ニ御室ニ達ス》(『甲斐国志』文化11=1814年成立)
《二合目ニ小室浅間明神ノ社アリ……役ノ行者堂ハ浅間社ノ西ニアリ本尊ハ役ノ行者八代郡右左口村七覚山圓樂寺兼帯ス……圓樂寺ハ本(も)ト山伏ノ住山ニテ其ノ徒小角ノ跡ヲ追ヒ此ノ山ニ入ルヲ修行トス故ニ小角ヲ此ノ地ニ祭ルナルべシ此ノ処役銭十二銭ヲ収ム毎歳六七月圓樂寺ヨリ僧侶来リテ修法アリ》(『甲斐国志』同前)
 役行者ご本人がこのルートで登山したかどうかはともかく、圓樂寺の役行者像が山伏に背負われて富士山二合目まで通ったことは十分ありうることである。
 戦国時代の文明19年(1457)、聖護院(しょうごいん)門跡(もんぜき)・道興准后が東日本を巡行したおりこの圓樂寺に立ち寄っている。
《是より七覚山と云へる霊地に登山す。衆徒山伏両庭歴々と住める所なり。暁更に至るまで。管絃酒宴興をつくし侍りき。……翌日この山を出で。同じ国吉田と云へる所に到る。富士の麓にて侍りけり。》(道興准后『廻国雑記』)
 よし! このルートを探してみよう。われわれ特定非営利活動法人「富士山ふるさと研究会」のメンバーが初めて踏み入れたのは平成26年(2015)11月のことであった。
われわれが想定したのは戦国時代の甲斐修験の道である。歩いたのはプロの山伏であるから旅宿による商業的な道標などあるわけがない。
《陰山代表と畠堀さんは口々に言う。「トンネルも地図もない時代に、修験者がどうやって経路を選び、登山を続けたのか。中世には石碑などを残す習慣はなく、痕跡を見つけるのは難しいと思う。山をさまよい、数百年前の山伏の残映を嗅ぎ取ろうという夢のような話です」》(『朝日新聞』2016年6月25日付山梨版「それ行け!山梨探偵団」)
 証拠を固めていく歴史探訪ではなく、情緒的な歴史エッセイの旅である。
 ただし山伏にとってこれは身命を賭した修行登山ではない。例年定期的に通う道があったと思われる。大雨ごとに踏み跡の変わる沢筋に踏みこむことは避けて、尾根道を繋いだはずである。明治20年代に参謀本部陸地測量部から発行された2万分の1正式図と、われわれの限られた個人的体験からくる“山勘”が山中での指針になった。 

 右左口から芦川流域までの迦葉越えは3ルートを試登してそれなりの感触を得ることができた。
 芦川から精進湖までの阿難越えは、初めから中道(なかみち)往還は避けた。もともとは織田信長凱旋のために徳川家康が造った軍事道路で、江戸期には駿河の吉原から甲府・魚町まで一晩で鮮魚を運んだという“魚の道”ではあるが、維持・管理は大変である。最近では、昭和41年(1966)9月の台風26号で発生した土石流が、石畳のつづく道路も集落も壊滅状態にしている。
   
 われわれが選んだのはすぐ西にそびえる釈迦ケ岳越えの尾根道である。馬が通える生活道跡が残っていた。賽ノ河原に擬しうる岩礫帯もあったし、すぐ西にそびえる蛾(ひる)ケ岳は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、すなわち大日如来の転訛ではないか。
 さらに精進湖から西湖までは、青木ケ原樹海の熔岩流を迂回する道が御坂山塊の山中や熔岩流の隙間に造られていた。桑の古木など古い出造りの痕跡がいまでも残っている。
 いまより水面が高かった西湖の北岸崖上にも、地元民の生活道が残っていて、河口湖まで続いていた。
 いくつかの疑問も発生した。その一つが釈迦ケ岳山頂に鎮座する石仏である。
《釈迦ガ岳ト云ハ僧譱魁覆舛腓Δ佑鵝縫釈迦ノ像ヲ安置セシ処 旧址山上ニアリ白キ野面石ノ柱礎処々ニ見ユ 山中ニハ曽テ無キ石》(『甲斐国志』)

 これがお釈迦さんかなという疑問も湧くが、譱骸信が彫ったという説もある。
《譱核〇嫗教貔廛鮗坤魯鷸ヲ憂フテ自身親(みずから)ラ白みかげの河原石ヲ以テ伝来ノ釈迦像ニ模擬シテ石仏弐躰ヲ作り往時釈迦ノ立チ玉ヒシ跡即チ釈迦岳ノ頂上卜寺ケ川ノ川辺ニ建立セラレテ今ニ歴然トシテ存在ス》(『釈迦縁起録』昭和60年発行の『上九一色村誌』が引用)
 ところが山麓の芦川河畔・平川にある古刹・永泰寺の釈迦堂には次の説明板がある。
《口伝に由れば……奈良東大寺の僧譱各宋(にっそう) 永延元年(987)仏像を携え帰朝 後年間模刻の仏像を釈迦ケ岳頂上に堂宇を構えて安置すと  建治二年(1276)七月暴風雨に尊像埋没せるを土着の老翁寺川畔に奉安す 元亨三年(1323)夢窓国師尊像を崇慕し求めてこの地に留錫座禅観法為(な)し給う時五月風水害に遭遇す尊像随侍の霊妙なる大亀危難を救い国師の済度に化石となる 国師平川に既存の草堂を改築し安処せしめ尊像の安泰と国家の安穏と永く寺門の昌運を祈願す》
 先日はようやく永泰寺を訪ねて青柳晃道師に面談する機会があった。ご開帳は4月8日の花祭りの日にしかかなわぬということであったが、この釈迦堂に安置されているのは京都・清凉寺蔵の国宝釈迦如来像の模刻であることが分かった。

 現在釈迦ケ岳山頂にある石像は、明治の初めか幕末、晃道師の祖父がお爺さんから聞いた話として、この芦川から担ぎ上げたものだという。当時村いちばんの力自慢が背負子に括り付け、前から1人が綱を引き後ろから2人が押し上げたという。
 これが京都・清凉寺蔵の国宝釈迦如来立像である。
 
 譱海模刻して日本に持ち帰ったとされる釈迦像は、天竺の優填王(うてんおう)が生身の釈迦を見て彫ったものとされて大流行し、当時100体以上がつくられたとされる。

 

 さて、話はこれで終わらない。
 晃道師は気さくなお人柄で、一段落して雑談になったところで、「こういうものもありますよ」と言って軸を展いてくださったのが『役行者入山の図』である。制作は室町時代であろうという(『上九一色村の文化財』では『絹本著色役小角図像』となっているがここでは晃道師の呼称による)。

《役行者は円楽寺を出立、迦葉・阿難の坂を越え、精進湖で沐浴潔斎、富士山の御室に達したという。その道すがらの中道往還の古関永泰寺に、役行者画像があるのもうなずける気がする。》(同書)
 山伏が役行者木像を担いで富士山に向かう途次、ここ永泰寺で『役行者入山の図』を披いて読経・勤行するさまが眼前に浮かび、法螺の音が聞こえてくるようである。
  なーむ えんのぎょうじゃーだいぼさつ
  なーむ えんのぎょうじゃーだいぼさつ
  なーむ えんのぎょうじゃーだいぼさつ
 ブォーオー ブォーオー ブォーオォオオォー  ブォーオー ブォーオー ブォーオォオオォー

ガラスが風船のように膨らんで弾けた

 台風進路の右側は風が強い。
 北半球では、低気圧の中心に吹き込む風は左渦巻きなので台風の進行速度が加わった風速になり、左側では引き算した風速になる。

 台風15号は三浦半島を一跨ぎして東京湾を北上、千葉市西方に上陸した。

  9月9日午前2時夜半、家の周りがザワザワ騒がしいので目が覚めて、パソコンをスイッチオン、「お気に入り」から「気象レーダー・ナウキャスト」画像を引きだした。

 ちょうど台風の目に入ったところで、ほら、目の上端にわが家が見えるでしょう、写ってるわけないだろ!

 ほどなく家の周囲が静かになったので、そのまままた寝入ってしまった。
 そのころ東京湾の向こう岸、房総半島では誰もが想像したことのないような風害が吹き荒れていたことは、皆さんの記憶に生々しいところだろう。
《森田健作知事は9日は登庁せず、公舎で終日、「情報収集していた」という。》(朝日新聞デジタル>記事 2019年9月29日05時00分)
 危機管理意識ゼロ、弁解するだけ品格が下がることに気づかない地方〔自治体〕政治家。
 その点、《自民党の二階俊博幹事長は13日、台風19号の被害を受けて開いた党の緊急役員会のあいさつで、「予測されて色々言われていたことから比べると、まずまずで収まったという感じだ」と語った。》(朝日新聞デジタル>記事 2019年10月14日05時00分)
 ね、自民党の大物になると上から目線の、天下を見くだす目の高さが違うでしょ。
 19号は蓋を開けてみればとんでもない雨台風になるのだが、気象庁狼少年村(元気象庁予報部)の前日警告によれば、15号以上の強い風台風になるという感じであった。
 わたしは、19号は15号のちょっと西側を狙っていると判断、当日の夕刻までには、湘南海岸全域に竹矢来を結んで、「いざ来いニミッツ、マッカーサー!」(西條八十作詞『比島血戦の歌』)、万全の防御態勢を敷いて晩酌を始めた。 
 ところが敵は卑怯にも石廊崎西方から伊豆半島に侵入、相模湾に下りないで西湘から神奈川県を串刺し、北北東へと抜けて行った。


 19:40といえばすでに第1次宴会は終わり、さて第2次は何を肴にしようかと台所に行ってガス台の前に立っていた。場所は掃き出し窓から1メートルの位置である。
 第三者から見ればすでに十分ボーッとしているところだろうが、本人は観察力・判断力ともにしゃきっとしている積もりである。
 ゆさっと、家全体が揺らいで風圧がかかったなと感じて、窓のほうに目をやったとき、空気の固まりが隣家の屋根から下りてきたような感じがして、窓ガラスが内側に風船のように膨らんだように見えた瞬間、バリンと室内に飛び散った。
 何か硬いものが飛んできたのかなと調べてみたが、外側の網戸にはなんの損傷もない。
 雨に濡れて水の膜になった網戸とガラスの隙間に強風が吹きこんで膨らんだとき、網戸全体の水の吸着力の総和がガラスの張力を上回ったということだろうか。
 掃き出しの窓の下半分だから、83×75センチの曇りガラス、上端に直径60センチほどの穴が空いている(これは翌朝、明るくなってからの写真です)。

 足許に掌大のガラス片が4〜5枚、落ちている。
 おもしろい現象を観察できたと思ったがこうしちゃいられない。すぐにガスを消して仕事場兼宴会場に行ってパソコンで「気象レーダー・ナウキャスト」画像を引きだす。
 すでに台風の目は消えており、オレンジと深紅の帯がわが家から数十キロ北西の地点を中心に渦巻いていた。

「なんだ、もう通り過ぎたところか。雨雲もなくなった、これからは西風だな」
 これで雨の吹き込みの心配もなし、ガラス片などの片付けは明るくなってやればいいやと、宴会をほどなく再開して滞りなく終わり、一寝入りして、さて翌朝。
 腰より高い位置にある流しにマッチ棒大のガラス片があるのに気づいた。台所の反対側にある冷蔵庫の前にも鉛筆大が2〜3片落ちている。歩くとスリッパの裏がジャリジャリするのでひっくり返してみると、スリッパの裏に小枝のようなガラス片が何本も突き刺さっているではないか。ここでようやく、あのガラス破裂の規模と実態が判明したのである。
 この貴重な観察結果を、翌朝道路掃除しながら近所の人に喋り、メールで言いふらしたところ、怪我はなかったかと、多くの人からお見舞いをいただいた。

 さてそこで気づいたのだが、わたくしこの十数年、痛さとか寒さを感じたことがない。夏の暑さは汗が出るので分かる。加齢とともに皮膚感覚が鈍くなっているのだろうか。
 急いで調べて見たが、痛いところも血が出ているところもない。
 化膿でもしたら面倒だと、改めて入念に目視で観察し、さらに見えないところは撫で回したが、まったくの無傷である。
 あのとき飛散するガラス片のコースを見極めながら避けたという記憶もない。おいそれと追試もできずガラス飛散の謎は残る。残念だ。
 被災地に広がる未確認情報によると、このオジサン、

気象庁狼少年村の村長さんに天下りなさるとか。
 これからは災害の実情に合わせた気象予報に書き換えて閣議決定とするので、公文書のうえでは行政の不備・怠慢は起こりえないそうだ。めでたしめでたし。

第9回聖護院・富士山峰入り修行グラビア特集 追記

 峰入り修行2日目の早朝、標高1000メートルの天照教本社前まで朝食を出前してくださった「花月」の、日ごろからの研鑽ぶりをうかがわせる記事が『日本経済新聞』に掲載されました。

 

《白い身のニジマス、静岡・富士宮市の名物に(現場から地方創生)

「セ氏18度以下の水で育つニジマスにとって12〜14度のこの場所は最適」と岩本いづみ社長。2キログラム以上に育った大型のニジマスは「富士山サーモン」のブランドで氷をつめた箱に入れて、その日のうちに東京・豊洲市場に運ばれる。

 淡水で育つニジマスはかつて食用として広く流通したが、日本人の食生活が変わって加工しやすい海水魚などに押され、近年の出荷量はピークの1980年代半ばの10分の1以下に減った。現在はキャンプ場で焼き魚として食べるのが一般的で夏の消費が中心だ。
 ただ、海水魚の漁獲高は天候に左右されやすいうえに、近年は中国など海外の和食ブームで価格は上昇傾向にある。柿島養鱒は年間を通じて安定供給できるニジマスの販路拡大に力を入れ、東京の持ち帰りすし店などに売り込んできた。
 柿島養鱒はさらに、200〜300グラムの小型のマスを「ホワイト富士山サーモン」として地元富士宮市の名物にしたいと考えている。大型のマスに比べ食べやすいサイズで、「世界中でここしか食べられない"白身"のサーモン」がキャッチフレーズだ。
 富士宮市の日本料理店「花月」はホワイト富士山サーモンを使った「にじます定食」(2000円)が人気だ。同店の岩見安博さんは「味が淡泊でクセがなく、どんな料理にも合う」と語る。養殖なので寄生虫がおらず、刺し身はヒラメやタイに似た食感だ。煮付けやフライも食べやすい。

 ただ、富士宮市内でニジマスを食べられる店は一部に限られている。ニジマスを売っている魚屋は地元にはほとんどないという。
 ニジマスを富士宮市の観光の目玉にしようという動きは以前からあった。2008年に設立した「富士宮にじます学会」は富士宮市が国内一のニジマスの生産地であることをPRする「鱒コットガール」を設けるなど普及に努めてきた。

 小型で食べやすい「ホワイト富士山サーモン」を普及させるべく、にじます学会は旅館向けに試食会を開くなど後押ししている。学会長で富士宮観光協会会長の小川登志子さんは「富士宮を訪れる人がいつでもニジマスを食べられるようになってほしい」と願う。
 岩本社長は昨今の異常気象や魚価の上昇で、富士宮市のニジマスを売り込むチャンスが再び到来したとみている。ご当地グルメの全国的なブランドになった「富士宮やきそば」のような存在になれるのか。新たな挑戦が始まった。(静岡支局長 原田洋)》  (2019/9/24 15:11 日本経済新聞 電子版  南関東・静岡)

 

 花月では柿島養鱒内に専用の生け簀を設けて、各種料理に使い分けている。お近くをお通りの節は、ぜひお立ち寄りください。

 

第9回 聖護院・富士山峯入り修行グラビア特集 その3

 第9回 聖護院・富士山峯入り修行3日目は、8月20日4時30分に宝永山荘を出発。

 

 南の空に崖のように立ちはだかっていた黒雲は消えた。

 


 5時10分、ご来光。きょうは好天が期待できる。

 


 気になるのは頂上に被さる巨大な笠雲、そうとう強い西風が吹いているようだぞ!

 

 
 朝日に伸びるわれわれの人陰。

 

 下界は好天のしるし、雲海が広がってきた。

 

 標高3000メートルの元祖七合目で冷たい水のお接待、勤行のあとで朝食。

 

 標高3000メートルを超えるとさすがに風がいちだんと強くなってくる。

 

 荒神岩で勤行。

 

 九合五勺胸突山荘。あらかじめ荷揚げしておいた柱源(はしらもと)護摩供の法具を受け取りいよいよ山頂へ。

 

 山頂・浅間大社奥宮で勤行。

 

 笠雲のまっただなか、山頂・奥宮の鳥居前で記念撮影。

 

 しかし、廃仏毀釈の寄せ墓地前は風が強すぎて火が使えないので柱源護摩供は断念。

 

 八合目赤岩館で昼食を摂ってさらにくだり、砂走館の岩陰をお借りしてやっと柱源護摩供をおこなう。

 

 風は相変わらず収まらず、宝永山をぐるっと回り込んだ風下の御殿場側に雲ができては消える。

 左の宝永第1火口に下れば、ゴールの宝永山荘は間もなくである。
 (このブログ作成にあたって、石田芳久・鈴木翔大・土田純子・土屋四郎各氏の画像をお借りしました。ありがとうございました。)
                *        *         *
 今年の聖護院門跡・富士山峯入り修行も、多くの方のご努力・ご協力を得てぶじに終わりました。深く感謝いたします。
 来年は第10回目となりますので、日程を1日延ばして、富士山の反対側、須山から御殿場に下山しようという構想で予備調査を始めました。
 かつての村山修験の峯入り修行は、閉山後の7月22日(旧暦)に村山から入山して山中で苦行を重ねて8月3日に須山に下り、さらに御殿場・裾野・長泉・三島・沼津を回って全行程22日間、吉原を経て村山に帰ったといわれております。
 今日われわれの聖護院富士山峯入り修行はその一部を切り取った行程ですが、第10回記念としてこれをもう少し延長しようという考えです。
 最後におこなわれた村山修験峯入りは、日中戦争と重なる昭和12年ごろではなかったかといわれています。

 したがってこれが実現すればおそらく、御厨(みくりや)の地では80数年ぶりに「法印さん」がお山から下ってくることになるはずです。
 これからも多くの方にご協力をいただくことをお願いすると同時に、大いにご期待ください。

第9回 聖護院・富士山峯入り修行グラビア特集 その2

 聖護院・富士山峯入り修行2日目は、8月19日は4時40分、興法寺大日堂前を出発。

 空は晴れているが、戸外の物干しに乾しておいた略浄衣は汗で濡れたまま。着るとひんやり気持ちがいい。

 

 札打場で勤行。その昔、修験者や道者が名刺代わりの碑伝(ひで)を置いて勤行した場所だという。

 

 今年はちょうど創志150年を迎える伊勢神宮の分社・天照教に8時到着、まずは本殿で勤行。

 

 

 そのあと天照教入り口での朝食は、富士宮の和食料理「花月」からの出前。ふだんは口にできない鰻など豪勢な食事となる。

 


 中宮八幡堂で勤行。もと馬返し、女人禁制の時代は女人結界でもあった。雨が降りはじめたが霧雨で、間もなくやむ。

 


 台湾から飛来するという大型蝶アサギマダラがコウモリソウに吸蜜している。雲が広がっているためきょうは乱舞はみられそうにない。
 


 いつ崩壊するか分からない岩屋不動で勤行。村山大日道に安置されている雲切不動童子像はもとはここに鎮座していたといわれる。

 


 緩い巻き道コースを登ろうとして藪蛇。じゃなくて藪漕ぎ、やっと辿り着いた一ノ木戸で一休み、勤行。ここは戦国時代から村山古道最大の行場があったとされる。
 

 この日は標高差2000メートルを14時間30分かけて新六合目・宝永山荘に到着。淡路島は勝樂寺・森大誠住職から差し入れの般若湯で疲れを癒やす。

 

第9回 聖護院・富士山峯入り修行グラビア特集 その1

 第9回聖護院・富士山峯入り修行は、2019年(令和元年)8月18日(日)〜21日(火)に行われました。



 17日の前泊組は、吉原駅前のビジネスホテル菊川で、大女将はじめ皆さんの温かいおもてなし・見送りを受けて、18日7時30分に出発。皆さん、地下足袋が真っ白です。



 当日参加者も含めて午前8時、毘沙門天妙法寺の門前の宿・立場旅館(休業中)に集合、本山修験宗総本山聖護院門跡先達・草分俊顕師の挨拶を受けて出発。まだこのときは、これから待ち受ける猛暑の気配はなかった。



 まずは海抜0メートル、鈴川海岸に出て水垢離。台風10号の余波で、天気晴朗なれど波高し、足をとられる修験者も続出。



 『岳南朝日』(2019年8月21日付)でも紹介。この写真では、皆さん海水浴を楽しんでいるようにも見える。

 しかし事実は、YouTube土屋四郎「聖護院門跡 富士山峰入修行」を覧ください。

 吹き出したいところは、ぐっと堪えてくださいね。



 富士塚の上にのぼって勤行。関東一円に残っている富士塚は、登ると富士登山と同じご利益があるとされたが、ここは唯一、富士登山の出発点としての富士塚である。



 鈴川区管理員会の人たち大勢が待ち受けてくださり、先達・草分師による跨ぎお加持。
 往時の村山修験峯入り修行では、修行を終えた法印を村山から馬を差し向けて迎えたという故事にちなみ、先達は馬で旧東海道を進む(YouTube土屋四郎「聖護院門跡 富士山峰入修行(お馬さん)」参照)。

 


 左富士神社には鈴ではなく鰐口が掛かっている。勤行のあいだに向こうでは、依田橋町内会の方が、冷たい飲み物のお接待を準備してくださっている。



  岳南鉄道吉原本町駅前・松栄堂薬局では近隣の人が集まってこられて勤行とお接待、お加持。

 


 もともと村山の富士山興法寺大日堂と兄弟関係にあった富士山興法寺東泉院は、明治の廃仏毀釈で日吉浅間神社となった。六所芳和宮司によるお祓いのあと勤行とお加持、そのあと社務所を借りての昼食は、村山大鏡坊の末・おふくろ亭の弁当。

 


 『富士ニュース』(2019年8月22日付)は第1面ぜんぶを使って紹介してくれた。

 

 旧吉原宿の西端れ西見付跡でお馬さんとはお別れ、枡屋酒店からも冷たいお茶のお接待をいただく。

 


  広見公園に着いたのは午後2時40分、みんな茹で上がっている。

 


 気象庁アメダスの記録によれば、富士市のこの日13:00〜15:00の日照時間は2時間、つまりカンカン照り。気温は13:00で31・4℃、14:00で31・5℃。
 富士市のアメダス観測所は、ちょうどこの広見公園の西1キロ辺りにあるらしい。だからアメダス記録とわれわれ実体験の気温にそれほどの乖離があるとは思えないのに、どうしてこんなに蒸し暑かったのだろう。
 ここはまだ標高100メートルで村山は500メートル、距離は20キロの半分しか来ていないのだが、この先コンビニはない。

 


 穴原の釈迦堂で勤行。

 

 もと千貫松が生えていたといわれる佐野板金屋さんで、恒例の西瓜のお接待。一行は蘇生の思い。

 


  樒畑のあいだをただひたすら歩く。この辺り水田は一枚もない。農家の多くは植林用の杉・檜の苗を育てたり、仏壇用の樒を栽培している。

 


 

      銀杏畑の大杉家庭先では花月からかき氷・ゴーヤジュースなどお接待。

 


 ロケット花火で歓迎を受けて次郎長町・金森家に着いた。ビールの一滴もなめていないのに茹で蛸。

 

  次郎長町の盛大なお接待。テントの下にテーブルと椅子、ポカリスエット、西瓜やメロンが山盛り。


 次郎長町では老若男女ざっと40人がお加持を受ける。

 


 八大金剛童子で勤行のあとは、全員荷物をクルマに預けて午後6時10出発。ペースを落とし、ノンストップで村山までちょうど1時間。

 


  吉原を出発して11時間、やっと村山大日堂に着いた。

 

 おりしも大日堂では月例の読経会が終わったあと皆さん待機していてくださって、いっしょに到着の勤行。
 村山ジャンボでの夕食は午後8時から、アルバイトの学生さんを帰宅させますから、9時までに入浴を済ませてください。

村山古道補修 補足2 強力助っ人の登場

 前回、8月3日に村山古道をくだったとき、ふわふわの砂地に雨水は流れないが、硬く固められた地面ではちょっとした雨が大きな流れになって路面を掘り下げる現象について説明した。
「次にもう1回夕立でも来れば、V字溝の左に残っている川岸部分が崩壊して、ここは通行不能になってしまう可能性がある。」
 太平洋高気圧が強まるままに熱界雷で雷雨が発生するか、あるいは夏型気圧配置が緩んで台風が接近でもすればひとたまりもない。土嚢積みを急がなくてはならない。
 ところが8月5日夕刻、京都は聖護院から荷物が届いた。
 中身は、8月20日、富士山峯入り修行の一行が、富士山頂でおこなう柱源(はしらもと)護摩供につかう法具である〔このホームページの「富士山峯入り修行」の写真参照〕。
 背負子に括り付けてあって、ちょうど10キロある。
 これをあらかじめ、九合五勺の胸突山荘まで荷揚げしておかなくてはならない。
 ちょっと調べてみよう。
  2015年8月18日は、身延線の踏切事故で電車が遅れて富士宮駅前発9:05のバスに乗り、新六合の宝永山荘を出発したのが11:33になったが、胸突山荘まで登り3時間57分、下り1時間32分で、新五合目発18:00の下りバスに間に合っている。
 2016年8月10日は、富士宮駅前8:30発のバスに乗り、宝永山荘から胸突山荘まで登り4時間03分、下り1時間27分で、やはり18:00の下りバスで下っている。
 2017年8月14日は、富士宮駅前8:30発のバスに乗り、宝永山荘から胸突山荘まで登り4時間32分下り1時間55分かかっているが、宝永山荘のゴミを新五合目まで降ろしたので、山荘のクルマで富士宮駅まで送ってもらっている。
 2018年8月5日は、富士宮駅前8:10発のバスに乗り、膝を痛めたので生まれて初めて両ストック。宝永山荘から胸突山荘まで登り5時間04分、下り2時間34分で、新五合目発19:00の最終バスになってしまった。
 それぞれ満年齢が72歳・73歳・74歳・75歳のときの記録である。
 1年ごとに衰えてきていて、76歳の今年はもはや日帰りではできないかもしれない、1泊2日という日程がとれるだろうか。
 寝苦しい一夜を輾転反側、8月6日未明、夢枕に役行者さまが立たれておっしゃった。
「独りでやろうと思うな、助っ人を頼め!」
 朝になってSOSメールを発信したところ、午後になって土屋四郎氏から返事が来た。
「あすなら休暇がとれる」
「終わったらついでに、村山まで下ってもらえないだろうか」
 聖護院の富士山峯入り修行隊の先頭に翻る幟を、村山から借り出す必要があったのである。
 話はトントン拍子で進み、村山古道に切り残しの倒木があるだろうということから〔このブログ《2019年5月、村山古道の現況》参照〕、村山からは急遽チェンソー隊が出ることになったのである。
  2019年8月7日は8:00に水ケ塚公園に集合、村山チェンソー隊は高鉢駐車場から岩屋不動脇道に向かい、土屋氏は宝永山荘から九合五勺まで荷揚げに向かった。


 わたくし土嚢隊は10:50には横渡下の現場に着いていた。
 ここでいちおう現場のおさらいをしておこう。
 樹林帯から日沢(にっざわ)左岸に下る登山道は、浮き石がちょっと気にはなるが、しっかり踏み固められている。


 その続きも、溝がちょっと深くなってはいるが、問題はないように見える。


 ところがその下はどうか。


 去年までの踏み跡は、抉られて落ち込んだ先の斜面の位置についていた。

 今年の5月は中央を一直線を歩いていた。

 ところが前回はもう一歩山側に踏み跡が移動していた。

 この次に一雨くれば、登山道全体がひとたまりもないであろう。
 ここで私は作業手順の誤算に気づく。

 土嚢に詰める土砂は谷底にいくらである、と思っていた。土嚢の素材は捨てるほどあるのだが、10キロ以上もある土嚢を抱えてこの斜面をのぼるのことは不可能である。
 幸い左の山側に疎らな草地の斜面があり、礫のほとんどない素直な土砂が採取できた。 

 それでも炎天下、休み休み作業して5俵つくるのに30分かかった。小型の片手スコップだから能率は上がらない。

 水を飲んで日陰で10分休んでまた土嚢づくり。
  初め土嚢を下の土台がしっかりした所から積み上げようと思ったが、それでは土嚢が圧倒的に足りない。上からだ。

 上の崩れはじめた部分から順番に土嚢を押し込んで、ともかく新しく路面が掘り下げられるのを防ごう。


 とりあえず10俵押し込んだのが、この写真。

 本当は、離れて2俵置いてあるところまでびっしり詰め込みたいのだが、すでに土嚢袋がない、体力がない、やる気がない。
 ゆっくりだらだら昼食を摂って下りていくと、ちょうど岩屋不動入り口でチェンソー隊とぶつかった。
 去年9月の台風で発生した倒木はあらかた片づけたという。
 ここはちょうど古い木馬道を登山道が横切っている場所で、この下の急傾斜をえぐり取る雨水の水源池のようなところである。
 岩屋不動方向から木馬道を伝ってくる雨水は、村山古道に流れこむ手前に水切りを掘って左下に流れこむように仕向ける。

 笹垢離方向から登山道を伝ってくる大量の雨水は、登山道から右下の木馬道に流れこむように、深さ30センチ幅50センチの水路を掘り込む。幸い鶴嘴があるのであっという間に終わる。


 少々の雨なら、これで防げるだろう。

 

 笹垢離から下ではヒヨドリバナは開き、アサギマダラが翔びはじめていた。チェンソー隊の話では、岩屋不動脇道の南東斜面の日だまりでは、20〜30頭の蝶が乱舞していたという。


 このあと土嚢隊とチェンソー隊は武装解除して水ケ塚公園まで下り、そこへ荷揚げ隊も合流して本日の作業はすべておしまい。

 もちろん修行隊の幟はチェンソー隊が揚げてくれていた。
 これで18日(日)に田子の浦・鈴川海岸をスタートする富士山峯入り修行の一隊が登ってくるのを待つばかりとなった。

村山古道補修 補足 硬い地面ほど浸食される?

 前回の《村山古道補修5 浸食ますます広がる》の終わりのほうに、次のように書いた。
「これで一応今年の、夏山シーズンに向けての応急補修は終わりである。」
 意味するところは、これからオフシーズンを含めて、息長く補修作業を続けなくてはならないな、という長期の予感であった。
 ところが8月3日、新六合目の宝永山荘に行く用件ができたので、ついでに村山古道を下ってみた。梅雨明けのあと初の土曜日ということもあって、かなりの賑わいである。登山道脇にはクルマユリ、グンナイフウロ、ベニバナイチヤクソウなど原色の花も目立ってきた。


 初めのうち登山道にはなんの問題もなかった。高度が下がるに従ってモミの若い葉が足許が見えないほど茂ってくるので、鎌先でチョイチョイと葉先を刎ねながら下っていく。

 新しい倒木はない。2人、1人、2人、4人と小集団の登山者が登ってくる。
 横渡も、皆さん新しいルートを踏み固めて登ってくれているようで、足場が固まってきた。だが3か月前とはちょっと違う、どこが違うのだろう。
 次の写真は5月12日撮影のものである。


 さらに次の写真は8月3日の撮影である。


 いちばん目立つ違いは、根本を洗われて倒れた右岸のカラマツであろう。枯れたのではなく、生きていて新緑を着けている。
 次に気になるのは横たわっている丸太である。5月には岸の上に横たわっていたのに、8月には片方が川底に落ちて立ち上がっている。
 注目すべきは、川底に初めから横たわっている短い丸太である。

 この3か月間、動いた形跡はない。

 つまり河床に水は流れていないはずなのに、落ちた丸太がもともとあった場所を見てほしい。
 同じ雨が降っても、河床では流れないで地面に吸い込まれ、川岸では水流が地面を抉って丸太を押し流してしまった、と推測できる。
 さてこの横渡から5分も下ったところで、樹林帯の中にある登山道が日沢の左岸に飛び出すところがある。


 この写真の中央部が日沢で、向かって右側を斜めに下っているのが登山道である。
 しっかり踏み固められているように見えるであろう。

 ところがそのすぐ下の登山道の中央にはV字渓谷が刻まれていたのである。


 3か月まえどころか、7月20日にここを通過したときには真っ平らで、このような溝が掘り込まれるとは思いもよらぬことであった。
 固められた登山道の表面で水流となり、太くなった水の流れが路面を掘り下げたのではないか。何回も降った雨ではなく、おそらく1回の驟雨であろう。
 だとすれば、次にもう1回夕立でも来れば、V字溝の左に残っている川岸部分が崩壊して、ここは通行不能になってしまう可能性がある。
 わたしの見積もりでは、日沢の河床から登山道の高さまで、V字溝のなかに土嚢をびっしり積み上げていけば、いまならまだこれ以上の掘り下げを食い止めることができるのではないか。

 必要な土嚢は10俵以上。

 

 このあとこの日はお花畑を下りながら2か所水切りを新しく造り、最後の仕事が笹垢離の防御。
 前回造った水切りは、笹垢離跡から流れ出る雨水が下の登山道を流れて路面を荒らすので、その水量を減らす目的であった。笹垢離に流れこむ雨水を防ぐことはできない。
 困ったことはこの一帯、大小の瓦礫が堆積しているので土砂がほとんどない。
 前回は小型のスコップしかなかったので、地面に刃が立たない。

 コチョコチョとスコップの刃先を瓦礫の間に押し込んでいっても、縦横に地下を走っている木の根にぶつかるとスコップは進まなくなる。
 今回は鶴嘴が威力を発揮する。
 前回の排水路は貧弱だったので、ガッシガッシと鶴嘴のピック、クチバシのほうを打ち込む。


 小石は逃げてくれるし、大きな石にがちっとぶち当たれば梃子の原理で浮き上がらせる。

 細い木の根は無抵抗に切れるし、太い根はプレートを打ち込めば一発でブツッ。
 昔取った杵柄ならぬ、さんざん練習したピッケル操作がこんなところで役に立つ。
 ここで集めたわずかの土砂を土嚢袋2つの底に分けて入れ、大部分は登山道に散らばっている小石でいっぱいにして、笹垢離から登る登山口のすぐ上に並べて置き、近くに落ちている熔岩の固まりを上に置いて、一種のダムを造る。


 登山道を塞ぐ形にはなるが、この部分の登山道は凹んだところを通っているので、これ以外には雨水の流入を防ぐ方法はないのである。
 登山者のみなさんには迂回して登ってほしい。

 

 村山古道のヒヨドリバナはまだ蕾の状態で、蝶は飛んでいなかった。
 スカイライン縦道の旧料金所近くまで下った道端にはキジョランの大群落があって花を着けており、アサギマダラの死骸が1つ落ちていた。