オールコック異聞  その3

 3月といえば青春18きっぷが使えるようになるので、恒例の静岡通いが始まる。静岡県庁近くの民間ビルに しずおかけんりつとしょかんれきしぶんかせんたー という一息では発声できないように長い名前の施設がある。端的にいえばかつて『静岡県史』シリーズが編集されたおりに集められた史資料の倉庫のようなところで、一般公開はされているのだがわたし以外の閲覧者はゼロという日が多い。
 嬉しいことにここでは静岡県内に残っている明治以降の古新聞がマイクロフィルムからプリントアウトしてクロス装で製本してある。新聞1ページがA3に縮小されているのだが、パッと開いて1ページ全体が見渡せるので、フィルムリーダーを覗くのに比べて3倍ぐらいスピードが上がる。

               

 このところ『静岡民友新聞』をめくっており、3月19日には大正11年4月分の閲覧に差しかかった。と、久々にめぼしい記事にぶつかった。

「泰西人最初の富士登山者 英国公使オールコツク氏の記念碑及び愛犬の墓碑(熱海)」、静岡民友新聞社は後藤粛堂記者の7回連載ものである。 
 


 この記事によると、先に示した熱海・大湯間歇泉の石碑は事故の翌年になってオールコックが送ってきたもので、オールコック自身が建立したものであることが分かる。そうすると、やはりきちんと自分の目で確かめておきたい。
 チャンスは7月9日にやってきた。富士山は村山入山式に向かうとき、熱海で途中下車したのである。ただし朝日がちょうど順光になっていて、陰刻の文字がよみづらい。石碑まで上がって行って、かろうじて読みとることができた。 
 

 

 右の石碑:
《 南無阿弥陀仏
      徳本〔花押〕》
 むかしこの噴出口に甲虫が群がり、熱湯に吹かれて死ぬ様が哀れであった。たまたまこの地に巡錫された徳本上人が梵法をおこないこの名号石を建てたところ、ふたたび虫は来なくなったという。文化12年(1815)のことであろう(『あたみの碑と像とレリーフ』熱海市観光施設課編、発行年不明)。ケチを付けるわけではないが、虫には効いたがスコッチテリアには効力がなかったらしい。
 中央はトビーの墓:
《 Poor Toby!
     23 Sept. 1860 》
  この墓石はいちど行方不明になったので、大正7〜8年の大湯改修工事のとき、熱海館主の岡野さだ氏が寄贈した2代目らしい。
 左がオールコックの富士登山記念・熱海訪問記念碑:
《                    予奉國命寫日本荏土府十有六月公暇無事茲萬延元年
                   庚申七月十八日發江都廿六日登冨士山廿九日到豆州
RA(September 1860) 羅多保津斗安有留古津久英國美仁須登留
                 浴熱海温泉十有四日愛玩山海奇勝之餘建此石使後人
                 知英人遊干此自吾輩始矣 》

 繰り返すようであるがこれは墓碑ではない。オールコック自身が造った富士登山の記念碑である。

  途中で間歇泉が噴き出してびっくりしたが、噴出量がすくなくて背中に飛沫がかかっただけで、トビーの二の舞に遭わないですんだ。
  徳本上人による護法の効き目は、わたしのばあい虫と犬の中間らしい。

オールコック異聞 その2

「その1」を上梓(アップロード)したのが7月27日だから、あの殺人的な猛暑をくぐり抜けてずいぶん間延びした話のようになるが、舞台はまだ2017年が暮れて、新年になったばかりである。
  年が明けて3月初め、「富士山学を拓く」と銘打った国際シンポジウム(静岡県富士山世界遺産センター・ふじのくに地球環境史ミュージアム共同主催)が開かれ、2日目の3月4日にイリノイ大のロナルド・トビ氏による「富士山国際化の前史−−江戸期の言説を中心に」と題した基調講演があった。

 そのなかで『日本とペチリ』の著者であるエワード・ド・フォンブランクの紹介があった。おお! るこっく、彼こそはまさにオールコック隊の一員として富士登山に参加しており、オールコック登山の貴重な側面記録を残してくれていたのである。
 トビ氏の説明では、ド・フォンブランクは著書の中で《富士山の図》を紹介しているという。調べてみると『馬を買いに来た男−−イギリス陸軍将校の幕末日本日記』(宮永孝訳、雄松堂、東西交流叢書13、2010年)というタイトルで翻訳・出版されており、その絵図は《富士山の全景》として収録されている。

 

 どこかで見た絵図だなあと首を捻る間もなく、この絵図は《富士山表口眞面乃圖》(麗山白石圖、富士山別當村山興法寺三坊蔵板)の忠実な模写であることが分かる。


  この絵図は、駿河湾岸から富士山頂までを俯瞰した大画面で、西は三保の松原・清見寺から東は沼津・千本松原まで収められている。中間には、愛鷹山と麓を巡る根方街道と下方五社などの社寺、甲斐に向かう南西麓には日蓮宗の富士五山や白糸瀧などの名所が描かれている。登山道は富士川東岸から大宮浅間に向かうルートと吉原宿の西外れからじかに村山に向かう道も明記されている。

 歴史的に意味があるのは村山に「村山浅間御造営所 一山守護不入之地」とあって、周辺に「辻ノ坊」「大鏡坊」「池西坊」の3坊が配置されている。この村山3坊がこの絵図の板元である。山頂に「大日」があり、左上の囲みには村山浅間の由来が書かれていることにも注目しておきたい。
 ド・フォンブランクの絵地図ではマンガの吹き出しのような文字部分は完全な空白になっているが、図柄は《富士山表口眞面乃圖》に忠実にコピーされている。どういう技術を用いたのであろうか。        
 ここでもう一つ注意喚起しておきたいことは、全体の構図がしっかりしていて、細部の描写がひじょうにうまいことである。山襞や植生の描き方に写実性があり、社寺林の描き方も巧みに変化を持たせて画一的ではない。
 麗山白石とは何者であろうか。
 あまり詳しい研究はいまだないようであるが(「富士山と酒を愛した画家・神戸麗山」〔ローリング父さんの富士探遊日記〕)、分かっているところを簡単に紹介しておこう。麗山は享和2年(1802)、駿河国庵原郡で医師の家に生まれたが、幼少より書画に秀で、家業を弟に譲って、文政9年(1826)京都は岸派の人気画家・岸岱に師事している。

 絵図を描かせてもうまいわけだ。
《麗山為人清恬寡慾平生酒ヲ好ム時ニ或ハ連日頽然タリ其ノ画風勁抜能ク岸家ノ蘊奥ヲ得タリ富士図最其ノ得意トスル所ニシテ其ノ世間ニ伝フルモノ亦頗ル多シ静岡浅間神社ニ富岳図ノ扁額アリ天覧ノ印ヲ押捺セリ……岸岱曾テ猛虎図碑ヲ富士山頂ニ建立セントスルヤ麗山其ノ図ニ竹石ヲ合作ス》(「神戸麗山之伝」静岡県立葵文庫資料)
  その後の天保12年(1841)、岸岱から「白石」という号をもらっている。

 話はさらに脱線していくのだが、《富士山表口眞面之図》にはそっくりの絵図がもう1枚ある。



  よく似てはいるが、注意深く見ると大いに違う。まず描線に勢いがない。描かれた道幅が違う。富士山中腹は狭く手前の平地で広いのは遠近法を採ったためではないであろう。道のカーブの省略、山襞や里の田畑の描線が少ないことも勘案すると、手抜きと考えたほうが自然である。なによりも麗山図に比べて、全体から粗雑であるという印象を受ける。
 絵図の説明内容も違っている。「大宮浅間」は「本宮浅間」となり、「村山浅間御造営所 一山守護不入之地」は「奥院大日 根本宮浅間」となり、山頂にあった「大日」は消えて「頂上浅間神社」となった。富士山に吹き荒れた廃仏毀釈の結果である。
 左上の囲み記事は子持ち罫から表罫に変わり、内容は大山・江ノ島・身延山などまでの里程標、つまり観光案内になってしまった。
 作者は左下に《画工 彫工 太田駒吉》となっている。
 太田駒吉といえば、浮世絵の名人彫り師しか思い浮かばない。
《彫駒こと太田駒吉が語る、彫巳(ほりみの)についての技量です。すなわち、役者東海道五十三次の白須賀の猫婆を彫ったのは、巳の、十八の時だと言い、「あの猫婆の長い髪の毛が、ちゃんと毛筋が通り、本はこまかで末まで広がり、しかもフワリとして一本も乱れて居ない手際、あの百枚余りの続き絵の中で、第一等の出来で、当時大いに評判されたものだった」とするのです》(「浮世絵を読む」http://ukiyoe.cool.coocan.jp/kaisetsu.htm
 彫り師の天才も画家としては二流以下だったのか、あるいは駒吉工房のようなところでやっつけ仕事をしたものかもしれない。
 ところで、この地図はいつ発行されたものであろうか。
『富士山村山口登山道跡調査報告書』(富士宮市教育委員会編・発行、平成5年3月)には、「明治7年村山浅間神社発行登山案内図」としてこの地図が掲載されている。

『描かれた富士の信仰世界』(企画展図録、富士吉田市歴史民俗博物館編、富士吉田市教育委員会発行、平成5年5月)にはこれが「富士山表口真面之図 明治初期」として収録されている。発行年に疑惑が生じたのかもしれない。

 そして『村山浅間神社調査報告書』(富士宮市教育委員会編・発行、平成17年)には「富士山表口真面之図(明治13年 村山浅間神社発行)」として載せられている。どれが本当なのか。
  最近になってかなり信憑性のある論考が発表された。
《富士山大掃除は、多数あった仏像類を取り払い山頂景観を変えた。この変化は絵図からも確認できる。村山では、明治十三年に絵図の版木を再版した。「富士山表口真面之図」の版木背面には、「明治十三年庚辰年六月頂上図共再版之」「富士宗四郎・富士太郎・三井環・長谷川静宏・旭近尓」と刻まれており、村山の人々によって再版されたことが分かる。》(梶山沙織「富士山頂の信仰世界」『日本一の高所・富士山頂は宝の山』しずおかの文化叢書21、静岡県文化財団、2016年)

 

 では麗山図はいつ発行されたものだろうか。
 話を元に戻すことになるが、ド・フォンブランクは富士登山の翌月には中国に戻っている。日本で軍馬と糧秣を買い付けて中国駐留のイギリス軍に送ることが彼の任務だったからである。

 このことからオールコック登山隊は麗山白石の《富士山表口眞面乃圖》を携帯していたことが類推できる。この登山絵図はそれ以前につくられたものということになる。
  幕末の大宮には先の酒屋さんの日記のほかにもう一つ日記が残っていて、筆者は大宮町の町役人で、『角田桜岳日記』(28字×26行×2段、全5冊2000ページ、富士宮市教育委員会、平成16〜21年)として翻刻されている。
 桜岳は麗山白石の親しい友人であり、いっしょに酒呑んだとか借金取りから庇ったとかまで書かれているほどである。

 じつはわたしは前記通院中にこちらもぜんぶ目を通したのだが、この麗山の絵地図発行のヒントでもないかというのが一つの目的でもあった。しかし残念ながら、そのときは何の手掛かりも得られなかった。

 そしていささか遠回りではあったが、今回ここに図らずもこの地図の製作は、麗山が白石号をもらった天保12年(1841)以降、オールコック富士登山の万延元年(1860)以前だということが分かったのである。

 

  以上まで書いた翌日未明、夢枕に役行者が立たれた。
「角田桜岳日記はボロボロの底抜け笊ではないか、欠落部分に重要な情報が隠されていることを読者に伝えよ」
  その必要性は分かっていたのだが、じつはそれだけは避けたかった。旧暦の日数の計算が面倒なのである。

 当時の暦は現在と違って各月ごとの日数が固定していない。大の月30日、小の月29日を組み合わせって1年12カ月を構成することになっているが、組み合わせは幕府天文方が決定したその年ごとの暦を見ないと分からない。しかもときどき閏月を入れて閏年の調整をしているために1年13カ月の年もある。

 えいッ! 一日単位の計算はやめて一月単位に丸めた数字でも意味は通じるだろう。ということで計算したのが、以下の一覧表である。
 左の日付は『駿州富士郡大宮町 角田桜岳日記』の目次から拾った数字、右は日記の残っている部分と欠落部分を計算したものである(内田正男編著『日本暦日原点』雄山閣出版、昭和50年を利用した)。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 天保12年閏正月11日〜天保12年6月5日      5カ月残って1カ月欠落
 天保12年7月9日〜天保12年8月26日        1カ月残って8カ月欠落
 天保13年4月24日〜天保13年5月29日       1カ月残って1カ月欠落
 天保13年7月7日〜天保13年12月2日        5カ月残って6カ月欠落
 天保14年5月24日〜天保14年8月14日       3カ月残って4カ月欠落
 天保15年正月11日〜天保15年7月8日        6カ月残って4カ月欠落
 天保15年11月13日〜弘化3年6月15日       20カ月残って5カ月欠落
 弘化3年11月1日〜弘化3年12月9日         1カ月残って3カ月欠落
 弘化4年3月16日〜弘化5年5月16日         14カ月残って2カ月欠落
 嘉永元年8月1日〜嘉永元年9月20日          1カ月残って1カ月欠落
 嘉永元年10月11日〜嘉永2年5月30日        8カ月残って2カ月欠落
 嘉永2年8月19日〜嘉永2年9月20日         1カ月残って57カ月欠落
 嘉永7年5月17日〜嘉永7年7月9日          2カ月残って8カ月欠落
 安政2年2月21日〜安政2年4月11日         2カ月残って2カ月欠落
 安政2年6月16日〜安政2年7月26日         1カ月残って38カ月欠落
 安政6年正月23日〜安政6年4月6日          3カ月残って5カ月欠落
 安政6年9月12日〜安政6年11月23日        2カ月残って1カ月欠落
 安政6年12月24日〜安政7年3月10日        3カ月残って30カ月欠落
 文久2年8月27日〜文久2年9月20日         1カ月残って……
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 残っているのはたったの3分の1かと言うべきか、よくぞこれだけ残っていたものだと評価すべきか。
 この一覧表の始まりと麗山が「白石」の号をもらった年は一致している。『角田桜岳日記』はまだまだ続いていくのだが、一覧表の最後のところ、安政7年3月11〜文久2年8月26日の後の30カ月間の日記欠落部分にオールコックの富士登山がおこなわれている。

 すなわち安政7年3月18日に改元があって万延元年となり、翌万延2年2月19日にさらに改元があって文久元年になる。この間の万延元年7月27日(グレゴリオ暦1860年9月11日)にオールコックが富士登頂を果たすのである。
 これら多数回の、長期にわたる欠落部分に、麗山の《富士山表口眞面之図》製作過程が書かれていたと考えていいだろう。

 しかしもはやこれ以上打つべき手段はない。       

 

 

 

青木ケ原の熔岩流:吐き出し口から墓場まで その1

 貞観6年(864)から2年間、富士山北西面の割れ目から熔岩流が吐き出されて青木ケ原樹海がつくられたという。

 熔岩の量は14億立方メートル――縦横高さが1キロの立方体1杯分――で、30平方キロ――東京ドーム640面――の広域に及んで、水深100メートルのセノウミを埋めて西湖と精進湖に切り離した。

 今回はその樹海ではなく、土台となった熔岩流そのものを、吐き出し口からどこまで流れていったか墓場まで観察しようという企画である。
 出発の前日、9月21日18時の現況天気図では、秋雨前線がどっかと本州の東西に横たわっている。

 

 希望を持たせるのは翌朝、22日06時の予想天気図である。

 寒冷前線が未明に通過して、移動性高気圧が張り出してくる図柄である。日本海を北回りで高気圧が南下するばあい、天気の回復が遅れることもあるが、このように南回りでせり出してくるのは吉兆である。
  22日は4時に起床、新聞を取りに出ると霧雨である。気象庁の地域時系列予報「山梨県東部・富士五湖」を見ると、午前9時ごろまで雨が残りそうである。スバルライン三合目を潜るトンネル内で、青木ケ原熔岩流について1時間ぐらい講義して時間稼ぎすることになるかなと思って家を出た。
  小田急線・横浜線・中央線と乗り継いでいくたびに空が明るくなり、四方津では日が差してきた。富士急線で三つ峠駅を過ぎると青空の下に富士山が半分みえる。

 

  全員ぶじ登山バスに乗り換えてスバルライン三合目で下りたのは我々8人のみ。雲はかかっているが空気は乾いている。精進口登山道の概要・資料説明をして出発。
 初めのうちは溝状に抉れた土の道で、富士山本体ができた1万年前のスコリア(多孔質の小石)である。ところどころ雨水に浸食されて熔岩流が露出しているが、登山道と同じ安定勾配だから歩く邪魔にはならない。ウラジロモミの風倒木が目立つが、きれいに掃除されている。この辺り、笹枯れのあとにはミヤマシキミが進出している。

 

 しだいに笹が増えてきて、二合目・富士林道から下は背丈を超す笹になるが、大きく右に、ほぼ直角に曲がる正面の藪の中に踏み跡が見える。

 ここに踏み込むと直径50メートル・深さ10メートルほどの円形窪地がある。斜面から底には苔にくるまれた巨岩がゴロゴロ、乱雑に折り重なっている。とりあえず氷穴(こおりあな)火口列火口1と名付けておこう。

 

  登山道は火口列からいったん離れるが、左に曲がってふたたび右に大きく湾曲するところで、氷穴火口列火口2を見ることができる。

 

 そして火口2の手前に、直径5メートル・深さ5メートルの火口3がある。ここは周囲がぐるりとオーバーハングになっているので、落っこちると、しかるべき道具がないと救助できない。

 

 私がいつ初めて精進口登山道を登ったか記憶にはないが、ここに変な穴があることは気づいていた。なんとなく単発の噴火口だろうと思っていたのかもしれない。はっきり意識したのは15年ほど前である。富士砂防工事事務所(現・富士砂防事務所)の広報誌『ふじあざみ』(第38号、平成14年10月1日)に青木ケ原のレーザー測量写真が掲載されて、これは単発の噴火口ではなく割れ目噴火の火口列だということが分かったのである。

 


 レーザー測量の原理と分解能についてここでは触れないが、これまでの可視光線の航空写真ではぜったい見えなかった登山道の屈曲もはっきり識別できる。この写真からは火口が20以上数えることができる。火口1、火口2も、ここだと指摘できる

 ここを過ぎると傾斜が緩くなって水平近くなり、間もなく一合目・鳴沢林道に着く。横切っているのは甲斐から駿河に抜ける室町時代以前からの若彦路で、ちょっと左に行くと天神峠、峠を越えると氷池にかかわる富士講の石碑があるが今回は割愛して先を急ぐことにしよう。
 このあと長尾山の裾でふたたび風損木が何本も現れるが、こちらは誰も手入れをしていないので、潜れるところは潜り、ばあいによっては迂回する。

 

 このあとは熔岩流のうえに土盛りした直線路を延々と歩いて、ようやく大室山の登山口に着く。
 大室山は3300年前に噴火した円錐形に近い側火山であるから、1200年前の貞観噴火の熔岩流の海に浮かんだ島のようなものである。しかも大室山は熔岩ではなくスコリアを噴出している。

 

 この写真の手前の砂地むき出し部分が大室山の裾のスコリアで、向こうの苔にくるまれているのが熔岩流である。

 

 熔岩流の上の植生は貧弱だが、スコリアには大森林が発達する。

  本日の予定にはこの大室山登山が含まれていたが時間がない。来年は新緑のころに、大室山単独登山を目的にもう一度来ることにしよう。
  風穴というのは火口ではない。熔岩流がたまって冷え固まるとき、カサブタの下にガスが集まって空洞をつくることがある。パチンと弾けてトンネルの入り口が露出する。大室山のすぐ側にある富士風穴は奥行きが230メートルもあり、一年中氷柱も下がっているが、今回は取り急ぎ入り口広場に下りるだけ。

 

 あたふたと上がってきた時はすでに3時15分。

 昭文社の山と高原地図『富士山』によれば、ここから精進湖湖畔の赤池バス停まで95分かかることになっている。河口湖行きバスが4時54分発であるから、まだ間に合う。急げ!
  我々が赤池バス停に着いたのは4時50分。バスは7分遅れの5時01分に到着。

 バス停手前1キロの辺りで、平服でビニルの500円傘を突いて佇んでいる若い女性がいた。両側には薄暗い青木ケ樹海が続いている。「大丈夫ですか?」「はい」
 バス停の道路際に富士五湖消防本部河口湖消防署上九一色分遣所というのがあって、訓練中の隊員にそのことを伝えたところ、「貴重な情報、ありがとうございました」と挙手の挨拶が返ってきた。あの女性ぶじに帰宅できただろうか。
  バスの窓から見ると、茜色に染まりはじめた富士山が、そんなこと知らんよと顔を出していた。

 

                     *                             *                       *
 ここで国土地理院の地形図について言及しておかねばならないだろう。
 今回の山行は、全行程を国土地理院地形図に記載の登山道を歩いたはずである。氷穴火口列火口に入ったときも、荷物は入り口に置いてルートを外れ、また元の位置に戻って出発している。藪漕ぎの新ルートは通っていない。一方でGarminのGPS受信器は腰に着けて歩いたから、全行程の位置情報は記録されているはずである。
 ところが、地形図上の登山道とGPSデータによる歩行位置が合致しないのである。地形図が正しいとすれば我々は登山道を無視して背丈を超える笹藪のなかを歩いたことになり、GPSデータが正しければ地形図はでたらめということになる。
ちなみに手持ちの1:25000地形図、甲府8号富士山の1「鳴沢」の〔昭和31年発行、地理調査所:旧版〕と〔平成27年発行、国土地理院:新版〕を比較してみよう。

 


 中央を斜めに横切る一合・鳴沢林道から左上は両者ともほぼ一致しているが、右下部分は驚くほど食い違っている。とくに問題にしたいのは精進口登山道の「一合」と「二合」の部分である〔黄色部分〕。一般的に言って発行年が新しいほど正確度は増すはずと考えられるが、今回はGPSデータとは似ても似つかない登山道になっている。

 

 とりあえずは旧版にGPSデータを重ねてみよう。方法は、近所に固定した三角点がないので、地形図の「一合」地点と「二合」地点を基準点として、GPSデータを拡大してその2点に重ねたのである〔赤線〕。

 場所のズレはあるが、登山道の屈曲具合はそれなりに反映されていることがお分かりだろうか。「氷穴」の右斜め下には、点々と小さな火口列も描き込まれている。地形図作成者が現地を歩いた情報に基づいていることがうかがえる。
 ところが新版はのっぺりした登山道となっており、GPSデータとは懸け離れている。現地情報はまったく反映されていない。
 さいごにもう一度、先に触れた『ふじあざみ』の記事に触れておきたい。

 

 ここには可視光線写真とそれに基づいて作成された地形図、レーザーパルスによる立体画像が掲載されている。右下の立体画像に注目していただきたい。
 弓射塚とイガドノ山の位置と形がはっきり分かり、登山道の屈曲もくっきりしている。

 しかも、左上の地形図を見ると、どうやらそれらの情報をしっかり反映した地形図があるらしい。

 近いうちに東京・大手町にある国土地理院関東測量部に行って、1:25000地形図「鳴沢」の全図歴を調べてみることにしよう。

 

第8回 聖護院・富士山峯入り修行 グラビア特集

 初日の8月19日は終日ほぼ快晴。運がいいことに、連日の過酷な猛暑は一休み。田子の浦・鈴川海岸から村山・興法寺大日堂まで標高差500メートル、水平距離20キロのアスファルト道。

 

夏には珍しく、終日富士山が見える

                《夏の朝、鈴川海岸から富士山が見えることは珍しい》

 

鈴川海岸で出発の水行

                                《鈴川海岸で出発の水行》

 

富士塚で勤行のあと、大人も子供も“跨ぎ”を受ける

              《富士塚で勤行のあと、大人も子供も“跨ぎ加持”を受ける》

 

                                      《地元紙『富士ニュース』でも報道される》

 

                          《左富士神社で“杖加持”を受ける人たち》

 

                       《松栄堂薬局まえで“杖加持”を受ける人々》

 

 

                    《日吉浅間神社で宮司からお祓いを受ける一行》

 

                       《日吉浅間神社拝殿まえで記念撮影》

 

                     《鯛屋旅館まえで“杖加持”を受ける人たち》

 

                        《千貫松では14キロの西瓜の“お接待”》

 

                《次郎長町では盛大な“お接待”が待ち受けていた》

 

                   《“跨ぎ加持”を受ける次郎長町のこどもたち》

 

 2日目は標高差2000メートルの森林帯。上空は晴れていたが、標高1500〜2500メートル一帯は、駿河湾からの上昇気流のためべとべとの天気。

“”

                   《20日早朝、いよいよ山道に入っていく》

 

                               《札打場での勤行》

 

             《天照教本社まえの朝食は富士宮の和風料理“花月”から出前》

 

                《一ノ木戸あたりは台風12号による風損が生々しい》

 

 3日目も晴れ。朝から西の風が強く、八合目以上に巨大な笠雲ができるが夕刻には治まる。

 強風のもとでの柱源(はしらもと)護摩供の様子は次の動画でお楽しみください。

 https://youtu.be/nylaTOnNa6w

 

                         《浅間大社奥宮まえで記念撮影》

 

             《ガスのかかるなか、御殿場口ルートから下っていく》

 

                  《宝永第1火口から登ってきた一行》

 

 以上、市川和秀・瀧田浩貴・土田純子・土屋四郎の各氏から画像データの提供を受けました。お礼申し上げます。

春日山脱線登山、鉄ちゃんの旅

 あすは中央線石和温泉からバスで鳥坂峠まで上り、春日山が目標である。8月31日夕刻、数日来東北南部に停滞していた前線が南下を始めたようだ。


 翌朝9時の前線の予想位置は、ズバリ山梨県を狙っている。

 がしかし、じっさいの天気がどうなるかはまだ分からない。雨が降ったとしても地域と時間が限定されれば、いまどき濡れても身体が冷えるようなことはないだろう。
 9月1日4時起床。妙に明るいなと思って新聞取りに出てみると、快晴!
 あの前線はどこへ行ったんだ。パソコンを点けて気象庁のレーダー・ナウキャストを開くと、確かに関東地方の大部分には雲一つない。

 しかし、すでに東京都の西端から西、山梨県全域と長野県南部、愛知県まで雨雲でベッタリ覆われていて、雨雲全体が東に進んでいる。 そのうち綺麗な朝焼けが始まる。出発時刻だ。
 町田、八王子と乗り換えて集合場所の高尾駅に近づくと、確かに北の山には雲が下がっているが、南の空には雲間に青空がのぞいている。
 7:10甲府行列車は高尾発。
 レーダー・ナウキャストの画像に大きな変化はない、雨を避けるとすれば伊豆半島か房総に方向転換するほかないかな。というところで、ひらめき。
  今回は参加者全員が青春18きっぷ利用である。新幹線や特急列車はダメだが、在来線ならJRを一日中乗り回してどこまで行ってもいい。今日中に帰ってくればいい。
  8:31下車予定の石和温泉は通過して8:40甲府着。
  改札を出てまずは北口の甲州夢小路。洒落たワインバーなどあるが早朝から開いているわけではない。再建された山手御門に登るとミニ博物館兼展望台になっている。

 レーダー画像にあった雨雲などこへ行ったのか、遠望が利く。再建された時の鐘の向こうにあるはずの富士山は見えない。

 次いで中央線を跨線橋で渡って本丸跡へ。天守台への石段は脛より高い段差もあってけっこう登山気分。

 10:54身延線富士行き甲府発、南甲府駅に近づくと富士山が見えてくる。

 11:41市川大門着。ここは江戸時代から富士川舟運の中継地として栄えた歴史があり、駅舎も何かを語りかけているようだ。

 町の観光案内板によると今日でも和紙と花火の生産が盛んなようで、中央通りを見物しながら1駅引き返して市川本町駅へ。

 そのほか幕末の天保の飢饉のおり、この地で大我講を興した大寄友右衛門が忍野八海を整備して村民救済を図ったと伝えられており(『忍野八海を中心とした富士山信仰と巡礼路』忍野村教育委員会、2015年)、機会があれば再訪したいものである。
 12:19市川本町発は、2駅目の鰍沢口駅行き。身延線には富士駅発の下りも甲府発の上りにも鰍沢口行きという列車がある終始点駅なのだが、駅前には何もない。十谷温泉行きのバスが待っていたがこれは富士川町営のホリーデーバス(土日休日運転)で1日3往復、これに乗ったら今日中には家に帰れないだろう。
 薄日が差しているので富士川土手に行って昼食。ヘクソカズラの清楚な花が満開で、踏んだり摘んだりしないことが肝要である。

 13:14鰍沢口発、15:09富士宮着、静岡県世界遺産センターへ。


 ここでは螺旋回廊を登って頂上まで行くと正面に富士山の大展望という富士登山の疑似体験ができる。笠雲を被った富士山の全体がくっきり。

 2階の映像シアターでは“地の巻”を上映中で、わが聖護院・富士山峯入り修行の一部始終が紹介されている。先駆けとして先頭を歩く筆者は11場面に登場する。
 閉所時刻まで滞在して真ん前の神田川楽座に入って生ビールで乾杯、名物の富士宮焼きそばもいただく。

 18:00富士宮駅発、18:23富士駅乗り換え、19:27熱海駅乗り換えで長い一日の鉄ちゃんの旅を終わったのであった。


 ちなみに藤沢在住の筆者がJR乗車券をそのつど購入すると:
 1940+320+190+1140+1940=5530円也となるが、

 青春18きっぷのおかげで、11850÷5=2370円で済んだ。

台風12号の置き土産 その2

  きのう8月6日は、富士山富士宮口五合目から九合五勺・胸突山荘まで、10キロの荷物の荷揚げをおこなった。21日に聖護院・富士山峯入り修行では山頂で柱源(はしらもと)護摩供を執行するので、法具をあらかじめ揚げておこうというわけである。
 15:30下山を開始。間もなく雨が降りはじめたので雨具を着けたが小降りになったので、17:00元祖七合目で脱いだ。蒸し暑いので、汗をかくよりは濡れた方がいい。
 なにしろ雨具とはいえ、自衛隊の冬季用白ポンチョだから、いったん事あれば雪のシベリアを横断してモスクワまで攻め込まなくてはならない仕様で、夏の富士山向きではない。
 ちょうど身軽になったところで、花月マスターからケータイが入る。
「いま五合目にいる、これから西臼塚におりる」
 きょうアサギマダラの観察のために村山古道に入ることは聞いていた。
「台風12号の風損被害は凄いね。ちょいと直そうと思ったのだが、とうとう本気になって掃除してしまって、こんなに遅くなった」
 蝶の舞いを見に来て力仕事とはご苦労さんです、そいう人柄なんですね。
 歩きはじめて間もなく雨脚が強まり、こんどはボツボツと雨粒が大きい。すぐにポンチョを着直すがあっという間にずぶぬれ。
 土砂降りになってバリバリバリ!!  雷鳴が頭上を駆けめぐる。上空に寒気が流れ込んでいるのだ。
 雹が降りはじめるがさすが冬季仕様だ、びくともしない。
 薄暗くなってきて雷光が見えるので、雷鳴までの時間を数える。
 5秒1500メートル、3秒1000メートル、どんどん近づいている。
 新六合・宝永山荘のトイレ屋根が見えてきたとき、ピカーッ、ゴロゴロドシーン! 雷光と雷鳴の間がない。
 真っ暗な宝永山荘に飛び込んだのは18:00ちょうど。落雷の直撃を避けるため発電機が切ってあるのだ。


 下界の炎熱をよそに、久しぶりに涼しい登山をさせてもらった。

台風12号の置き土産

  7月28日夜から29日にかけて、台風12号が駿河湾沖を西に進んだ。


  富士山頂で安全指導員を務めていた富士宮市の西方義典さん(71歳)は、台風最接近の前に下山しようと判断したのであろうが、それでも途中で強風のために身動きできなくなり、低体温症で亡くなった。
   翌30日夜、静岡県立図書館から帰宅途中の列車のなかで富士宮口新六合目の宝永山荘から電話をもらった。沼津始発18:08上野東京ライン宇都宮行きのこの列車は熱海で5分、小田原で5分と途中停車が長いので、停車ごとに電話を繋いでかなり込み入った話ができる。
 電話口には宿泊客、静岡の田中裕二さんに出てもらった。きょう村山古道を登ってきて酷い目に遭ったという田中さんの話によると、台風による新しい倒木が酷くてとても歩けない状態になっている、自分は7月14日に登って2回目の登山だからなんとか突破できたが、初めての人にはぜったい無理である。
  4日の村山古道ゆったりツアーは不人気のため中止させてもらったが、11日のツアーと20日の富士山峯入り修行に重大な支障が生じるかもしれない(山樂カレッジの行事案内参照)。さっそく実情を調べなくてはなるまい、少々のことなら手直ししながら下ってみることにした。
 8月1日、始発電車を乗り継いで、富士宮駅前8時10分発の富士山五合目行きバスに乗ると9時30分に五合目着、10時には宝永山荘に到着しここが出発点になる。
 初めザレ場にはカラマツの枝葉がやたらに散らばっている。広葉樹は葉っぱを落として小枝を護るが、針葉樹は弱い葉を枝ごと落として本体を護る。台風の風の強さを物語っているようだ。
 下の宝永遊歩道からはシラビソの小枝が散らかるようになる。
 ときに幹が根こそぎ倒れて道を塞ぐ。


 このばあい、登山道幅の右端を鋸で切ってしまう。切り口が鋸の刃を挟んで締め付けないよう、幹を左手で持ち上げる。左手を引っ込めると幹本体が地面に落ちて歩けるようになる。
 生のシラビソは豆腐のように軟らかいから、ほんの2分とかからない。
 シラビソの大木が倒れて登山道を塞いでいる。


 登山道は倒木の左から右下へと曲がっている。登山道幅の左端を切り落とすためには左手で鋸を引かなくてはならない。しかも重い複雑な枝先が絡んでいるので、もう1〜2カ所鋸を入れる必要があるかも知れない。
 この際、カラマツの大木のほうに伸びた梢を3カ所切れば向こうに下ることができる。中央の主幹を別にすれば、残りの小枝は鋸の右引き1回ずつでおわる。小枝の折れ具合から推測すると、あの田中さんもここを押し通っている。
 ナナカマドの大木が倒れて側枝が下向きに6本、櫛の歯のように登山道を塞いでいるところがある。これは枝の根元に鉈を1回ずつ打ち込めば真っ平ら、横たわった幹の下を楽々通過できるようになる。
 一ノ木戸近くまで下がってくるとシラビソの大木が道連れといっしょに倒れている。あの田中さんは道具(鉈や鋸)は持っていないはずだ。どこを通ったのだろう。


 ここでは右手にある丸太は跨いでもらうことにして残し、それ以外の小枝はぜんば鉈で払うと、右に回り込む踏み跡が現れてくる。
 一ノ木戸のすぐ下の風損がいちばん酷かった。


 数本のシラビソが集団自殺したような状態で、1本ごとの木の絡み具合などはよく分からない。

 田中さんは鶴のように長い脚をもっているか、そうでなければ蛇のように匍匐前進ができる人なのかもしれない。

 ともかく登山道の筋道を見極めて、そこにはみ出している小枝大枝・幹はぜんぶ鋸と鉈で切り落として道筋がみえるようにしておいた。

 

 今回の台風12号の置きみやげによって、ここを登ってくる登山者は、初期の村山古道を登ったときのようなワイルドな気分が味わえるのではないだろうか。
 標高2000メートル、横渡にもアサギマダラが吸蜜していたが、1650メートルの高鉢駐車場には20〜30頭のアサギマダラが乱舞していた。

オールコック異聞 その1

 去年の暮れから目の前に、オールコックの影がちらちらしている。
 戌年にちなんで、年賀状にオールコックの愛犬「トビー」を使えないだろうかと、ムラヤマフジコちゃんから問い合わせがあり、それが発端である。 

 駐日初代英国公使オールコックが、万延元年(1860)に西欧人として初めて富士山に登っての帰り、東海道で箱根を越えて東神奈川に帰るのではなく、三島から間道を通って熱海に出て、そこで2週間休養している。
《この閑静な温泉場でわれわれがおくった生活は、単調そのものであった−−そこでのできごとは、早飛脚が到着したことと、いつもわたしの忠実な友であった愛犬のスコッチ・テリアが死んだことだけだ。》(オールコック著・山口光朔訳『大君の都』岩波文庫、昭和37年初版)     
 当時の熱海の源泉は自然のままで、道ばたのあちこちから熱湯がぶくぶくと迸り出ているような状態だったらしい。

《温泉壺数多シ。六ツ八ツ七ツ昼夜六度大熱湯トナル。》( 『伊能忠敬測量日記 伊豆篇』 佐藤陸郎校注・自費出版、2003年)

 公使の愛犬トビーがその一つ、大湯間歇泉の熱湯を浴びて死んでしまったのである。

 

 

 思いがけないことに、村人たちは坊さんを呼んで丁寧に弔ってくれたので猊下は大感激、イギリス国民の親日感情向上に寄与するという美談になるのだが、私に言わせりゃあ、エッ!オールコックは富士登山に犬ころを連れて行ったの?
   
 そう言えば……万延元年7月25日(1860年9月10日)にオールコック一行が大宮(富士宮)を通過したときの記録が残っている。
《「異人等ハ浅間社を拝せずす通り也 別当〔宝幢院〕ニてウドンを多く喰し鮪〔まぐろ〕のさし味を多く喰し アヒルを料理して 生の肉を飯ニかき交て多く喰す …………  羅沙面の小獣を連来ル 鶏 アヒル荷物也》
 ここでいう“羅紗面の小獣”こそが、鶏・アヒルのように生きたままぶら下げられている食料ではなく、まさに猊下お気に入りのトビーのことだと思われる。
 この記録は幕末期に大宮の酒屋さんが書き継いだ日記で、29字×26行×2段組み、B5版、全5冊、900ページちかくが翻刻されている。引用は『駿州大宮町横関本家 袖日記(八番・九番)』(富士宮市教育委員会編・発行、平成12年3月)からである。

 
 
 ただしこの“羅紗面の小獣”、ご主人様が富士登山中、麓のどこでだれが世話をしていたものか、これ以外のことは何も分かっていない。
 数年前にわたしが脊椎管狭窄症&椎間板ヘルニアという診断を受けたとき、通院して待ち時間が余りに長いので全冊読んでしまった。というのは言い過ぎで、長い待ち時間を利用して全冊をめくり、いくつかのキーワードを決めてレ印を付けておいた。それがこのときの記憶喚起に役に立ったのである。
 病気のほうは幸い、大袈裟な病名にかかわらず、積極的治療がないまま間もなく自然治癒する。

 膝なら膝、踵なら踵、脊椎なら脊椎というように、整形外科の専門領域は分化しており、各分野の治験を積んだ医者をそろえることは業院経営にとって大変だと理解はできる。しかしか長い待ち時間をすこしでも有意義に過ごせるように、待合室に書見台を設備してもらえるとありがたいのだが。

池塘と花の会津駒ケ岳

 「東日本と西日本では12日から17日頃にかけて最高気温が35度以上となるところがあるでしょう。熱中症など健康管理に注意してください。」(平成30年7月10日15時00分気象庁予報部発表)
 そして7月14日午後1時、会津駒ケ岳滝沢登山口は31℃、山樂カレッジ登山隊は登り始めた。われわれには知る由もないが、ちょうどこのころ東北地方南部の梅雨明け宣言が出されている。

 


  このコースは山頂近くまで樹林帯が続くとはいえ、この暑さのなかを本日の宿である駒の小屋まで、標高差1230メートルを登るのはかなりきつそうだ。
  初めはミズナラの巨樹群に感心し、「ツルリンドウが多いねえ」などとブナの大木が混じってくるころまでは森林観察の余裕もあったが、あとはひたすら水場はまだか? 下ってくる人が、「あと一登りではなく二登りかな」、ぬか喜びしないよう気をつかってくれる。
  随時に休憩を入れながら 水場に着いたのが午後4時。ダケカンバの大木が出てきても急坂はつづき、オオシラビソ帯でようやく傾斜が緩み、最初の高層湿原に着いたのが5時40分。

 

 ここからは会津駒ケ岳(2132メートル)が正面に、ようやく左手に駒の小屋が見え、小屋に着いたときは6時を回っていた。黄金色に夕日が照らされながら自炊の夕食を済ませると間もなく消灯。
 この小屋に発電機はないのでランプが消えると、外は満天の星である。

 

 15日午前4時、雲一片ない青空である。刺すとか噛みついたりはしないのだが、小蠅が何匹も顔や首に止まって五月蠅いので、防虫ネットを被って4時40分に出発。まずは目の前の会津駒ケ岳へ。空身だからきのうとはうって変わってるんるんである。

 


 巻き道で駒ケ岳入り口を過ぎると雪田が現れてくる。夏が短く枯れた草が分解しないまま堆積して泥炭層となって水を貯める。これが池塘である。

 


 雪解けの直後、ほかの植物が芽生えないうちにまず花を咲かせるのがショウジョウバカマやハクサンコザクラ。

 

                          中門岳(2060メートル)は冬には雪の吹き溜まりになる。

 


 イワイチョウの花やワタスゲの穂が木道わきに続く。

 


 

  そのほか、コバイケイソウ、チングルマ、コイワカガミ、ハクサンチドリ、キソチドリ、ハリブキ、ネバリノギラン、バイカオウレン、ツマトリソウ、ゴゼンタチバナ、マイヅルソウ、ハクサンシャクナゲ、ベニサラサドウダン、ギンリョウソウなど春の花が咲き乱れ、ずっと下ってくるとヤマブキショウマ、オカトラノオ、キツリフネ、ヤグルマソウ、ヤマアジサイ、タマガワホトトギス、そして綿菓子のように広がるオニシモツケ。

 

 登りも下りも暑さに辟易したが、それでもお釣りがくるほどの花の山であった。

富士山・村山入山式の脇道

 西日本大豪雨の悲報がこれから大展開しようという7月9日に東海地方は梅雨明け。 

 翌10日は猛暑のなか、富士山の静岡県側各登山口で山開きが行われた。平日にもかかわらず村山古道入り口にも、300人以上の参拝者があり、神仏混交の開山式典が繰り広げられ、京都は聖護院の山伏による採燈護摩焚きが掉尾を飾った。

 


 それに先立ちわたしは、道者道の補修と村山古道の整備をおこなった。
 むかしの富士山信仰登山をする人を道者といい、道者が歩く道だから道者道。
 富士宮市街地から村山まで断続的に続いているが、江戸時代以前からの古い姿を残しているのが、くねくねの国道469号にある粟倉観音堂から村山・西見付までの急坂、800メートルの間である。

 


 左は『富士根村精細地図 最新地番地目地積入』(秋山工務店、昭和29年)で、右は『ゼンリン住宅地図 SHIZUOKA富士宮市』(ゼンリン東海、2010年)である。
 黄色い部分が国道469号で、くねくね部分は現在でも往復1車線、大型バスは入れないどころか小型車同士でも擦れ違いができない。「富士根北公民館で右折しないで」とこのルートを指示すると露骨に嫌がるタクシー運転手もいる。
 赤線部分が道者道で、半世紀前の土地利用図でははっきり全コースが描かれているが、こんにちの住宅地図ではまったく分からない。ただ後者をよく見ると「山辻の石畳」と書かれた右側にわずかな破線があり、かろうじて石畳道の存在を示している。
  ここでようやく本題に入るのだが、村山入山式当日には富士宮歩こう会の人たち100人がここを歩いて村山に入るというので、先日は同会が道者道の整備したという。まことにめでたいことである。
  ところがわたしが9日に行ってみると、石畳から上の部分はチェンソーと刈り払い機が入ってきれいに掃除してあるが、石畳までの下半分はまったくの手つかずである。

 


 富士宮歩こう会の人々は山辻の石畳までどこを通って来たんだろうか。まさかヘリで飛来してロープを垂らして懸垂下降したわけでもあるまい。
 ヒントは富士宮市教育委員会の《歩く博物館 D 富士根北地区 「道者道を歩くコース」》 にあった。

 


 これによると、山口鉄工所の左を藪の茂った道者道に直進しないでアスファルト道を右折し、突き当りのカーブミラーのところを左折してゆるゆる上って、山辻の石畳をそのまま通り過ぎて国道469号のくねくね部分に出て、バイパスが完成したために行き止まりの盲腸道になった469号を本来の道者道まで辿るという全面的な迂回路である。
 つまり富士宮歩こう会のコースは、前半の山辻の石畳までは行政ご推薦の自動車道を歩き、後半は行政の指導に従わないで独自の道を切り開いたということになる。もちろん各主催団体には独自に練り上げられた目的と参加者全体の力量の評価があるので、わたしはそれがいいとか悪いとか言うつもりはない。
 ただ1年間に10人でもいいから、山辻の石畳までの下の部分を歩いてもらえると、歴史の道が保存できるのだがな、という思いはぬぐいがたい。

 


   小さな沢に架かっていた橋は崩れ落ちているが、足許はまったく傷んでいない。チェンソーどころか、鉈を抜くこともなかった。とりあえずは鎌一本で、顔に枝葉がぶつからないで通過できるようにしておいた。