富士山のメタファーが変質する

  ことしも青春18きっぷ、春期シーズンが終わった。
 人生のサンセットに近い私は、ことしも3セット利用させてもらった。
 山樂カレッジの山行や夏の富士山・峯入り修行のための挨拶回りもあったが、図書館通いが12人/日。富士宮市立中央図書館や山梨県立図書館、大月市立図書館にもちょろっと行ったが、10人/日は静岡県立図書館歴史文化情報センターであった。

 すでに紹介したことだが(2018.10.07Sunday オールコック異聞 その3)、ここでは明治以来の新聞のマイクロフィルムがA3版にプリントしてあるので、効率的に紙面チェックができる。このところ『静岡民友新聞』をずうっと眺めていて、富士山関係の記事を中心に拾っている。

 この春は昭和8年4月から13年3月までをめくった。1か月半ずつ製本してあるVol.236からVol.282まで眺めて、ざっと1200枚のコピーを撮った。
 この間の歴史上の大事件としては昭和12年(1937)7月7日に起こった蘆溝橋事件、すなわち日中戦争勃発が挙げられるだろう。
  例年春先から紙面には、山小屋の準備やら登山道整備の記事が載りはじめ、開山の7月を迎えると登山記事が連日の洪水となり、8月後半になると右下がりに少なくなっていく。ところがこの年、昭和12年は初めから記事本数が少ない。
 煩わしいかと思うが、7月1日以降の記事タイトルの書き出したを眺めていただきたい。
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深雪の富士へ軍隊夜間登行 宇都宮聯隊の壮挙」(7月1日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(一)」(7月1日付夕刊)
残んのお化粧美しく 富士山お山開き 室も開いていよゝゝ準備」(7月1日付朝刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(二)」(7月2日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(三)」(7月3日付夕刊欠号)
「本社主催 富士を中心にして語る(四)」(7月4日付夕刊)
大宮口の登山者 天候回復に元気で」(7月4日付朝刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(五)」(7月6日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(六)」(7月7日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(七)」(7月8日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(八)」(7月10日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(九)」(7月10日付夕刊)
国鉄夏の陣立 登山・探勝・海水浴等々の割引」(7月11日付夕刊)
元気=百十歳翁 白装束姿も甲斐々々し」(7月11日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十)」(7月11日付夕刊)
行列そろえて大社に参詣 百十歳翁の元気」(7月11日付朝刊)
白衣に六根清浄 百十歳翁元気で登山 早暁大社前に勢揃ひ」(7月12日付朝刊)
百十歳翁富士頂上を極む」(7月13日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十一)」(昭和12年7月13日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十二)」(年7月14日付夕刊)
百十歳翁と語り合つて静岡師範富士登山隊帰る」(心持」(『静岡民友新聞』昭和12年7月15日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十四)」(7月16日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十五)」(7月17日付夕刊)
羅府ボーイスカウトが“五湖めぐり”から大宮へ」(7月17日付朝刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十六)」(7月18日付夕刊)
大宮署長が試みた富士登山標準時間 大宮口制破十二時間」(7月18日付朝刊)
大宮口賑ふ きのふ登山客八百名」(7月22日付夕刊)
「暑中御伺 東海道線御殿場駅前富士登山御殿場口営□組合 東海道線御殿場駅前富士登山自動車営業組合ほか」〔広告〕(7月25日付夕刊)
羅府の若人 ゆうべ大宮に一泊 けさ勇躍登山の途に」(7月26日付朝刊)
静岡少年団 富士登山 けふ雨を冒し勇躍出発」(7月27日付夕刊)
登山病者のために村田県防疫医活動 富士八合目県救護所に詰切り」(7月29日付夕刊)
富士閉山」(『静岡民友新聞』昭和12年9月1日付朝刊)
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 32本の記事が載っているように見えるが、新聞記者が雑談して机上で書いた記事が16回分あるからこれを1本と見なし、1ぺージ広告1回を除けば、記者が取材して書いた記事はわずか15本ということになる。

 しかも110歳翁の登山記事5回と、ロサンゼルス若人の記事2回をそれぞれ1本とみなせば、富士登山の記事は絶滅したほどに少ない。
  日付にも注意を払っていただきたい。

 7月29日付の救護センターの記事の次は9月1日付の閉山記事に飛ぶ。

 昭和12年8月、富士山は存在しなくなったような印象で、秋になっても富士登山関係記事が復活することはない。
 この日、というのはことしの3月26日の夕刻、『静岡民友新聞』をVol.272、昭和12年10月1日〜11月15日の晩秋までめくっていって、富士登山関係の記事が一本も登場しないことに異変を感じた。

 その代わり中国大陸各地に侵攻する日本軍の赫々たる戦果と、9月にはいると戦死者・戦傷者記事の大洪水になる。そしてそのなかに、消えたはずの富士山が復活していることに気づいたのである。
 図書館通い次の日には、目線を変えて、昭和12年7月1日までさかのぼって『静岡民友新聞』をめくりなおしてみた。
 その結果が、以下の追加記事である。
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「弾丸の炸裂は花火のやうぢやゾ 富士の見へぬを淋しがる喜多少将」(8月24日付夕刊)
岳南魂を発揮して北支に活躍する勇士」(9月3日付夕刊)
江南の華と散る若人 霊峰下の日本魂」(9月12日付朝刊)
岳麓の勇士 武門の誉 戦死二回の家 須津村半田上等兵」(9月18日付朝刊)
霊峰下勇士」(9月19日付朝刊)
「上海戦線に散る華 涙一滴見せぬ家庭の人々 富士郡」(9月20日付日曜夕刊)
「江南を彩る皇軍の花 霊峰下勇士」(12年9月21日付朝刊)
一死覚悟の上 雄々しき家庭 富士郡下に咲く銃後談」(年9月23日付夕刊)
岳麓の名誉」(9月25日付夕刊)
霊峰に輝く武勲 護国の人柱勇士」(9月27日付朝刊)
富岳にまさる勲功弥や高し 富士郡下の戦傷者」(9月28日付夕刊)
「楊行鎮激戦に散る霊峰下の三勇士」(9月29日付夕刊)
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 富士山になぞらえて、死を悼んでいるのか死を讃美しているのか、理解に苦しむ記事が並ぶようになる。この時点で、人々にとって富士山のメタファーは変質したようである。
 このところ世界文化遺産に絡んで、マスコミに“霊峰”という表現が目立ってきている。その人はこのような言葉の歴史を知って使っているのかどうか、気になるところである。
 奇しくもことしのエイプリルフール、4月1日夕刊のトップニュースは新元号の発表であった。
  令=イヒツケ、申渡シ、オホセ、ミコトノリ、……
  和=ヤハラグ、シタガフ、カナフ、不堅不柔、……
 いずれも『大字典』(上田万年ほか編、講談社、大正6年初版)に書かれている字訓である。
 レイワという音だけ聞いて明るい未来を期待ずる人もいるようだが、お上の管理が強まって生きづらい世の中になるかもしれないと心配するのは、私のように旧い教育を受けた老人の杞憂であろうか。