オールコック異聞 その4

 時はまだ3月である。
 3月22日は午前6時00分、JR藤沢駅の指定席券売機で新たな青春18きっぷを購入した。通常料金であれば藤沢―静岡間は片道2270円、往復4540円かかる。ジパング倶楽部の30パーセント老人割引でも3200円の出費だ。ところが青春18きっぷは5回・人分で11850円だから、1日1往復2370円で済む。ただしにこの切符では、自動改札は通過できない。駅員が見張っている改札横の関門で、日付スタンプを捺してもらう必要がある。
「今シーズン3セット目です」
「それはありがとうございます」、バシャ。
「まだ夜明け前なのに、なぜサンセットと言うか分かりますか」
「はア?」
「青春を謳歌している若者だけでなく、われわれたそがれの老人にも使えるからです。ありがとう」
 6:08藤沢発沼津行きに乗り、熱海で7:22始発の浜松行きに乗り換えると8:30には静岡に着く。トイレに寄ったりしてもゆったり、しずおかけんりつとしょかんれきしぶんかせんたーには9:00前に入れる。
 藤沢までの小田急線車窓からは丹沢山塊とその左に富士山が見えるかどうかをまず確認する。東海道線を下るにつれて平塚辺りからは大山はもちろん、丹沢表尾根から丹沢主稜線のどこまで見えるか、国府津をすぎるとぐっと近くなった富士山のご機嫌をうかがう。酒匂川鉄橋を渡ると箱根の山が仕切りになってしまい、丹那トンネルを抜けるまで富士山とはおさらばである。ぐうーっと長い暗闇を出るとすぐ函南駅である。ここでは左の車窓の展望が開けて沼津アルプスが見える。
 わたしが以前から気にしていたのはかなたの沼津アルプスではなく、駅のすぐ下、来光川を隔てた向こうの高みである。

 


 木立に隠されてはいるが、あの稜線通しには古い街道があるのではないか。オールコックが富士登山の帰りに熱海入りした間道というのはそこを通っているのではないだろうか。
  帰宅して現行の国土地理院2万5000分の1地形図を開いてみると、確かにその山の尾根には道路がある。三島地先の大場から上って平井、鬢の沢〔びんのさわ〕、軽井沢を経て、熱海峠を越えれば熱海は来宮〔きのみや〕神社の所に下っている。静岡県道11号熱海函南線(熱函道路)の旧道である。

 

  念のため明治20年、大日本帝国参謀本部発行の2万分の1正式図をみると、ほぼこの道を辿ることができる。沢筋は避けて、尾根通しに街と街を繋ぐ古くからの道であることがこれで分かる。

 


 オールコック一行はこの日、1860年9月14日(万延元年7月29日)、三島から下田街道に入って、いったん韮山に向かっている。
 韮山といえば江川太郎左衛門の居館。富士登山でお世話になったお代官さまにお礼の一言も言ったかどうかオールコックの記録からは分からないが、大場村まで引き返し、ここから熱海への函南越えが始まる。オールコックは書いている。
《われわれがだんだん高くのぼるにつれて、優雅な花をつけたイトシャジンがあたり一面にあらわれた。もっと高い山の背に到達して、谷間ごとに海の方をふり返ってながめてみると、一歩ごとに開けてゆく展望は名状しがたいほど美しい。それに、木のしげった丘や段々になった山の構成が雄大であることが多い。山岳地帯のまん中で、突如として百軒ばかりの家がある閑静な美しい村に出くわした。……下りは馬にとってかなりつらいもので、ところどころひじょうに急なところがあった。》(『大君の都』前掲)

 

 ここで時制は3カ月飛ぶ。2018年6月は5日付『朝日新聞』の「文化の扉」が伊能忠敬没後200年を記念して『大日本沿海輿地全図』の特集をしており、『朝日新聞デジタル』版に伊能中図のまさにこの函南越えの部分が載ったのである。
 ただ残念ながら画像の目が粗くて経路の細部はもとより、重要な手掛かりになる途中の地名すら読めない。単なる模様であって、具体的な分析の素材にもならない。
  幸いなことに『伊能図大全』(渡辺一郎監修、河出書房新社、2013年)の第5巻は伊能中図・伊能小図をカラー版で収録しており、韮山のすぐ北の大場村から平井村、軽井澤村を経て熱海村に通じる朱線が描き込まれている。

 


   伊能測量隊の行程についてはこれ以外にも、詳しいデジタル記録が残っている。
《〔文化11年12月16日〕……右日金山〔ひがねさん〕道追分、是ヨリ十八丁ト云。字峠。右ニ地蔵堂アリ。其側ニ堂守ノ家、是ヨリ下〔リ〕坂ナリ。田方郡江川支配所軽井沢村字ゾウシ場ニ三島街道打止(ソ)印ヲ残シ畢〔おは〕ル。》(伊能忠敬著『伊能忠敬測量日記 伊豆篇』佐藤陸郎校注・発行、2003年)
 年が明けて、
《〔文化12年正月26日〕曇天、午後晴。風烈〔シ〕。熱海村出立。無測ニテ山越一里半許〔ばかり〕行〔ク〕。豆州田方郡韮山支配所軽井沢村地内字ゾウシ場去冬残置(ソ)印初め。三島街道測量。是ヨリ下〔リ〕坂、都〔すべ〕て草野山広シ。此辺ヨリ羅宇竹出ル。字轆轤坂。右駒形権現・観音合殿〔相殿〕。……》(同前)
 オールコックに先立つこと半世紀、第9次伊能忠敬測量隊が東から西に越えた三島街道、こと根府川往還がこれである
《東海道の間道として諸大名・旗本ら武士たちが熱海へ湯治に来るための利用が多かったものと思われる。……軽井沢村は軽井沢から熱海村まで、平井村は軽井沢・三島間の継ぎ立てを行っていた。万延元年(1860)9月イギリス公使オールコックは富士登山の帰りに三島から根府川往還を通って熱海に入った。その様子が『大君の都』に書かれている。》(NPO法人伊豆学研究会伊豆大事典刊行委員会編『伊豆大事典』羽衣出版、平成22年)

 

 車窓の謎が解けたところで、ちょっと脱線。
 鎌倉幕府をはじめ江戸幕府からも深い帰依を受けていた伊豆山修験では、年末12月15日に伊豆山を出発、1カ月かけて伊豆半島を時計回りに一周するという修行が行われていた。ここで『伊能忠敬測量日記』に出てくる日金山、峠の地蔵堂、駒形権現はいずれも伊豆山修験の修行場である。修行行程の最後に当たっている(『伊豆峯次第』宝暦11年写本、昭和8年湯原基筆写)。
  というわけでいずれこの根府川往還を歩いてみたい。富士登頂を果たしたオールコック一行がどんな気分で凱旋していったかを感じてみたい。そしてこのすぐ北を通る東海道とは違った、信仰の道の歴史も味わえるのではないか。
 ついでに些細なことではあるが、山口光朔訳『大君の都』に出てくる「イトシャジン」についても現地で確認したい。 

 

 漢字で書くと糸沙参ではあるが、北欧原産の園芸植物が幕末のこの時季、函南高原に咲き乱れているという情景が想像できるだろうか。オールコックの原文ではharebellであるから、ツリガネニンジンかホタルブクロ、良くてキキョウではないかと思うのだが、いかがなものだろうか。

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