白鳥山から富士山を眺める

 静岡県道223〔ふじさん〕号では、道路交通法は適用されない。 

 静岡県の清水港と土肥港を結ぶ海上航路だからである。

 この海上からの富士山の眺めが素晴らしいと評判になり、観光目的で県道に昇格したのが2013年4月。

「駿河湾フェリー」は一躍有名になったが、駿河湾沿いの陸上道路網の発達はいかんともしがたく、2019年3月末で廃止と発表されたのが昨年5月のことである。
 そこで今年の新年登山は、ラフカディオ・ハーンも絶賛した海上からの富士山展望を計画したのであるが、昨年末に富士宮駅に貼ってあるJR東海のお知らせに絶句した。


 駿河湾を泳いで渡ることもできず、吉原駅南口の津波タワーやふじのくに田子の浦みなと公園にある富士山ドラゴンタワーからの眺望で誤魔化すわけにもいかず、できるだけ南の方から眺めようと地図で探して、身延線は芝川駅の西にそびえる白鳥山に登ることにした。
  静岡県と山梨県の境界は複雑である。東の端、駿河・甲斐・相模の接する三国山からほぼ西に向かうが、小富士から富士山頂までの間は現在でも県境が未定。山頂から西に下りながら10キロほど北上して、本栖湖の南岸・竜ケ岳からは天子山脈を南下して富士川を越えて駿河湾にあと10キロまで迫り、今度はまた北上すること50キロ、白根三山の間ノ岳が駿河・甲斐・信濃の境界になる。

 その南端近くにあるのが白鳥山であるから、富士山を南西方向から眺めることになる。

 登り方は至って簡単である。静岡県側の身延線芝川駅から往復とも歩き。

 ただし西富士宮から北は1時間に1本の電車、16時台は一本もない。バスやタクシーがからまないから、下り時間でのバタバタがない。
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 1月26日(土)早朝、日本海に小さな低気圧があって無風快晴だったが、身延線に乗り換えるころから北風になった。高気圧からの吹き出しが始まったようだ。

 とちゅう富士根駅のホームの北端からは電線が一本もない富士山が見える。


 芝川駅は無人駅である。掃除の行き届いたトイレはある。県道を左に行って踏切を渡り、バイパスと合流したところで左折すると鋼鉄製のアーチ橋・釜口橋がある。


 上流側から見るとこのような場所である。


 およそ1万4000年前、富士山から吐き出された芝川熔岩流がほぼ真横から富士川に流れ込んで右岸に大きく蛇行させ、幅広い河川敷を造り、左岸では10メートルも熔岩塊を削り込んで直線の水路を造った。なぜこのように複雑な地形になったのかいまのところよく分からない。
  日本三大急流である富士川の舟運最大の難所がこの釜口峡となったが、川幅が狭いことを生かして古くから橋が架けられていた。
《慶長十三年、神祖駿府御在城の時、台命にて此所に刎ね橋架けたりと云う。》(『駿河記 下巻』桑原藤泰著、足立鍬太郎校訂、加藤弘造出版、昭和7年)
 慶長13年といえば1608年、江戸時代の初めに、神祖すなわち徳川家康の命令で刎ね橋が架けられたというのである。 

 甲州街道の猿橋のような構造だったのだろうか。詳しくは分からないが、何度か掛け替えられるうちに幕末には、藤蔓や竹を縄のように編んで使う吊り橋になったようである。
《其の橋造り毎歳八月竹縄を作り、両岸に岩石を多く積んで中央に題目石を掘り建て、彼の竹綱四本を巻き付けて結び付けかため、此方の岸より彼方の岸へ八筋引き渡し、其の上に竹綱を凡そ九尺計りに切りて隙なく横に結びて、縄簀の如くになし、其の上に厚さ一寸・幅尺許りの長板を正中に一枚通り敷き渡し、其の板の上を歩行す。又左右に橋より少し高く二筋の綱を渡したり。又向こうの岩上橋下の大木より此方の橋上の大木に一筋の大竹綱を張り渡して、釣橋を下より中央のたるむを扣〔ひか〕え置くなり。》(同前)
  次の絵図は『駿河記』を書き残した桑原藤泰が描いたスケッチである。


  ちなみに桑原藤泰(1762〜1832)は、東海道島田宿の作り酒屋に養子にはいり、駿府奉行の『駿河大地誌』編纂計画に従事するが参加者が次々に亡くなり、単独で『駿河記』をまとめたのは文化3年(1806)。しかし桑原家にはすでに財力もなく、『駿河記』が刊行されたのは死後100年経った昭和7年(1932)、『駿河記 絵図集成』が陽の目をみたのは平成10年(1998)のことであった。
 蝦夷地探検で有名な松浦武四郎が明治2年(1869)にこの橋を渡っている。
《如何にも足おのゝきて渡りがたき物なりしに、両掛けを持たせし人足は未だ始めてのよしにて荷を卸して越え難き由申せしに、余も実に当惑したるに、大宮より案内致し来り呉し直吉の養子は、此の内房村の者のよしに而日々渡りしとてすぐ此の両掛けを荷い渡りしが、其の者橋三分も行くや揺れし橋キッとしまり如何にも渡りやすくぞ見えたり。》(「明治二年東海道山すじ日記」『松浦武四郎紀行集(上)』古田武三編、冨山房、昭和50年)

 この橋の明治時代の写真が残っている。


  危うげな吊り橋の向こうに霞んで見えるのが、本日の目標、白鳥山である。
  大正4年(1915)この100メートル下流、おそらく現在の釜口橋の位置に、長さ34間・幅9尺、木造トラス補鋼の鉄線吊り橋が架けられる。しかし大正7年(1918)年10月28日、豊橋歩兵第六十聯隊が通過中に落下、死者7人という大惨事を引き起こしている。

 
 当時の『静岡民友新聞』は原因を重量オーバーと報じているが、兵隊の揃えた歩調で橋桁の震動が共鳴して大きくなって鉄線が切れたのではないか。

 わたしが小学校時代の遠足で、一行が橋に差しかかると、付き添いの先生が「足並み乱せ!」と怒鳴っていたのは、この事故の記憶があったのではないか。
 われわれは昭和26年架橋の鋼鉄アーチのトラス橋で瀬戸島に渡り、続いて内房橋にかかると右手正面に白鳥山が見えてくる。


 富士川の右岸山裾を右折して間もなく、日蓮宗本成寺の手前に白鳥山への看板がある。10時35分、標高74メートル。
 ちょっと登ると峯集落があって、正面の民家の庭に入っていくと山道が始まる。
  林床がきれいに掃除された孟宗竹の竹林が続く。直径20センチ近い竹も立っている。富士宮市内房はタケノコの産地として有名なところである。
 まもなくお題目塔にぶつかる。左面には「身延道」、右面には「七面宮 安永二癸巳二月日」と読める。右の、20〜30年生の杉の植林地をジグザグに登っていく。
 登山家が造る登山道は最大角度を採って一直線になるが、伐木造林の作業道は一定の傾斜を保ってジグザグになる。作業員が現場に着いたとき、息が切れていたら仕事にならんからである。


 あいかわらず杉林のジグザグを登っているととつぜん、石段と立派な看板が現れる。
《平成十一年(一九九九年)地元有志五人が、定年退職記念に白鳥山登山をおこなった。一行が途中休憩した処に、石ノミの痕跡がある岩が覗いていた。これが参道階段敷石の発見となり、驚きと感動で地元有志が集い発掘のうえ今日の整備に至っている。》
  そりゃ驚いたことであろう。何もないはず土の斜面から175段の石段が現れ、下のお題目塔に書いてある七面宮跡が実在したのである。

 七面宮とはなじみがないが、ここから20キロ北方、身延山の隣の七面山には七面天女が祀ってあるという。
《七面神 日蓮宗の守護神。七面明神・七面天女・七面大菩薩とも称す。本地は吉祥天、または弁財天という。》(『国史大辞典第六巻』国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館、昭和60年)
 ところで、今日流通している国土地理院2万5000分の1地図「富士宮」にはお宮マークが記されている。


 こんなちっぽけな無住の廃寺跡がなぜ記載されているのか、疑問が湧く。
 手持ちの地形図を調べてみると、もっとも古い国土地理院5万分の1地形図「富士宮」(1969年発行)、その前の内務省地理調査所「富士宮」(1946年発行)、さらにその前の大日本帝国陸地測量部の「大宮」(1920年発行)にまで溯ってみると、ずっとここにお宮マークが付されている。さらにそれ以前の大日本帝国陸地測量部「大宮」の1913年版、1899年版には記載がない。
 つまり、大正2年から9年の間に行政当局がここに神社があると認識し、地名調書原簿に書き込まれたことになるが、それ以降は誰もがそのことを忘れていたということである。ともあれ、めでたしめでたし。
 国土地理院地形図にはもう一つ間違いがある。
 最新の電子板ではお宮マークが標高280メートル地点に記されているが、今回GPSデータを解析したところ、もっと上、標高430メートル付近ではないかという結論が出ている(地図上の矢印)。展望の利かない杉林のなかであるが、等高線から考えてもそうではないか。
  12時08分、標高470メートルの小ピークに出る。杉の大木の根元に卵形の大石があり、《豊雲野姫金神大神》と陰刻してある。日本神話に出てくる天地開闢の神の1柱である。
 ここから頂上まで標高差100メートル。やや急斜面になるが、《頂上迄350叩佞箸い辰神个良玄韻50メートル置きに建てられている。
 12時26分、標高568メートルの白鳥山山頂である。


《白鳥山砦跡 静岡県との県境の富士川右岸に位置する白烏山にある砦。白鳥山は城取山ともいう(甲斐国志)。……永禄一二年(一五六九)武田信玄が駿河へ侵攻した折設けたという煙火台で、山中には陣場・鞍掛・馬ノ背・大鼓・打揚山などの地名が残る(同書)。「甲斐国志」はさらに白烏山の山名について、白鳥は日本武尊の陵の名であり、駿河にも尊の古跡があることから、山名に冠したとしている『日本歴史地名大系第一九巻 山梨県の地名』平凡社地名資料センター編、平凡社発行、1995年)
  確かに、冨士山麓に軍隊が動けば手に取るように分かる。
 正面に富士山は見えるが、山頂部に雲か掛かってきた。アルプスを越えてきた雪雲だろうか。それにしても富士山の山肌にはほとんど雪がない。
  頂上には戦争にはふさわしくないものもある。石板が立っていて、ハート形の窓が富士山側を向いている。《恋人の聖地》と書かれている。
《恋人の聖地プロジェクトでは、……全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定し、地域の新たな魅力づくりと情報発信を図るとともに、地域間の連携による地域活性化を図っています。》(NPO法人地域活性化支援センター、ホームページ)
 現在「恋人の聖地」は全国で140カ所あるそうだが、ネットで探しても白鳥山は写真は一枚も出てこないし、当の地域活性化支援センターのホームページには静岡県内で8カ所の恋人の聖地が紹介してあるのに、白鳥山は漏れている。
  つのる想いを抑えて、何も言わずにここまで連れてきて、ハイ! プロポーズ、というケースがありうるだろうか。
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 風が出てきた。枯れ草が深いので火が使えない。
 西側、つまり武田側に10分足らず下ると東屋とトイレがあって、ブランコまである。ここで昼食。
 下りはゆっくり歩いて麓の本成寺まで60分、帰りは新内房橋で富士川を渡った。
 釜口峡のいちばん狭い場所に竹綱や藤蔓の吊り橋があったと思われるのだが、いまは直径6メートル、巨大な鉄管を渡すサイホン橋がある。


 鉄や銅の精錬は酸化物や硫化物を高温で融かして還元するが、アルミニウムは電気分解みたいなものだから、大量に電気を必要とする。東海道線蒲原駅近くにある日本軽金属では工場に隣接して富士川第二水力発電所を持っている。


 写真のGoogleのGが発電所で、その右が工場である。
 日本軽金属ではここから7キロ上流に富士川第一発電所を持っており、使った水は富士川に戻さないまま左岸の山中深く掘ったトンネルを通して釜口まで流し、ここで富士川左岸はサイホン橋で越えさせ、瀬戸島からは河川敷の下のトンネルで右岸に渡し、さらに今度は右岸の山中深く刳り抜いたトンネルで10キロ南の蒲原まで送水しているのである。
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 翌1月27日(日)午後、静岡県富士山世界遺産センターで聴きたい講演があるので、皆さんを見送ったあとでその夜は富士宮に泊まり、翌日は朝一から富士宮市立図書館に入った。

 富士山データベース作業の一環で、この日は『岳南朝日』新聞の昭和42〜44年をめくった。釜口峡関係の記事が立て続けに5本も見つかった。
  昭和44年6月11日付「縄橋絵図見つかる 江戸末期の釜口(芝川)風景」
  昭和44年8月18日付「ルポ 釜口を探る(1)悲劇のクロス 昔は舟運、今はダンプ」
  昭和44年8月19日付「ルポ 釜口を探る(2)原始の藤縄吊橋 足がすくんだ旅行者」
  昭和44年8月20日付「ルポ 釜口を探る(3)人命奪った岩々 対策は祈りだけ」
  昭和44年8月21日付「ルポ 釜口を探る(4)釜口版ローレライも 許せない悲劇の放置」
  前日に釜口橋を渡った印象が残っていなければ見落としていたかもしれない。

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