村山古道補修5 浸食ますます広がる

 三島では愛鷹も富士も裾まで雲に隠れていたが、富士駅で乗り換えると愛鷹全山が見えるようになり、富士根駅からは富士山全山が姿を現した。西臼塚駐車場にクルマを停めて、富士宮五合目行きのバスに乗る。

 新五合目に着くと、富士山頂は見えるが、雨はしっかりと降っているし、西風がかなり強い。トイレがきれいな洋式なった。
 新六合・宝永山荘に寄って挨拶、ザレ場を下るとコケモモが満開である。この10年ばかり、その下につづくカラマツ・ダケカンバの樹林帯を下に向かってコケモモの分布が広がっていたが、一面に白い花が着いているのを見たのは初めてである。おまけにベニバナイチヤクソウが可憐な花を咲かせていた。
 このところの雨の降り方は異常なのであろう、路面に水流の痕が延々と続いている。地面はカラマツの腐葉土で、幸い下の火山灰層までは抉られていない。簡単な水切りだけで登山道は保持できるだろう。


 雨もあがってきたようだ、横渡で昼飯にするか、というところで驚いた。
《標高2000メートルの横渡は、去年に比べて河床が下がり、崖面がさらに後退していた。……足場を踏み固めたりすると傷口がさらに広がるだけなので、しばらく浸食の方向を見守って形が落ち着くのを待つほかなかろう。》
 さきに《2019年5月、村山古道の現況》でこのように書いたのは今シーズンは持つだろうと思ったためであるが、その足場が見事に崩れていたのである。


  ほんの数人がここに踏み込んだだけであろう。
 人工の物か自然の造形か分からないが、もともと横渡は大きな岩組みであった。


 この写真は2016年6月12日、右岸から写したもので、登山者は左岸を登ってきて、とろとろと日沢(にっさわ)を渡って富士市から富士宮市に入る。
  横渡はいつごろから利用されたものであろうか。宗教施設ではないためか宗教関係の古記録には出てこないのだが、わたしの知る限りでは、大正期に発行されたと思われる活版刷りの村山古道案内に次の一文がある。
《笹垢離ヨリ横渡マデ 三丁 日沢ヲ横越スル所ニシテ上ハ遥ニ頂上ヲ眺メ下ハ足下ニ駿河湾ヲ望ム・森林帯中眺望絶好ノ処》(県社浅間神社々務所発行、村山浅間神社蔵)
  計算の根拠はあやふやで、反論されたら即引っ込めざるをえないが、この大正時代の前、数百年の歴史をもっていると考えていいのではないか。
 わたしが横渡の地形的特殊性に気づいたのは2007年春のことである。
 この年3月末に富士宮口で大規模なスラッシュ雪崩が発生した。
《雪崩は標高2700メートル前後で発生。4本の流れがスカイラインを串刺しするように14力所で寸断した。》(asahi.comMYTOWN静岡、2007年4月6日付)
 当然のことながらスカイラインには厳しい通行規制が敷かれたはずであるが、村山古道はノーマーク、5月になって登ってみた。

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 数百メートルにわたって日沢全体が土砂で埋まり、へし折りぶち切られた丸太が両岸に散らばり重なっていたが、横渡の岩組みは無事に残っていた。
 次の写真は雪崩の5年後のものである。


 写真では分かりにくいが、右上の端っこに露岩がある。沢底の熔岩層が地表に現れている部分である。かつてここにイワカガミの咲いているのを見たことがある。
 ところがスラッシュ雪崩はこの露岩を直撃したらしい。巨大な雪崩の固まりはここで左右に分散して両岸にはね飛ばされる。その名残が左上に重なって横たわっている丸太である。つまり、横渡は雪崩の通り道の真ん中にありながら、雪崩の直撃を受けない日陰にあったのである。
 土砂で埋め尽くされた日沢は、その後雨水で洗われ、1年かけてV字谷に戻っていく。
 ところがその後、日沢には雪崩が発生しなくなり、その代わりにしょっちゅう集中豪雨に見舞われるようになる。雪崩による土砂の供給がなくなり、一年中雨水が流れて河床を掘り下げるとどうなるか。


 2016年6月の写真では、横渡の岩組みの下が大きく抉られて、かなり不安定になっていることが分かる。そして今度は雪崩ではなく、春先の豪雨が雪を溶かして土石流が発生。17年5月には、横渡が根こそぎ流されてしまった。


 このときには先に述べたすぐ上流の熔岩流で徒渉する迂回路を造ったのであるが、次の年には、徒渉地点の両岸が土石流に削られて崖になってしまった。その代わりに横渡の元の河床が埋まって楽に通れるようになった。


 というわけで、今年5月にはこの写真のように元々の場所を通過してもらおうと考えたのであるが、もくろみは見事に外れてしまった。どうしよう。


 左に見える踏み跡は17年に造って1年で廃道にした迂回路であるから、右岸・左岸ともザラザラ崩れてしまうだろう。下流はと見渡したが100mの先までV字形がさらに深くなっていて、難しい。では正面ブッシュの中央突破をしよう。


 これなら、右岸の上り下りもさほど問題ないだろう。新ルートが出来上がったところにちょうど、クラブツーリズムの大部隊が登ってきた。さっそく渡り初めをお願いする。


  このあとは上部お花畑が切れて樹林帯に下るところ。坂道が急になって路面の荒れが酷くなっているので麻土嚢3俵で水切りを新設。
 今回のもう一つの難題が笹垢離跡である。笹垢離の平坦地に大量の雨水が流れ込み、ここでさらに増量されて入り口から流れ出しているのである。


 ここは火山灰の少ない火山礫だから丈夫だろうといって油断はできない。手前の凹みが一雨でV字形に掘り下げられないという保証はない。
 1993年発行の富士宮市の調査報告書ではここに不動明王石像1体と地蔵尊2体が報告されている。ところが1996年9月の台風17号で一面のシラビソ林が全滅し、そのときもう1体の地蔵尊が地中から現れている。これは6地蔵だからあと3体は埋まっているはずの遺跡である。行政当局が無関心だからといって放っておくわけにもいかない。
 とりあえずは土嚢3俵を並べて水切りを新設した。

 麻土嚢の中身は、登山道の下のほうから拾ってきた小石である。岩礫と枯れ木が並べてあるのは、「土嚢を踏まないで!」という登山者に対する意思表示である。
 これで笹垢離から下の登山道の浸食は食い止められるはずだが、上から笹垢離の平坦地に流れこんでくる雨水を防いだわけではない。改めて地形を精査して雨水を西の斜面に逃がす方策を考えなくてはならないだろう。
 このあとは岩屋不動跡に寄って、注意喚起の札を提げる。「このさき極めて危険です。岩屋不動参拝はここから。」
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 これで一応今年の、夏山シーズンに向けての応急補修は終わりである。
 多くの人が村山古道を楽しんでくれるようになってひじょうに嬉しい。

 ボランティアですかと訊かれることがあるが、それは違う。こういうふうに身体を動かすのが楽しいのである。

 今後とも登山者のみなさんの支持と協力をいただいて、村山古道を守り、育てていきたいと思う。

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