思いもよらぬ歴史的発見

 甲府盆地のいちばん南のはしっこ、右左口(うばくち)峠の登山口に真言宗は七覚山圓樂寺がある。薬師如来が本尊であるが、ぼろぼろの木造役行者半跏像が有名である。胎内に延慶2年(1309)の修理銘をもち、わが国最古の役行者像とされる。

 われわれが興味を持ったのは、この寺と富士山の関係である。
《大宝元年(701)辛丑、役行者小角(おづぬ)の草創にして、此所より始めて富士登山の路を開けりと云ふ。されば富士の北麓に祀れる行者堂は明治の初頃までは、当寺にて之を摂掌し、登山者に金剛杖を施与したりしとぞ。》(『東八代郡誌』大正3=1914年)。
 つまり明治初年の廃仏毀釈までは、富士山北麓にある行者堂を圓樂寺が管理し富士登山者に金剛杖を与えていたというのである。
 しかも《昔シ役ノ小角富士登山ノ時此ノ処ヨリ発シ迦葉(かしょう)・阿難ノ二嶺ヲ踰(こえ)エテ精進・西海(せのうみ)・長浜・大嵐・大田和・成沢数村ヲ経テ直ニ御室ニ達ス》(『甲斐国志』文化11=1814年成立)
《二合目ニ小室浅間明神ノ社アリ……役ノ行者堂ハ浅間社ノ西ニアリ本尊ハ役ノ行者八代郡右左口村七覚山圓樂寺兼帯ス……圓樂寺ハ本(も)ト山伏ノ住山ニテ其ノ徒小角ノ跡ヲ追ヒ此ノ山ニ入ルヲ修行トス故ニ小角ヲ此ノ地ニ祭ルナルべシ此ノ処役銭十二銭ヲ収ム毎歳六七月圓樂寺ヨリ僧侶来リテ修法アリ》(『甲斐国志』同前)
 役行者ご本人がこのルートで登山したかどうかはともかく、圓樂寺の役行者像が山伏に背負われて富士山二合目まで通ったことは十分ありうることである。
 戦国時代の文明19年(1457)、聖護院(しょうごいん)門跡(もんぜき)・道興准后が東日本を巡行したおりこの圓樂寺に立ち寄っている。
《是より七覚山と云へる霊地に登山す。衆徒山伏両庭歴々と住める所なり。暁更に至るまで。管絃酒宴興をつくし侍りき。……翌日この山を出で。同じ国吉田と云へる所に到る。富士の麓にて侍りけり。》(道興准后『廻国雑記』)
 よし! このルートを探してみよう。われわれ特定非営利活動法人「富士山ふるさと研究会」のメンバーが初めて踏み入れたのは平成26年(2015)11月のことであった。
われわれが想定したのは戦国時代の甲斐修験の道である。歩いたのはプロの山伏であるから旅宿による商業的な道標などあるわけがない。
《陰山代表と畠堀さんは口々に言う。「トンネルも地図もない時代に、修験者がどうやって経路を選び、登山を続けたのか。中世には石碑などを残す習慣はなく、痕跡を見つけるのは難しいと思う。山をさまよい、数百年前の山伏の残映を嗅ぎ取ろうという夢のような話です」》(『朝日新聞』2016年6月25日付山梨版「それ行け!山梨探偵団」)
 証拠を固めていく歴史探訪ではなく、情緒的な歴史エッセイの旅である。
 ただし山伏にとってこれは身命を賭した修行登山ではない。例年定期的に通う道があったと思われる。大雨ごとに踏み跡の変わる沢筋に踏みこむことは避けて、尾根道を繋いだはずである。明治20年代に参謀本部陸地測量部から発行された2万分の1正式図と、われわれの限られた個人的体験からくる“山勘”が山中での指針になった。 

 右左口から芦川流域までの迦葉越えは3ルートを試登してそれなりの感触を得ることができた。
 芦川から精進湖までの阿難越えは、初めから中道(なかみち)往還は避けた。もともとは織田信長凱旋のために徳川家康が造った軍事道路で、江戸期には駿河の吉原から甲府・魚町まで一晩で鮮魚を運んだという“魚の道”ではあるが、維持・管理は大変である。最近では、昭和41年(1966)9月の台風26号で発生した土石流が、石畳のつづく道路も集落も壊滅状態にしている。
   
 われわれが選んだのはすぐ西にそびえる釈迦ケ岳越えの尾根道である。馬が通える生活道跡が残っていた。賽ノ河原に擬しうる岩礫帯もあったし、すぐ西にそびえる蛾(ひる)ケ岳は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、すなわち大日如来の転訛ではないか。
 さらに精進湖から西湖までは、青木ケ原樹海の熔岩流を迂回する道が御坂山塊の山中や熔岩流の隙間に造られていた。桑の古木など古い出造りの痕跡がいまでも残っている。
 いまより水面が高かった西湖の北岸崖上にも、地元民の生活道が残っていて、河口湖まで続いていた。
 いくつかの疑問も発生した。その一つが釈迦ケ岳山頂に鎮座する石仏である。
《釈迦ガ岳ト云ハ僧譱魁覆舛腓Δ佑鵝縫釈迦ノ像ヲ安置セシ処 旧址山上ニアリ白キ野面石ノ柱礎処々ニ見ユ 山中ニハ曽テ無キ石》(『甲斐国志』)

 これがお釈迦さんかなという疑問も湧くが、譱骸信が彫ったという説もある。
《譱核〇嫗教貔廛鮗坤魯鷸ヲ憂フテ自身親(みずから)ラ白みかげの河原石ヲ以テ伝来ノ釈迦像ニ模擬シテ石仏弐躰ヲ作り往時釈迦ノ立チ玉ヒシ跡即チ釈迦岳ノ頂上卜寺ケ川ノ川辺ニ建立セラレテ今ニ歴然トシテ存在ス》(『釈迦縁起録』昭和60年発行の『上九一色村誌』が引用)
 ところが山麓の芦川河畔・平川にある古刹・永泰寺の釈迦堂には次の説明板がある。
《口伝に由れば……奈良東大寺の僧譱各宋(にっそう) 永延元年(987)仏像を携え帰朝 後年間模刻の仏像を釈迦ケ岳頂上に堂宇を構えて安置すと  建治二年(1276)七月暴風雨に尊像埋没せるを土着の老翁寺川畔に奉安す 元亨三年(1323)夢窓国師尊像を崇慕し求めてこの地に留錫座禅観法為(な)し給う時五月風水害に遭遇す尊像随侍の霊妙なる大亀危難を救い国師の済度に化石となる 国師平川に既存の草堂を改築し安処せしめ尊像の安泰と国家の安穏と永く寺門の昌運を祈願す》
 先日はようやく永泰寺を訪ねて青柳晃道師に面談する機会があった。ご開帳は4月8日の花祭りの日にしかかなわぬということであったが、この釈迦堂に安置されているのは京都・清凉寺蔵の国宝釈迦如来像の模刻であることが分かった。

 現在釈迦ケ岳山頂にある石像は、明治の初めか幕末、晃道師の祖父がお爺さんから聞いた話として、この芦川から担ぎ上げたものだという。当時村いちばんの力自慢が背負子に括り付け、前から1人が綱を引き後ろから2人が押し上げたという。
 これが京都・清凉寺蔵の国宝釈迦如来立像である。
 
 譱海模刻して日本に持ち帰ったとされる釈迦像は、天竺の優填王(うてんおう)が生身の釈迦を見て彫ったものとされて大流行し、当時100体以上がつくられたとされる。

 

 さて、話はこれで終わらない。
 晃道師は気さくなお人柄で、一段落して雑談になったところで、「こういうものもありますよ」と言って軸を展いてくださったのが『役行者入山の図』である。制作は室町時代であろうという(『上九一色村の文化財』では『絹本著色役小角図像』となっているがここでは晃道師の呼称による)。

《役行者は円楽寺を出立、迦葉・阿難の坂を越え、精進湖で沐浴潔斎、富士山の御室に達したという。その道すがらの中道往還の古関永泰寺に、役行者画像があるのもうなずける気がする。》(同書)
 山伏が役行者木像を担いで富士山に向かう途次、ここ永泰寺で『役行者入山の図』を披いて読経・勤行するさまが眼前に浮かび、法螺の音が聞こえてくるようである。
  なーむ えんのぎょうじゃーだいぼさつ
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