東田子の浦駅で途中下車して跨線橋に上がり、階段上の窓を開けると電線の入らない写真が撮れる。山頂付近の吹っ立てもそれほど大きくない。
村山では新型コロナの大事をとって、今年も年越しの元旦祭は中止である。それでも地元の人を中心に興法寺大日堂と村山浅間神社への参拝客は引きも切らない。
新年の挨拶を済ませたわれわれわれは、村山・西見付跡のすぐ下の道者道の掃除をしながら下ろうということになった。掃除といっても箒や熊手ではない。腰に提げているのは鋸と鉈である。
先のブログで紹介した倒木との闘いは一昨年元旦のことであった。「道者道」というプレートを6枚提げ、切り落とした倒木は十数本、下っていくのに2時間10分かかっている。その次は昨年3月14日、アオキとシダ類を鉈で払いながら登っていって50分で済んでいる。新たな倒木はほとんどなかったので鋸は使わなかった。さて今年はローリング父さんが助っ人だ、午後は家に帰って富士山データベース作りの一仕事ができるだろう。
上の入り口はまったく問題ない。
路面の洗掘もないし、疎らな笹は数本まとめて鋸で引き、膝下まで伸びたシダ類は鋸の峰打ちで払えばいい。新しい倒木はほとんどなく、直径15センチを超える大物は下を潜って敬遠、切り落とした小物はほんの数本。
この1年間人が通った形跡はなかったが、舗装された農道に出るまで300メートル、40分で通過した。
しかしそれはおとりのようなものだった。
舗装された農道から下半分はとんでもないことになっていた。
マーキングを便りに入り口を決めて踏み込むと、アオキのほかチャの実生がやたらに生えている。年間を通して人が歩いてくれれば踏み跡として道が固まってくるのだが、どうやらそれは期待できない。鉈では細い幼木が逃げるので、腰までのチャとアオキを1本ずつ鋸で切り取るほかない。
まもなくシダ類が腰の高さまで伸びてくる。これは鋸の峰打ちで払えるが、春になればまた伸びてくるだろう。林内の湿気と木陰がよほど生育に適しているのだろう。
やがて眼前に藪の塊が現れる。
去年はなかった新しい倒木である。太い藤蔓が絡まっていたり、周辺の灌木を巻き込んで倒れているのである。それが何本もかさなっているのだ。
自殺したければ独りでやってくれ、と言いたくなる。
チェンソーがあれば簡単だが、手道具だけでは蔓と灌木の細い枝を1本ずつ切り刻んでいくしかない。踏み込むだけの足場ができたら1歩踏み込んでさらに小枝を切り刻む。この繰り返しである。
幸いきょうはローリング父さんが手伝ってくれているので、脇の藪の薄いところから先回りしてもらって、両側からトンネルの掘削工事である。
機械がないと直進掘削はできないので、あっち行ったりこっち行ったり。トンネルが貫通すれば、こっちだよー、とマーキングを提げる。登る人にも下る人にも見えるように位置を確認しながらの作業である。
終わって枯れ沢を渡ったのが12:55。10年ほど前には橋の残骸が残っていたが、いまはトラロープがトライアングルに提げてある。
アスファルト農道からここまで200メートル進むのに45分。
沢の右岸は2メートル幅の道で、路面も平らになるが、ここからはアオキとの闘いである。
以前に切り落とした枝が根付いて伸びたのか、新たに実生が繁茂したのか一面のアオキ、アオキ。しかも左側は(写真は下から移しているので右側)スギの人工林で日陰効果があるので、アオキが3メートルにも伸びて天井になっている。
これらを腰の高さで手当たりしだい切り倒して落花狼藉。
国道469号に出るまでさらに300メートルを30分。
この貴重な道者道の遺物、700メートル下るのに2時間もかかってしまった。
行政はなぜこの歴史遺産の掃除をしないのだろう。少なくとも間違った地図を撤回・訂正すれば、年間を通じて何人かの物好きが通過するであろう。いまでもちょっと手入れをすれば、なんの危険もなく歩くことのできる道が復活する。
行政当局には、“学術的”に調査して、間違いを自浄する機能が働かないのであろうか。
あるいはまさか、「歩く博物館」ハイキング参加にあたって、ハイヒールや雪駄でも可能ですよという行政の親心が働いているのか。いやいやそれにしては、?〜?には石段があり、緩い右カーブを猛スピードで下ってくるクルマの間を縫って渡らなくてはならない国道がある。バリアフリーという発想はないだろう。 (おわり)
人里にありながら、道路拡張などからの破壊を免れた貴重な遺跡である。
これは昭和29年に発行された『富士根村精細地図 最新地番地目地積入』である。今日の住宅地図の前身と考えてよい。大字粟倉小字山辻に残る道者道がはっきりと描かれている。富士登山が始まってから明治の末まで、大宮(富士宮)から村山まで利用されていた貴重な道の痕跡がここに残っている、と言っていい。
しかし富士宮市教育委員会が公表(推奨?)する地図は、現実とはずいぶん異なっているようだ。
????は『富士根村精細地図』とポイントとしては合致しているが、途中経路がすべて違っている。?については「山辻の石畳」と解説して写真まで載せているのに、地図では石畳部分は経路から外すという矛盾もある。
どちらが正しいかの詮索はともかくとして、われわれは『富士根村精細地図』に従って歩くことにしよう。 (つづく)
つづきの平成編は秋には完成させる見込みであったが、平成にはいって同紙のページ数が増えたこともあって、遅れに遅れてようやく年末ぎりぎりに陽の目を見ることができた。
こういった索引を利用する人は限られているので、どういった社会的意義があるのかと問われると困るのだが、何よりも私自身の勉強になったことを強調しておきたい。これから追々公表していく予定であるが、ときおり歴史的事実がキラリと輝いて見えることがある。
ここに示すのは、富士宮市村山に所在する富士山興法寺大日堂と富士根本宮村山浅間神社の写真である。
有名な写真なので各所で引用・掲載されてきたが、この写真は『村山浅間神社調査報告書』(富士宮市教育委員会編・発行、平成17年3月)からコピーしたものである。
大日堂については大正時代の撮影であると分かるが、浅間神社については年代不明、そして撮影者も不明である。もちろん意図的にそれらを解明しようと思って索引項目を拾っていたわけではないが、『岳南朝日』2016年=平成28年1月27日付から「昔日のふじのみや」連載が始まる。
富士山本宮浅間大社で、大正時代から昭和30年代に撮影されたガラス乾板写真が発見され、プリントして富士宮市立郷土資料館で写真展が開かれ、それを報道したものである。その第5回目、2月6日付の紙面がこれである。
トリミング・構図・太陽光線の入り方、すべてがどんぴしゃり、先に挙げた大日堂と村山浅間神社の写真の出自がここにあったのである。
大日堂の撮影は大正12年だと分かる。そして神社の写真も同じときに撮られたものと考えていいだろう。
ところで、神社の手前を頑丈な柵が横切っていることにお気づきであろうか。山掃除とも言われた明治の廃仏毀釈のおり、山中からの下山仏類をこちら側ある大日堂に閉じ込めて柵で囲って人が入れないようにしたという。
同じように柵の残っている浅間神社の写真がある。
これはその2年後、それまで浅間大社の摂社であった村山浅間神社が県社に昇格したときの『静岡新報』(大正14年3月1日付)の記事である。
「村山浅間社が県社に昇格 三日盛大に報告祭 四日には宝物を供覧」とあり、ずっと左下に離れて写真がある。今日柵はなくなっているが、サルスベリの古木はそのままである。
違うところといえば左の拝殿の大棟の高さである。
県社昇格を祝って高くしたのか、高くしたから昇格したのか、これ以上のことは今のところまったく分からない。ただ浅間大社の下風に置かれて数十年、往時の村山の人々の気概だけはうかがい知ることができるであろう。
毎日毎日、古新聞をめくって索引づくりをしていると、こういうところに歴史の息吹を感じることが、時に起こる。
その上で行われる人間の機械力による自然破壊はチマチマしたものである。
さらにわれわれのやっていることは虫眼鏡がないと見えない。
しかし、人が歩けば道が維持される。歩く人がいなくなれば道は廃れる。 (おわり)
写真では分かりにくいが、10メートル向こうの搬出路に伐採作業者が機械力で頑丈な水切りを造ってくれたのはありがたい。搬出路から村山古道に流れ込む雨水がほぼ完全にシャットアウトされたのである。
ところが写真の手前には、左(東側)から下ってくる搬出路の雨水が一直線に、村山古道に流れ込むように水切りが造ってあった。
これなら簡単だ、排水路部分を塞げばいい。
石と丸太で水路を塞いで、作業道の中央を鶴嘴でチョイチョイと削ったのは7月10日、村山古道入り口の草刈りをした日の午後のことである。
そのあと作業道をB地点までくだってみた。路面は7月10日時点で、すでに何回かの雨でぶわぶわ。洗掘されて凸凹になっており、何か月もキャタピラ車は走っていない。どうやら間伐材の搬出作業は終わったようである。
11月13日に行ってみたところ、搬出路上には細い水路ができて雨水の排水路になっていた。
新しくキャタピラ車が走った痕跡はない。
前回にちょっと触れたが、じつはこの水切りの被害は札打場を通り越して、B地点まで下ったところで、登山道を荒らしていた。これで村山古道の路面も安定してくるであろう。
さて問題のA地点〜B地点に戻ろう。
野渓化した登山道の北側に幸いなことに細い棚が続いている。檜の植林地の左上、北側の林床のなかに新道を拓くことも考えたが、これを巻き道として利用にしたらどうか。
まず登山口の左5メートルにある檜林に「村山古道登山口」「村山古道こちらからのぼってください」の標識を付けた。門である。
今回行ってみると、旧入り口から人の気配は消えていて、新しい入り口には何人もの歩いた形跡が感じられた。登山道として定着してきたようだ。
B地点は、土場のほうから登山道に流れ込む水路を掘り下げて左の旧登山道に流れむようにした。
写真・ムラヤマフジコちゃん提供
右向こうから左手前に登ってくるのが新しい巻き道である。右からの巻き道を登ってくるとこの水路を左に跨いで間伐材搬出路に上がればいい。
工事は7月27日のことである。
この日、11月13日に行ってみると、何回かの雨では新登山道への越流があったようだ。しかし右手前から左向こうに続く溝が旧登山道で、今では立派に排水路として機能している。
おりをみて水路には鶴嘴を打ち込んで深くしておけば、新ルートも道らしくなってくるであろう。(つづく)
登山者の皆さんには、村山古道の東側の林床を、登山道に沿って、登山道の見え隠れの位置を歩いてもらうほかない。
山の村から吉原林道の間には踏み跡らしいものはなかったが、この決壊場所から天照教林道までのあいだには、すでに薄い踏み跡が続いている。
この間、すでにピンクテープのマーキングを付けてくれた人もいる。
われわれも随所に指導標を提げ、白木綿のマーキングを吊るしておいたので、踏み跡を重ねて確かなものにしていただくようお願いする。
人が歩けば道ができる。(つづく)
以上は9月10日の見聞であり、10月24日に来たときには、諸悪の根源であるコンクリート橋は跡形なく撤去されていた。コンクリート橋の位置すぐ下を覗くと、こんなふうに抉られている。
8月の豪雨の威力が想像できるだろう。
11月13日に来てみると、日沢は土で埋め戻されてコンクリート橋があった部分に作業道が造られていた。いちど壊した連絡道路を造り直したのだから、東の富士市側になにか遣り残した作業があるのだろう。いずれにせよ、それが終われば日沢部分はもとの沢に戻るだろう。ようやく自然に還ることになる。
そうなれば、もはや人工物がダムとなって日沢を堰き止め、村山古道に流れこむことはなくなる。これ以上、登山道破壊が進むことはないだろう。
もっとも緑陰広場とオーバーハングのあいだの登山道の“ドンドン”に関しては、われわれとしては手の打ちようがない。補修するとしたら凹みを30俵ほどの土嚢で埋めていくことになるが、ここは熔岩流帯なので、土嚢に詰め込む土砂がない。(つづく)
そしてつい先日、このわたくしもオールコックの顰に倣ってここを歩くことになった。
事の成り行きはかなり支離滅裂である。
例の富士山データベースのうち『静岡新報』の記事チェックが1925年=大正14年に差しかかり丹那トンネル工事の前途に暗雲が立ち込める事態になっていた。丹那盆地はもともと湖で、周囲の山から土砂が流れ込んで水田地帯となっていたのだが、その真下に列車を通す穴を掘ろうというのだから水はぜんぶ抜ける。その後の地元民の悲劇は想像するまでもないのだが、村史・町史の記述は歯切れが悪い。やまとし麗し、お上に対する忖度の伝統が働いているんではないか。
ただ事件の原資料に近いものが函南町立図書館には残っているのではないか、という淡い期待を抱いたものだから、まず同図書館に立ち寄ってからオールコックの熱海峠越えをしようという構想ができあがってきた。
しかしあたかもコロナ禍による戒厳令のもと、余所者は来館するなと図書館のホームページに表示されている。
《入館記録のご協力をお願いします》とあるからには、潜入もむずかしい。
しかし遠くは大東亜戦争しかり、近くはコロナ・パンデミック下の東京五輪・パラリンピックしかり、いちど回り出した歯車は止められない。
9月20日は全天雲一片ない青空のもと、いつもの静岡行き通勤電車を乗り継いで、7:34三島で伊豆箱根鉄道に乗り換えて4駅目、7:44に大場〔だいば〕駅に着く。
図書館の開館時刻は9:30。このまま歩けば、それまでには図書館を通り越してそうとう上のほうにまで行けそうだ。
オールコックがここを登っていったのは万延元年7月29日、といっても分かりにくいが原著にはちゃんとグレゴリオ暦で1860年9月14日と書いてある。
オールコックは詩人である。
《広い谷間からの産物の種頽はひじょうに多かった。刈り入れを待つまでにみのった波打つ稲田のあいだに、タバコやワタの畑がたくさん点在している。ナスビがある。これはカレーで味をつけると優秀だ。ハスのような葉のある水分の多いサトイモ、サツマイモなどがすべてここにある。またりっぱな赤い実をつけたカキの木や金色の実をつけた柑橘類の木が村々の周囲に群をなしてはえている。》(『大君の都』山口光朔訳、岩波文庫、1978年)
柿や蜜柑の実はまだ緑色であったが、あながちフェイク記事だとは言えないだろう。
いまから161年と4日前の農村風景の描写としては、野菜類の食感まで用いて、豊かな実りの秋を描いている。
左に曲がれば函南駅。こんにちでは両側に人家がびっしり、このあたりから坂道という感じになる。
そのむかしオールコックは馬上豊かに登っていく。
《そしてわれわれがだんだん高くのぼるにつれて、優雅な花をつけたイトシャジンがあたり一面にあらわれた。》(同前)
オールコックの原文はつぎの通りである。
《and as we ascended hiher and higher, the harebell with its graceful flower appeared everywhere.》“The Capital of The Tycoon:A Narrative of A Three Years' Residence in Japan”, By Sir Rutherford Alcock, K.C.B., London:Longman, Green, Longman, Roberts, & Green, 1863.
ここが前回、わたしが気にしたところである。
harebellをイトシャジンと訳していいのか。
《漢字で書くと糸沙参ではあるが、北欧原産の園芸植物が幕末のこの時季、函南高原に咲き乱れているという情景が想像できるだろうか。》というのがその時の疑問である。
『365花撰』にはつぎのように解説してある。
《イトシャジンは、北部ヨーロッパなどが原産のキキョウ科ホタルブクロ属の宿根草です。ホタルブクロ属に特有の釣鐘の形をした花が咲きますが、糸のように細い茎が繊細な印象を与えるところから山野草としても親しまれています。》(https://flower365.jp/02/990.html)
残念ながらわたしは野生で、これがイトシャジンだという花を目にした覚えがない。
近縁種のヒメシャジンであればここから振り返って、富士山は富士宮口新五合目、標高2370メートル付近にいくつもの小群落を見ることができる。
この写真はつい先日、8月7日に撮影したものである。
さてこちら、熱海峠越えではどんな花が現れるか。
時刻は9:27、そろそろ図書館が開館するころである。標高は170メートルを超えている。
道路際に現れたのはツリガネニンジンであった。
それから10分足らず、 標高180メートルまでの間に4株のツリガネニンジンをみることができた。
オールコックがいうように《優雅な花》はいい。しかし、
《あたり一面にあらわれた》
というのは当時の実景なのか、大英帝国を代表してフジヤマを征服してきたぞという満足感の表出なのか。その点は確かめようがない。