東田子の浦駅で途中下車して跨線橋に上がり、階段上の窓を開けると電線の入らない写真が撮れる。山頂付近の吹っ立てもそれほど大きくない。
村山では新型コロナの大事をとって、今年も年越しの元旦祭は中止である。それでも地元の人を中心に興法寺大日堂と村山浅間神社への参拝客は引きも切らない。
新年の挨拶を済ませたわれわれわれは、村山・西見付跡のすぐ下の道者道の掃除をしながら下ろうということになった。掃除といっても箒や熊手ではない。腰に提げているのは鋸と鉈である。
先のブログで紹介した倒木との闘いは一昨年元旦のことであった。「道者道」というプレートを6枚提げ、切り落とした倒木は十数本、下っていくのに2時間10分かかっている。その次は昨年3月14日、アオキとシダ類を鉈で払いながら登っていって50分で済んでいる。新たな倒木はほとんどなかったので鋸は使わなかった。さて今年はローリング父さんが助っ人だ、午後は家に帰って富士山データベース作りの一仕事ができるだろう。
上の入り口はまったく問題ない。
路面の洗掘もないし、疎らな笹は数本まとめて鋸で引き、膝下まで伸びたシダ類は鋸の峰打ちで払えばいい。新しい倒木はほとんどなく、直径15センチを超える大物は下を潜って敬遠、切り落とした小物はほんの数本。
この1年間人が通った形跡はなかったが、舗装された農道に出るまで300メートル、40分で通過した。
しかしそれはおとりのようなものだった。
舗装された農道から下半分はとんでもないことになっていた。
マーキングを便りに入り口を決めて踏み込むと、アオキのほかチャの実生がやたらに生えている。年間を通して人が歩いてくれれば踏み跡として道が固まってくるのだが、どうやらそれは期待できない。鉈では細い幼木が逃げるので、腰までのチャとアオキを1本ずつ鋸で切り取るほかない。
まもなくシダ類が腰の高さまで伸びてくる。これは鋸の峰打ちで払えるが、春になればまた伸びてくるだろう。林内の湿気と木陰がよほど生育に適しているのだろう。
やがて眼前に藪の塊が現れる。
去年はなかった新しい倒木である。太い藤蔓が絡まっていたり、周辺の灌木を巻き込んで倒れているのである。それが何本もかさなっているのだ。
自殺したければ独りでやってくれ、と言いたくなる。
チェンソーがあれば簡単だが、手道具だけでは蔓と灌木の細い枝を1本ずつ切り刻んでいくしかない。踏み込むだけの足場ができたら1歩踏み込んでさらに小枝を切り刻む。この繰り返しである。
幸いきょうはローリング父さんが手伝ってくれているので、脇の藪の薄いところから先回りしてもらって、両側からトンネルの掘削工事である。
機械がないと直進掘削はできないので、あっち行ったりこっち行ったり。トンネルが貫通すれば、こっちだよー、とマーキングを提げる。登る人にも下る人にも見えるように位置を確認しながらの作業である。
終わって枯れ沢を渡ったのが12:55。10年ほど前には橋の残骸が残っていたが、いまはトラロープがトライアングルに提げてある。
アスファルト農道からここまで200メートル進むのに45分。
沢の右岸は2メートル幅の道で、路面も平らになるが、ここからはアオキとの闘いである。
以前に切り落とした枝が根付いて伸びたのか、新たに実生が繁茂したのか一面のアオキ、アオキ。しかも左側は(写真は下から移しているので右側)スギの人工林で日陰効果があるので、アオキが3メートルにも伸びて天井になっている。
これらを腰の高さで手当たりしだい切り倒して落花狼藉。
国道469号に出るまでさらに300メートルを30分。
この貴重な道者道の遺物、700メートル下るのに2時間もかかってしまった。
行政はなぜこの歴史遺産の掃除をしないのだろう。少なくとも間違った地図を撤回・訂正すれば、年間を通じて何人かの物好きが通過するであろう。いまでもちょっと手入れをすれば、なんの危険もなく歩くことのできる道が復活する。
行政当局には、“学術的”に調査して、間違いを自浄する機能が働かないのであろうか。
あるいはまさか、「歩く博物館」ハイキング参加にあたって、ハイヒールや雪駄でも可能ですよという行政の親心が働いているのか。いやいやそれにしては、?〜?には石段があり、緩い右カーブを猛スピードで下ってくるクルマの間を縫って渡らなくてはならない国道がある。バリアフリーという発想はないだろう。 (おわり)
人里にありながら、道路拡張などからの破壊を免れた貴重な遺跡である。
これは昭和29年に発行された『富士根村精細地図 最新地番地目地積入』である。今日の住宅地図の前身と考えてよい。大字粟倉小字山辻に残る道者道がはっきりと描かれている。富士登山が始まってから明治の末まで、大宮(富士宮)から村山まで利用されていた貴重な道の痕跡がここに残っている、と言っていい。
しかし富士宮市教育委員会が公表(推奨?)する地図は、現実とはずいぶん異なっているようだ。
????は『富士根村精細地図』とポイントとしては合致しているが、途中経路がすべて違っている。?については「山辻の石畳」と解説して写真まで載せているのに、地図では石畳部分は経路から外すという矛盾もある。
どちらが正しいかの詮索はともかくとして、われわれは『富士根村精細地図』に従って歩くことにしよう。 (つづく)
つづきの平成編は秋には完成させる見込みであったが、平成にはいって同紙のページ数が増えたこともあって、遅れに遅れてようやく年末ぎりぎりに陽の目を見ることができた。
こういった索引を利用する人は限られているので、どういった社会的意義があるのかと問われると困るのだが、何よりも私自身の勉強になったことを強調しておきたい。これから追々公表していく予定であるが、ときおり歴史的事実がキラリと輝いて見えることがある。
ここに示すのは、富士宮市村山に所在する富士山興法寺大日堂と富士根本宮村山浅間神社の写真である。
有名な写真なので各所で引用・掲載されてきたが、この写真は『村山浅間神社調査報告書』(富士宮市教育委員会編・発行、平成17年3月)からコピーしたものである。
大日堂については大正時代の撮影であると分かるが、浅間神社については年代不明、そして撮影者も不明である。もちろん意図的にそれらを解明しようと思って索引項目を拾っていたわけではないが、『岳南朝日』2016年=平成28年1月27日付から「昔日のふじのみや」連載が始まる。
富士山本宮浅間大社で、大正時代から昭和30年代に撮影されたガラス乾板写真が発見され、プリントして富士宮市立郷土資料館で写真展が開かれ、それを報道したものである。その第5回目、2月6日付の紙面がこれである。
トリミング・構図・太陽光線の入り方、すべてがどんぴしゃり、先に挙げた大日堂と村山浅間神社の写真の出自がここにあったのである。
大日堂の撮影は大正12年だと分かる。そして神社の写真も同じときに撮られたものと考えていいだろう。
ところで、神社の手前を頑丈な柵が横切っていることにお気づきであろうか。山掃除とも言われた明治の廃仏毀釈のおり、山中からの下山仏類をこちら側ある大日堂に閉じ込めて柵で囲って人が入れないようにしたという。
同じように柵の残っている浅間神社の写真がある。
これはその2年後、それまで浅間大社の摂社であった村山浅間神社が県社に昇格したときの『静岡新報』(大正14年3月1日付)の記事である。
「村山浅間社が県社に昇格 三日盛大に報告祭 四日には宝物を供覧」とあり、ずっと左下に離れて写真がある。今日柵はなくなっているが、サルスベリの古木はそのままである。
違うところといえば左の拝殿の大棟の高さである。
県社昇格を祝って高くしたのか、高くしたから昇格したのか、これ以上のことは今のところまったく分からない。ただ浅間大社の下風に置かれて数十年、往時の村山の人々の気概だけはうかがい知ることができるであろう。
毎日毎日、古新聞をめくって索引づくりをしていると、こういうところに歴史の息吹を感じることが、時に起こる。
その上で行われる人間の機械力による自然破壊はチマチマしたものである。
さらにわれわれのやっていることは虫眼鏡がないと見えない。
しかし、人が歩けば道が維持される。歩く人がいなくなれば道は廃れる。 (おわり)
写真では分かりにくいが、10メートル向こうの搬出路に伐採作業者が機械力で頑丈な水切りを造ってくれたのはありがたい。搬出路から村山古道に流れ込む雨水がほぼ完全にシャットアウトされたのである。
ところが写真の手前には、左(東側)から下ってくる搬出路の雨水が一直線に、村山古道に流れ込むように水切りが造ってあった。
これなら簡単だ、排水路部分を塞げばいい。
石と丸太で水路を塞いで、作業道の中央を鶴嘴でチョイチョイと削ったのは7月10日、村山古道入り口の草刈りをした日の午後のことである。
そのあと作業道をB地点までくだってみた。路面は7月10日時点で、すでに何回かの雨でぶわぶわ。洗掘されて凸凹になっており、何か月もキャタピラ車は走っていない。どうやら間伐材の搬出作業は終わったようである。
11月13日に行ってみたところ、搬出路上には細い水路ができて雨水の排水路になっていた。
新しくキャタピラ車が走った痕跡はない。
前回にちょっと触れたが、じつはこの水切りの被害は札打場を通り越して、B地点まで下ったところで、登山道を荒らしていた。これで村山古道の路面も安定してくるであろう。
さて問題のA地点〜B地点に戻ろう。
野渓化した登山道の北側に幸いなことに細い棚が続いている。檜の植林地の左上、北側の林床のなかに新道を拓くことも考えたが、これを巻き道として利用にしたらどうか。
まず登山口の左5メートルにある檜林に「村山古道登山口」「村山古道こちらからのぼってください」の標識を付けた。門である。
今回行ってみると、旧入り口から人の気配は消えていて、新しい入り口には何人もの歩いた形跡が感じられた。登山道として定着してきたようだ。
B地点は、土場のほうから登山道に流れ込む水路を掘り下げて左の旧登山道に流れむようにした。
写真・ムラヤマフジコちゃん提供
右向こうから左手前に登ってくるのが新しい巻き道である。右からの巻き道を登ってくるとこの水路を左に跨いで間伐材搬出路に上がればいい。
工事は7月27日のことである。
この日、11月13日に行ってみると、何回かの雨では新登山道への越流があったようだ。しかし右手前から左向こうに続く溝が旧登山道で、今では立派に排水路として機能している。
おりをみて水路には鶴嘴を打ち込んで深くしておけば、新ルートも道らしくなってくるであろう。(つづく)
登山者の皆さんには、村山古道の東側の林床を、登山道に沿って、登山道の見え隠れの位置を歩いてもらうほかない。
山の村から吉原林道の間には踏み跡らしいものはなかったが、この決壊場所から天照教林道までのあいだには、すでに薄い踏み跡が続いている。
この間、すでにピンクテープのマーキングを付けてくれた人もいる。
われわれも随所に指導標を提げ、白木綿のマーキングを吊るしておいたので、踏み跡を重ねて確かなものにしていただくようお願いする。
人が歩けば道ができる。(つづく)
以上は9月10日の見聞であり、10月24日に来たときには、諸悪の根源であるコンクリート橋は跡形なく撤去されていた。コンクリート橋の位置すぐ下を覗くと、こんなふうに抉られている。
8月の豪雨の威力が想像できるだろう。
11月13日に来てみると、日沢は土で埋め戻されてコンクリート橋があった部分に作業道が造られていた。いちど壊した連絡道路を造り直したのだから、東の富士市側になにか遣り残した作業があるのだろう。いずれにせよ、それが終われば日沢部分はもとの沢に戻るだろう。ようやく自然に還ることになる。
そうなれば、もはや人工物がダムとなって日沢を堰き止め、村山古道に流れこむことはなくなる。これ以上、登山道破壊が進むことはないだろう。
もっとも緑陰広場とオーバーハングのあいだの登山道の“ドンドン”に関しては、われわれとしては手の打ちようがない。補修するとしたら凹みを30俵ほどの土嚢で埋めていくことになるが、ここは熔岩流帯なので、土嚢に詰め込む土砂がない。(つづく)
そしてつい先日、このわたくしもオールコックの顰に倣ってここを歩くことになった。
事の成り行きはかなり支離滅裂である。
例の富士山データベースのうち『静岡新報』の記事チェックが1925年=大正14年に差しかかり丹那トンネル工事の前途に暗雲が立ち込める事態になっていた。丹那盆地はもともと湖で、周囲の山から土砂が流れ込んで水田地帯となっていたのだが、その真下に列車を通す穴を掘ろうというのだから水はぜんぶ抜ける。その後の地元民の悲劇は想像するまでもないのだが、村史・町史の記述は歯切れが悪い。やまとし麗し、お上に対する忖度の伝統が働いているんではないか。
ただ事件の原資料に近いものが函南町立図書館には残っているのではないか、という淡い期待を抱いたものだから、まず同図書館に立ち寄ってからオールコックの熱海峠越えをしようという構想ができあがってきた。
しかしあたかもコロナ禍による戒厳令のもと、余所者は来館するなと図書館のホームページに表示されている。
《入館記録のご協力をお願いします》とあるからには、潜入もむずかしい。
しかし遠くは大東亜戦争しかり、近くはコロナ・パンデミック下の東京五輪・パラリンピックしかり、いちど回り出した歯車は止められない。
9月20日は全天雲一片ない青空のもと、いつもの静岡行き通勤電車を乗り継いで、7:34三島で伊豆箱根鉄道に乗り換えて4駅目、7:44に大場〔だいば〕駅に着く。
図書館の開館時刻は9:30。このまま歩けば、それまでには図書館を通り越してそうとう上のほうにまで行けそうだ。
オールコックがここを登っていったのは万延元年7月29日、といっても分かりにくいが原著にはちゃんとグレゴリオ暦で1860年9月14日と書いてある。
オールコックは詩人である。
《広い谷間からの産物の種頽はひじょうに多かった。刈り入れを待つまでにみのった波打つ稲田のあいだに、タバコやワタの畑がたくさん点在している。ナスビがある。これはカレーで味をつけると優秀だ。ハスのような葉のある水分の多いサトイモ、サツマイモなどがすべてここにある。またりっぱな赤い実をつけたカキの木や金色の実をつけた柑橘類の木が村々の周囲に群をなしてはえている。》(『大君の都』山口光朔訳、岩波文庫、1978年)
柿や蜜柑の実はまだ緑色であったが、あながちフェイク記事だとは言えないだろう。
いまから161年と4日前の農村風景の描写としては、野菜類の食感まで用いて、豊かな実りの秋を描いている。
左に曲がれば函南駅。こんにちでは両側に人家がびっしり、このあたりから坂道という感じになる。
そのむかしオールコックは馬上豊かに登っていく。
《そしてわれわれがだんだん高くのぼるにつれて、優雅な花をつけたイトシャジンがあたり一面にあらわれた。》(同前)
オールコックの原文はつぎの通りである。
《and as we ascended hiher and higher, the harebell with its graceful flower appeared everywhere.》“The Capital of The Tycoon:A Narrative of A Three Years' Residence in Japan”, By Sir Rutherford Alcock, K.C.B., London:Longman, Green, Longman, Roberts, & Green, 1863.
ここが前回、わたしが気にしたところである。
harebellをイトシャジンと訳していいのか。
《漢字で書くと糸沙参ではあるが、北欧原産の園芸植物が幕末のこの時季、函南高原に咲き乱れているという情景が想像できるだろうか。》というのがその時の疑問である。
『365花撰』にはつぎのように解説してある。
《イトシャジンは、北部ヨーロッパなどが原産のキキョウ科ホタルブクロ属の宿根草です。ホタルブクロ属に特有の釣鐘の形をした花が咲きますが、糸のように細い茎が繊細な印象を与えるところから山野草としても親しまれています。》(https://flower365.jp/02/990.html)
残念ながらわたしは野生で、これがイトシャジンだという花を目にした覚えがない。
近縁種のヒメシャジンであればここから振り返って、富士山は富士宮口新五合目、標高2370メートル付近にいくつもの小群落を見ることができる。
この写真はつい先日、8月7日に撮影したものである。
さてこちら、熱海峠越えではどんな花が現れるか。
時刻は9:27、そろそろ図書館が開館するころである。標高は170メートルを超えている。
道路際に現れたのはツリガネニンジンであった。
それから10分足らず、 標高180メートルまでの間に4株のツリガネニンジンをみることができた。
オールコックがいうように《優雅な花》はいい。しかし、
《あたり一面にあらわれた》
というのは当時の実景なのか、大英帝国を代表してフジヤマを征服してきたぞという満足感の表出なのか。その点は確かめようがない。
山の村跡地から吉原林道のあいだも、登山道跡をたどることはやめて、林床に巻き道を造るほかないであろう。
吉原林道から下も息をつけるのはごくわずかのあいだだ。炭焼き窯跡のほうからは古い作業道を通って大量の洪水が登山道に雪崩込むようになっている。
調べてみる必要があるが、山の村跡の駐車場や広大な更地から相当量の雨水がこの古い作業道に流れ込んでいるのではないか。迂回路を設定するにしても、一連の撤去作業が終わってから、雨水の流路をきちんと見極めて考えるほかないだろう。
ここから天照教本社に下る急斜面の登山道はとてもじゃないが道とは言えない。
泥の坂道あり。
熔岩流の間に水たまりあり。
林間が明るくなって、あれが天照教林道と分かったとき、愕然とした。
アスファルト道ではなく泥の海である。
まるで天照教本社めがけて洪水が流れ落ちた印象である。
天照教林道からの越流も半端な量ではない。
この下に村山古道が続いているので、このまま下っていくと村山に着くころは暗くなっているかもしれない。村山までの標高差500メートルは、出水林道・北井久保林道を下ることにしよう。
北井久保林道は飯盛林道合流点から上は、アスファルトが捲れていたり浮き石が路面に散らばっていたり、クルマは通行不能であった。
(写真はムラヤマフジコちゃん提供)
さて問題は、このビーバーダムがすっぽぬけたとすれば、大量の水と土砂はどこへ行ったのかである。7月27日に補強したダムはどうなったか。
こちらもぜんぶ押し流された?
登山道両脇の檜の立木に丸太を渡して骨格とし、上流側に土嚢をダブルに置いて19俵使ったダムも跡形なく流されたのか。
よく見ると違う。 (写真はムラヤマフジコちゃん提供)
ダムは水圧によく耐えて決壊しなかった。土嚢も流されていない。この土嚢の高さまで流れ込んだ土砂をせき止めてくれたのである。
しかし流れこんだ水量は予想をはるかに超えていた。
大量の水が越流して、ダムの下に深い滝壺をつくってしまった。
そればかりではない。さらに下流は何か所も登山道の両側を削り取られ、大きな石が浮き出し、水たまりまでできた。これまで滝壺状に路面が削られることはあっても、水がたまることはなかった。
山麓・村山の人はこれを“ドンドン”と言って嫌う。
これができると水たまりの中をじゃぶじゃぶ歩き、泥まみれを覚悟しないと通過できない。嫌ならそのつど、登りやすい林床に上がるほかない。
《この下、大淵林道までの登山道はますます野渓化が進んでいるが、比較的に大きな石が多いので、これでしばらくは何とかなるんではないか。7月3日のような線状降水帯は、頻繁には発生しないだろうと思いながら下った。》
と先のブログでは書いたが、認識が甘かったというほかない。
登るときは、日沢を渡ったら登山道を行かないで、右岸すぐの林床を右に上がって、疎林のなかを中宮八幡堂まで行く巻き道を造るほかないだろう。
野渓化が進むこれまでの登山道をどうするかについては、いまのところ解答が出せない。
しかし途中で些細な事故が発生すれば間に合わない。踏切立ち入りで安全確認が5分あればアウトだし、スマホかパスモで首都圏から乗り継いできた客が途中駅で1万円札を出して清算したため、朝霧高原に向かうバスに間に合わなかったこともあった。
きょうは順風満帆だ。予定通りに乗り換えが進んで、7:45身延線甲府行きが富士駅を定刻に発車。気になるのは先頭車に乗り込んでいる高校生の大群だが、彼らは源道寺でさっさと降りてくれて、8:04富士宮に定刻に着。
駅コンコースの自販機で水を1本購入、富士急バス窓口に急ぎ、「グリーンキャンプ場」までの乗車券を1080円で購入、停まっている「富士山五合目」行きのバスにさっさと乗り込む、8:10発車に間に合った!
と思いきや運転手が体温を測りに来てグリーンキャンプ場には停まりませんと言う。
窓口ではグリーンキャンプ場までの切符を売ってくれたんだからちょいと途中下車してもらえばいい。
いえ迂回するからキャンプ場は通らないで五合目まで直行になります。
迂回するといってどこですか。
ずっと下の方です。
そこへきっぷ売り場のおばさんがかけつけてきて申し訳ありませんほんとに申し訳ありません。
申し訳ありません内閣でその言葉は聞き飽きました。
申し訳ありません、バスの発車時刻になりましたからいったん降りてください。
グリーンキャンプ場まで歩いて行けと言うんですか。
申し訳ありませんお話し合いを。
いまちょうど運転手さんと実務的な話し合いをしています。
迂回するというのは天照教林道ですか。
いえ篠坂から上には行けません。
ヨンロクキュウ(469)ですか。
そうです。
だったら十里木を通って、エバーグリーンから水ケ塚に上がるんですね。
そうです。
ではそこで降ろしてくださればいい。
先日まで走っていた2便は水ケ塚に寄りますが1便は寄らないことになっています。
停まるはずのグリーンキャンプ場で停まれなくなったのだから、停まらないはずの水ケ塚の先の、人目につかないところでこっそり落としてくださればいい。
そこにちょうど後部座席の客がやってきて曰く、われわれ弾丸登山で頂上まで往復して4時のバスで下りたいんです。
大丈夫です、いま実務の話で詰めの段階にはいっています。
そこにくだんの切符売り場のおばさんが運転手を呼びに来て、会社から電話です。
運転手さん引き返してきて、
水ケ塚に停めていいと会社の許可が出ました。
それはありがとうございます。
水ケ塚がいいですかスカイポート富士がいいですか。
30分助かります、スカイポートで落としてください。
この間一度として声を荒らげることもなく、金品を要求する気配もなく、諄々と話し合って8時23分、13分遅れでバスの出発となった。
おぬしそうとうの悪じゃのう。
ではなく老獪狸の粘り腰、黄金狸豆を育てる名人じゃ。
運転手以上にあの一帯の道路網を熟知していなければ運転手の言い分に押し切られるところであった。やれやれ。
登山道に流れ込む雨水を、日沢に落とし込もうと意図した水切りが破られているのだ。
中宮八幡堂の西側一帯は、数十年前に密植・植林されたままの暗い檜林が広がっていた。一種の放置林ではあったが、斜面の保水機能からいうと優等生であった。
ところがこの密林が数年前に、とつぜん間伐されてしまった。
間伐というよりは、防火帯も設定されたので、皆伐といったほうがいいだろう。
一雨ごとに雨水が村山古道に流れこむようになった。水路になりそうな凹みには、丸太の切れ端や枯れ枝を積んで通せんぼしてあるが、雨水はその下から自由に流れこむ。
土砂で均され、歩きやすかった登山道に鉄砲水が流れこみ、路面は抉れて野渓の観を呈してきたのである。
これまで見てきたように、日沢左岸は新しい熔岩流が地表を覆っているが、右岸は火山灰地だから水を通さない熔岩層は地下10メートルにある。
ここで本格的な洗掘がはじまれば、浸蝕は熔岩層に達するまでとまらないだろう。日沢の河床レベルである。日沢の支流が新しくできることになるかもしれない。
ともあれ登山道の荒廃を少しでも止めるために、水切りを造ろう。
といっても登山道全体が窪地の底にあるので、排水路が造れない。造るとしたら登山道と古い作業道の合流点。ちょうどそこに獣道が抉れて落ち込んでいる。ナラ枯れの根元である。ここなら東側の日沢に向かって水を散らす排水路の掘削が可能である。
この水切りは間伐の廃材をふんだんに使ったので、“ビーバーダム”と名付けた。左は2020年8月の竣工時の写真で、右はその1カ月後に補強したものである。
今年6月27日、ここを登ったときには無傷だったものが、20日後に通ると先の写真のように中心部を突破されている。
今回はスコップなど道具も素材(土嚢袋)もないので、応急に水穴だけ塞いで先を急ぐ。
(写真はムラヤマフジコちゃん提供)
間もなく登山道が雨水に抉られてすでに野渓化した部分があるので、そこは右(西側)の林床に上がって下っていくと、緩い路面に傾斜がつく屈曲点に出る。
ここから下は以前から、大雨のたびに路面の洗掘があったので、いつだったかここに土嚢を積んで雨水が一気に流れ落ちないようにした。
登山道全体が窪地の底にあるので排水路ができない。ダム式にして、流れこむ雨水の勢いを殺ごうというわけである。
左が2016年8月、雨の降った直後の写真で、右がその年10月の状態である。
雨水をキープする機能は働いているのだが、泥んこがたまるので通路を造ったところである。
いささか乱暴な間伐が行われる以前の、穏やかな登山路の様子をよーく見ておいていただきたい。当初は土砂といっても、粒子の小さい粘土質のものが中心であったことも分かるであろう。
ともあれこれはそれなりの効果があったようで、しばらくしてダムが流れてきた土砂で満杯になった。それではというので、ダムの嵩上げを行った。19年6月のことである。
すでに間伐は終了しており、間伐で出たごみが散らかっていることがお分かりであろう。
ところがこの嵩上げ分の土嚢は、1年後の20年5月に行ってみるとなくなっていた。土砂をせき止めるどころか、鉄砲水で流されてしまったのだ。いつの雨で流されたのかは分からない。
これはいかん、丈夫なダムにに造りなおそう。
というわけで今度は、たまっている土砂を掘りこんで、土嚢の下部3分の1を埋め、上流・下流のダブルにして横に並べたのは20年9月20のことであった。使った土嚢は22俵。
これなら長持ちしそうだ。
翌年、つまり今年6月27日、ここを通過したとき、ちゃんと流れこむ土砂をせき止めて機能していた。手前の土砂のたまり方を見ればお分かりであろう。
ところがその20日後の7月22日、このとき土嚢は蹴散らされたかのように押し流されていたのである。
犯人は誰か!
その日、というのは熱海は伊豆山地区で土石流が発生した2021年7月3日のことである。ここからほぼ真南、直線で14キロ地点、富士市・厚原浄水場の辺りにあるらしい気象庁の雨量計によると、その日の1:00〜4:00の3時間の降水量は90・5ミリ、続いて5:00〜10:00の5時間で136・0ミリが記録されている(気象庁「過去の気象データ検索」)。
具体的な状況は想像するほかないのだが、このとき中宮八幡堂の西に広がる間伐地に降った雨が鉄砲水となって、水切りとダムを襲ったのであろう。
そしてさらに1週間後の7月27日、台風8号の吹き降りのなかを、もういちど出掛けた。
今度は捨ててある長い間伐材を2本探してきて、登山道の両側に立っている檜の立木に渡して、まずはダムの骨格を造るところから始まる。
(写真はムラヤマフジコちゃん提供)
そして丸太の上流側に土嚢を2列に並べるという構造にしておいた。どの程度の水圧に耐えるだろうか。
(写真はムラヤマフジコちゃん提供)
土嚢の上にゴチャゴチャ丸太類がおいてあるのは、土嚢のうえを踏むなという一般登山者に対するおまじないである。
この下、大淵林道までの登山道はますます野渓化が進んでいるが、比較的に大きな石が多いので、これでしばらくは何とかなるんではないか。7月3日のような線状降水帯は、頻繁には発生しないだろうと思いながら下った。
がしかし、昨今の大荒れの気象状況をみると、流され&造りなおしの鼬ごっこが延々と続くのかもしれない。
そのことをこのブログの《2021.04.23 Friday 富士山データベース『岳南朝日』索引・昭和編》で紹介しておいた。
富士宮市で発行されているタウン誌『岳南朝日』新聞が、富士宮市立中央図書館に1955年=昭和30年以降蔵架されている。そこから、富士山絡みの記事見出し7000本を拾い出して索引をつくった、関心のある人は活用してくださいという趣旨である。
もちろんそのことによってこのホームページを覗いてみた人が増えたとか、富士宮図書館での『岳南朝日』バックナンバーの閲覧者が目立ってきたとか、という事実もないし噂すらもない。当然のことである。
一般市民の日常生活にはなんの関わりもないことである。
富士山頂は山梨県か静岡県か、国有地か私有地か、富士山中腹ぐるり一周鉢巻き道路構想がどうして今のスカイラインに落ち着いたか、山室宿泊料金の独禁法抵触問題、なぜブルが頂上まで上るのか、年間300万人といわれた創価学会員の大石寺登山が0人になったのはどうしてか。
あるいは、入会地をめぐる利権争い、工場排水に憤激した農民一揆、山麓の天水生活から地下水の簡易水道を引くまでの労苦、戦後生活が落ち着いてきて手探りで復活させた村祭り、そして村山古道の復活についても、関心をもっている人はまずいないであろう。
ところがこのデータベースのことを、当の『岳南朝日』が大きく取り上げてくれたのである。
7月22日付である。
さすがに、この記事には反響があった。
《ローカル新聞で先生の記事を見、長年に渉り調査されていらっしゃることに心からお礼申し上げます。……勝手ながら紙面でお会い出来、嬉しく一筆》。
《先日、岳朝紙上にて畠堀さんの記事拝見し、ペンをとりました。コツコツと地道に取り組まれ、大変便利かつ有意義なシステムを作られ、頭が下がります(しかし、地元外で、地元の者がなしえなかった点でも。)》
ありがたいことである。
しかし考えてみればいずれもかつて富士山峯入り修行に参加した人からの手紙である。
まア、そういう関係のある人でなければ、あえてこの記事を読んでみようかという気にもならないであろう。
記事タイトルが延々と7000項目並んでいる索引を読んで面白いものでもない。
暑さにめげず、《富士山データベース『岳南朝日』索引・平成編》の作業をつづけることにしよう。
山樂カレッジ 畠堀
]]> はっきりしてきたのは、土石流の原因となった盛り土を誰が造ったのか誰が許可したのか、責任の押しつけ合いである。主犯は雲隠れ、どうやら行政も無傷では済まないらしい。
梅雨前線はまだじくじくと日本付近に居座っている。
左が7月9日21時現在の実況天気図、右が24時間後、10日21時の予想天気図である。
太平洋高気圧は強まってくるようだが、梅雨前線はまさに富士山の位置まで南下しそうだ。
天気予報文も芳しくない。
《2021年07月09日23時発表 10日(土)の予報静岡県中部の天気予報 くもり 朝から昼前 晴れ 所により 昼過ぎから夜のはじめ頃 雨で雷を伴う》
じつはもう一つ問題がある。コロナ感染の広がりである。
11日の非常事態宣言解除を間近に控えて、すでに若年層を中心にリバウンドが始まっているという専門家もいる。山樂カレッジが18日に予定していた霧ケ峰行は中止と決定したばかりである。もう1週間延ばすと、首都圏はどんな事態になっているか予想がつかない。
よし! 雨で濡れるのは二の次、いまのうちにやってしまおう。
つぎに示すのは10日04時40分現在の気象庁の雨雲レーダー図である。
九州南部は線状降水帯の集中攻撃を受けているが、あの雨域が富士山まで伸びてくることはあるまい。雨に濡れても身体が冷えるという季節はないから、雨具の準備だけはしっかりしていこう。
10日は朝9時過ぎ、村山浅間神社・興法寺大日堂では富士山入山式の準備のため皆さん総動員である。もっとも3密を避けるために余所者は来ないでくれという要請が出されているので、われわれは奉納酒“村山古道”を責任総代に預けて、神社西側の六道坂をそそくさと登っていく。
六道坂旧道の上の出口は草茫々である。
これではとてもじゃないが、皆さんお通りくださいというわけにはいかない。
腕が鳴る。
ところがどうしたことか、林道の終点の六辻、ここからはクルマの入れない山道というところまで行くと、予想に反して草がない。ベテランの理髪師が腕をふるったように刈り込まれている。ありがたいことである。
写真の左の砂利道ではなく、中央の草道が村山古道である。
右の斜面の上一帯は御殿場市・印野財産区の植林地であるから、印野の人たちが行きがけの駄賃で登山道の草刈りをしてくれたのかもしれない。灌木の切り株や草の葉の萎れ具合から考えて1週間以内の作業と思われる。
ただ草刈りに慣れている印野の人たちの仕事にしては、ちょっと雑なところがある。
入り口部分の平坦地はそのままでもいい。
しかし登山道が右にカーブして傾斜がついているところは、後始末が必要である。
とくにこの写真の部分は熔岩流剥き出しの段差があり、ときどき右上から落石が発生して、足元には浮き石もある。
地下足袋で登るときなら、足探り、つまり足の裏でしっかりしたステップをまさぐりながら体重移動していけばいいが、下りではそうはいかない。身体を鉛直に立てるようホールドをとり、後ろ膝に体重をあずけたままでそろりそろりとステップを探すことになる。
ここではまず、大きな枝類を斜面の両側に跳ね上げて、足元の岩を露出させなくてはならない。
(写真はムラヤマフジコちゃん提供)
次に、岩回りの刈り残しを、手鎌で切るか手で引き抜いて掃除する。ともかく、目でみて足元のステップが見えるように磨き上げると安全な登山道になる。
そして仕上げが「←村山古道→」と「右上↑落石注意 左下↓浮き石注意」などの標識の新設・補修になる。
(写真はムラヤマフジコちゃん提供)
こういう作業があっという間に終わってしまうのだから、あらかじめ草刈りをしてくださった人(グループ)には感謝、感謝である。
今回は送電線のさらに上方の、杉の倒木が登山道を塞いでいたところも、チェンソーで掃除してもらったようである。
村山古道はこういった匿名の方々の善意で維持・保全されていることを、多くの人に知ってもらいたい。
帰りには、冒頭に見た六道坂旧道の出口の草を刈りとっておいた。
村山古道登山者の皆さん、六道坂はいちばん下の石畳道から入ってください。
神社まで下ると、駿河湾から生暖かい風を吹き上げてくる。
旧山本商店まえで、もう梅雨明けですねと地元の人に声をかけられた。
標高は670メートルと低く、南向きの日当たりのいい土地だから草は伸び放題である。
季節が早すぎては後続が成長するので開山ぎりぎりがいい。登山者が歩いてくれれば、あとはなんとか踏み跡は維持される。
つぎの写真は昨年7月5日のものである。
あえて、ここを踏み分け押し分けて登っていこうという登山者がいるだろうか。余程の信念の持ち主か、藪漕ぎを愉しみと心得ている趣味人はともかくとして。
ところが今年の出発前日にあたる7月3日は、熱海市伊豆山地区で土石流が発生した日である。
藤沢市の自宅でも未明から雨音がうるさくて、4:00に起きだして気象状況をチェックした。
なるほど《線状降水帯 03時50分》なる表現は初めてみたが、ネットで藤沢市防災安全部に入ってみると、皆さんまだおやすみのようであった。
8:30消防署の有線放送が何か言いはじめた。こんな雨のなかまた徘徊老人のお知らせかと思ったが、いつもどおり何を言っているのか聴きとれない。
と同時にスマホが、ギャアオーギャアオーギャアオーと騒ぎはじめた。
地震でも起こるというのかと思ってスマホの蓋を開くと、藤沢市でもようやく避難指示の発令である。
そのうち雨も収まったころ熱海で土砂崩れが発生したらしいというニュースが伝わり、生々しいユーチューブ画像がネット上に流れはじめた。
この場所には見覚えがある!
中央の赤い建物は記憶にないが、この道路の曲がり具合に見覚えがある。
左の木立が高野山真言宗走湯山般若院で、この一曲がりで伊豆山神社前のバス停に着く。
これは土砂崩れではなく、土石流である。
今日では歴史は消されているが、般若院といえば明治の廃仏毀釈までは伊豆山権現の別当寺。伊豆山修験といえば富士山開山の末代上人が若き日の修行の地。
ここから伊豆山神社を抜けて蒼古たる森林を通り、同社の奥宮に当たる本宮神社を過ぎると、今回の土石流の発生地点である。
そこからさらに登って行って日金山の頂上間近に、末代上人を祭る宝筐印塔があって、近年になって発見されている。
とりあえず雨は収まったが梅雨前線は生き残っている。
予想天気図では、うまくいけばあす4日の午後には日が差すかもしれないが、確率は低い。しかも東海道本線は不通、御殿場線も沼津−御殿場間が運転取りやめである。
静岡県入りは1週間自粛することにしよう。
山樂カレッジ 畠堀
]]> 勝沼ぶどう郷駅にはときどき駅員の姿が見えることもあるから、そのときは予定していた ように220円を精算する。
200円ぐらいいいんじゃないという声も聞こえないではないが、そこで諦めないでもう一声、諸悪の根源である「途中下車前途無効」なるものの根拠はなんであるかと考えてみた。
JR東日本のホームページをみると次のように書かれている。
《「途中下車」とは、旅行途中(乗車券の区間内)の駅でいったん改札口の外に出ることをいいます。次の例外を除き、乗車券は、後戻りしない限り何回でも途中下車することができます。》
ここでいう《次の例外》とは何か。
《片道の営業キロが100キロまでの普通乗車券
大都市近郊区間内のみをご利用の場合の普通乗車券
回数券》(以下略)
町田〜甲府は片道100キロを超えているから、問題は《大都市近郊区間内》にありそうだ。
《大都市近郊区間内のみをご利用になる場合の特例
図のそれぞれの大都市近郊区間内のみを普通乗車券または回数乗車券でご利用になる場合は、実際にご乗車になる経路にかかわらず、最も安くなる経路で計算した運賃で乗車することができます。》
つまり例えば、甲府から中央本線に乗って八王子で乗り換え、八高線を使って高崎に出て、両毛線で小山に出て、さらに友部から常磐線に乗り換えて上野に出て、京浜東北線で東神奈川で横浜線に乗り換えて町田で初めて改札を出るという酔狂な大旅行をしても往復2760円で済むという意味である。
その代わり、わが国に鉄道が敷かれて150年になんなんとす、甘くはないですぞ。
《重複しない限り乗車経路は自由に選べますが、途中下車はできません。途中で下車される場合は、実際に乗車された区間の運賃と比較して不足している場合はその差額をいただきます。》
中央本線をどんどん西に進むとき、松本の先までの切符を買わないと“近郊区間”外に出ることはできない。
甲府駅改札を出た正面に“カフェ&ワインバー葡萄酒一番館”という立ち飲み屋ができたんだが、ここで湯飲み茶碗一杯の葡萄酒を引っかけようと改札を出ると、改札機が乗車券を取り込んでしまう。
右側の有人改札口で職員にお願いしても、まずは通してくれない。
やったことはないが、絶対通してくれないだろう。
それではもっと手軽に“近郊区間”外に出ることはできないだろうか。
たとえば、町田から往復で南甲府までではどうだろう。甲府から身延線に乗り換えて4・4キロ、片道190円。
ジャーン!
町田から南甲府まで往復2760円で、「途中下車前途無効」が消えてしまいましたね。
これまで静岡や富士宮に行くのに自由に途中下車していながら気づかなかったのですが、東海道本線・熱海駅と中央本線・甲府駅は、JR東海とつながっている特異点だったのです。
応用が利きそうですね。
獣道でも足底が地面に着かないような藪でも自由に歩き回った。富士山は駆け上がり跳び下るトレーニング場だった。
20年ほどまえに富士山の廃道・村山古道を歩いたときから、歴史の積み重なりが見えるようになった。
あの温厚な人が、と思うようなお年寄りに酒が入ると、150年も前の廃仏毀釈の恨みつらみを聞くこともあった。
資料を読みあさっているとき、棘のように引っかかる文章があった。
《憧れの富士に向つた、古へからの数知れぬ人を迎へて、それによつて衣食した山麓の人々が、如何に争闘し、罪悪し、盛衰の波に漂はされて来たか。これがその儘人の世の姿である。富士は――しかし富士は悠久に東海の天にかかつてゐる。》(塚本繁松「富士登山道の種々相」『山と渓谷』33号、1935年=昭和10年9月)
山麓をクルマで通過して五合目から往復するというわけにはいかなくなった。
幸い富士山の周りには山梨・静岡県立図書館のほか、数多くの市立・町立図書館があって、膨大な知識が眠っている。
公共図書館の司書としての訓練を受けていない職員には不快な思いをさせることもあった。
わたしの目標は、ぼんやりした構想ながら、「明治・大正・昭和・平成――新聞記事にみる富士山データベース」ということになる。
多くはマイクロフィルム閲覧だから、リーダーごとに癖があって、手間暇がかかる。
次の写真は、静岡県立中央図書館歴史文化情報センター書庫に収まる『静岡民友新聞』のプリントアウト冊子である。304冊ある。1941年=昭和16年12月の日米開戦直前に廃刊に追い込まれている。こういうものも全ページめくってきた。
ふつうの索引づくりと大きく違うことがある。この作業はわたし個人の勉強でもある。興味の赴くままに記事内容を理解しようとして、前後に飛んだり他紙を調べたり、論文を探して読んだり、関係者に聞き取りしたり、大脱線を何回も繰り返してきたために遅々として進まない。
このままではあと5年かかるか10年で完成するかおぼつかない。
とりあえずは新型コロナ禍を奇貨として、入山の機会が少なくなった合間に、『岳南朝日』索引・昭和編を世に出すことにした。
収録した期間は、1955年=昭和30年2月〜1992年=平成4年12月の38年間。富士宮市郷土史同好会と村山の人たちの手によって、村山古道が再発見され、復活するまでである。
全文は、40行で350ページあるから1万4000行。記事見出し1項目につき2行を使っているとみなして7000項目が拾ってある。このために撮ったコピーはA3で、おそらく5000枚、厚さは50センチほど。
古本屋さんに見てもらったら、「単なるごみの山です」。
ともあれ、このホームページの【データベース】欄に入ってみていただきたい。
全文検索ではないのでちょっと使いづらい点があるかもしれないが、わたしの世界観が滲み出ていると感じていただければ幸いである。
現在たどっている昭和20年代の終わりは、1冊の厚さ7センチ、7キロ以上ある。
これを横に90センチ広げて、右半分のコピー面をコピー機のガラス面にそっと置いて、スイッチを押し、原本が浮かないように両腕に全体重をかける。コピー機も頑丈である。
この重筋労働を1日150回近く繰り返すと、夕方近くなると手首はジンジン、握力がなくなる。
さらに1日経つと痛みは治まっており、23日にも同じ列車に乗る。きょうは冬至、移動性高気圧が東西に長く延びているので期待できるかもしれない。
つぎの写真はその日23日6時51分のものである。
ちょっと靄〔もや〕っているが、太陽が水平線から浮いて、海面の光っていることにお気づきであろうか。
翌24日目覚めると両方の上腕部全体がべったり筋肉痛の帯で覆われている。
25日は筋肉疲労が背中全体に拡散したようでなんとかなりそうだ。
気温が高い。高気圧が南の海上回りで張り出してきたようだ。
この日25日6時52分には水平線と太陽が完全に離れて、海面が輝いている。
この午後、静岡県立中央図書館歴史文化情報センターでは『静岡新聞 Vol.54 昭和29年11月〜昭和29年12月』の束をめくっていた。
11月28日に富士山吉田口六合目で雪崩が発生して、複数の登山隊が吉田大沢にたたき落とされ16人が行方不明という事故が発生している。
捜索が難航して、連日のように続報が載っていたのだが、しばらく遭難関係の記事が途絶えたあと、12月5日付3面上段に関連記事が復活する。
「富士山遭難 捜査一応打切り 来春、雪解けを待つて続行」
あれ? 紙面上端の日付を追ってみると、12月4日付夕刊4面から6日付朝刊までがまとまって、1週間あとに製本されていることが分かった。遭難記事が途絶えた理由はここにあったのか。
そこで、順当に製本されている12月4日付夕刊3面のつぎのページに、紙片を挟んでおいた。
《 美は乱調にあり Vol.54に乱丁あり
昭和29年12月4日付夕刊4面〜12月6日付朝刊1面は、12月12日付朝刊と同12日付2面の間に挟まっています。》
年内の静岡通勤はこれでお仕舞い。
年明けの1月4日(月)、静岡県立中央図書館歴史文化情報センター開館までひたすら、これまで溜まっているコピーから記事タイトルの書き出しの日々が始まる。
6:07ホームで乗り換え電車を待っていると、藤沢駅前広場のムクドリの大群が旋回を始める。
6:30国府津手前でオレンジ色の日の出に照らされて相模の大山が輝くのだが、顔をいくら車窓に近づけても富士山は見えない。上空には抜けるような青空が広がっているのだが、足柄峠の向こうには積雲が立ち上がっているようだ。
丹那トンネルを抜けても事態は好転しない。富士山の前に立ち上がっている層積雲が愛鷹山の山頂部を覆い隠していて、もちろん富士山はまったく見えない。
しかし電車が東田子の浦を過ぎる辺りから富士山頂が姿を現す。
富士駅で身延線に乗り換えると事態ははっきりする。
愛鷹連山は雲間にまだらだが、富士山には雨雲が残っていない。
富士根駅で、ワンマンカーのお客が降りた後ろから写真を撮る。
山頂部の吹っ立ては強風を物語っているが、平地では風が吹いていない。
8:24富士宮駅着。まっすぐ富士宮市立中央図書館に向かうと、開館まで所在なく15分以上待たなくてはならない。依然として無風である、きょうはいけるかもしれない。
コンビニで昼食を買い込んで、静岡県富士山遺産センターに着いたのは8:43。
風はまったくないような皮膚感覚だが、水面のさざ波は正直である。
図書館まで7〜8分で行けるから、まだ大丈夫だ。
そして8:47、水面がピタリと止まったのである。
この時、21日9:00の現況天気図を見ると、状況がよく分かる。
昨日通過した寒冷前線による雨雲は富士山からは吹き払われて、残りが愛鷹山にひっかかっていたのであろう。
中国東北部にある高気圧からの吹き出しはまだ始まっていなくて、日本付近はゆるい気圧傾斜である。
もちろんこれは結果論であって、天気図から、あらかじめこのような天候を予報することはできない。
ところがである。先に挙げた茅ケ崎市の「ロコチケット」冊子には、商品券の枚数が少ないものや多いものがあったという。
《市によると、発売初日の1日に購入者から「16枚あるはずなのに15枚しかない」と連絡があり、落丁が発覚。3日には「13枚しかない」との連絡もあった。
市によると、印刷業者が券をとじ込む際、1枚もしくは3枚、券が抜けたまま冊子にしたものがあった。抜けた分は別の冊子に入り込み、枚数が多い状態でとじられたという。》(『朝日新聞』2020年10月8日付神奈川湘南版)
茅ケ崎市の「ロコチケット」の現物は見たこともないし、新聞記事からはどういう面付けで印刷・仕上げ断裁したかは不明であるが、金券であるから当然のことながら1枚ごとに通し番号が印刷されているはずである。しかも《1枚もしくは3枚、券が抜けたまま》というからには、1折り16枚・1折り8枚という単位ではなく、1枚ずつ印刷されたときと同じような作業工程で発生した事故だったような感じがする。
工程管理の手順をちょっと考えれば防ぐことができたのではないか。
これは乱丁ではなく、由緒正しい落丁である。
東海道本線根府川駅からは、水平線のうえの雲に太陽は隠されているが、左端から中央部にかけて蜃気楼のように浮かんでいるのは三浦半島の向こう、房総半島である。水平視程80キロ。
身延線に入って富士根駅から見る富士山には鉢巻き雲もかかっていない。
きょうは村山古道1250メートルに位置する中宮八幡堂祭りである。
西臼塚駐車場には1株のフジアザミがある。これはわたしが富士山一帯を歩き回った限りでいうと最南端の分布である(《村山古道補修 20年その10 土嚢積みとロープ張り》20年9月26日)。ことし初めて蕾を着けた。
そしてついに花開いたのである(富士宮市大岩のおうち喫茶「ひまわり」さん提供)。
富栄養土のこの辺りで仲間を増やすのは大変だろうが、いずれここにフジザアザミのお花畑が出現するかもしれない。
大淵林道から中宮八幡堂までの村山古道は、つい数年前まで土道の歩きやすい登りだった。その昔は丸太を下ろす木馬道(きうまみち)だった時期があったかもしれない。
しかし今や熔岩流が剥き出しになり、大きな岩ごとに段差がついて極めて歩きにくくなった。植林以来数十年放置されていた檜林が皆伐採に近い間伐を受け、林床の保水力がなくなったためである。ちょっとした豪雨で鉄砲水が発生する。
村山古道のこの部分は登山道として放棄することも検討したのだが、ともかくこれまでの土嚢ダムの補強と倒木を利用した水切りで、これからの推移を見ることにした。
これは数年まえから土石流緩和のため造ったが昨年鉄砲水で土嚢ごと流されたので、つい先月9月20日、補強したダムである。
下流側の土嚢を半地下式にして腰を強くし、上流側には二段構えで土嚢を積み上げてある。さいわいまだこれが破壊されるような鉄砲水は発生していない。
こちらは中宮八幡堂のすぐ下で、鉄砲水の発生現場のすぐ近くで今年8月13日に新設したものである。近在の倒木を組みあわせてダムを築き、流水の一部は日沢(にっさわ)に直接落ちるようにと設計した。9月20日には日沢側の水路を掘り下げた土で ダムを補強した。
こちらも強度が試されるような鉄砲水にはまだ遭っていない。
さて、中宮八幡堂の旧建物跡。何台もの刈り払い機が出動して、一夏を謳歌した草が刈り取られ、お堂は注連縄で囲まれて 祭りの準備が進む。
まずは宮司による祝詞奏上……
つづいて山伏による読経……
昼前のいっとき雪雲が被さってきたが、一滴の雨粒も落ちることなく祭りは終わった。
要点は、今年の梅雨明けごろから富士山西麓の田貫湖・白糸一帯でコナラの立ち枯れが目立ちはじめ、原因はカシノナガキクイムシの虫害だという。産卵のために何百という穴を開け、ナラ菌を媒介するという。
《罹患したコナラの枯死率は2〜3割程のようです。大木が罹患することが多いので、枯れるとその処理が大変です。》
さっそくこの記事を転送すると、ローリング父さんからはクヌギとコナラの区別がつかなかったという訂正があり、カシナガによる食害の生々しい写真を送ってきた。いずれも田貫湖近辺での撮影である。
《ナラ枯れは愛鷹−富士川の川沿いにも散見されており、広い範囲に被害があるようです。》
この言葉どおり、御殿場市水土野でナラ枯れが広がっていることが分かった。
富士山ホシガラスの会・勝間田幸宣氏が、9月15日のFacebookにドローンによる上空からの写真を投稿した。
《御殿場市水土野のナラ枯れ・・・9月12日に撮影したコナラが枯れている状況です。(NPO法人富士山ホシガラスの会ホームページより)》
そして9月20日、ついにわが村山古道にもカシノナガキクイムシの侵入を発見することになる。
場所はあのビーバーダムのすぐ上、標高1250メートル地点である。
そして前項《村山古道補修 20年その11 道迷い》(9月28日)、迷い道の折り返し地点にもあった。
なんであれ、初めてこれだ! と気づくためには、いろいろな雑念が論理的にまとめられて近似のイメージができあがるまでモタモタするが、いったん脳裏にイメージが形成されると、よく見えるようになる。
あそこにもある、向こうにもある。登り返しの途中に、少なくとも3本のナラ枯れを目にすることになる。
この写真で見ると、この辺り一帯は自然林のように見えるが、じつは高値で売れる有用木はことごとく伐採・搬出されたあとの放置林である。縦横に作業道が交差しているなかに村山古道が細々と繋がっているといったほうがいいであろう。
]]>
日沢への排水路はと覗いてみると、10センチほどの水流痕は見えるが、ザーッと雨水が流れた形跡はない。ダムで防ぎとめるほどの豪雨はなかったということである。
それでも次の豪雨に備えてたっぷり補強はしておいた。
左は今年8月13日に造ったばかりの写真で、右が1か月後の姿。ダム手前の貯水部分と日沢に流し落とす排水路を掘り下げ、ダム本体に土をべったり貼りつけておいた。
汗をかいたので雨着は脱ぎ、そのあとはしばらく骨休み。空身で中宮八幡堂の上まで行った。
炭焼き釜跡から日沢に下る坂道が崩落しはじめたので、さらに上に造られた新しい下りコースにトラロープを張っておいた。
20メートルをダブルにして、結び瘤をつくってある。
50メートルロープの余り、10メートルが後で 役立つことになる。
引き返しはじめると大粒の雨が降りはじめた。次に目指すのは、鉄砲水で流されてしまった土嚢ダム(5月23日《村山古道巡視 20年その3》参照)。
右(西)側の窪地には草が密生し始めたので、雨水の流入は心配するほどでもなさそうだ。この下の登山道を洗掘している雨水の主力は、先ほどのビーバーダムから流れ下る鉄砲水と考えていいだろう。
ではここに高さ1メートルの頑丈なダムを造って、左手(東側)の草地から日沢まで排水路を掘ってはどうか。
ダム本体はなんとかなるとしても、1メートルも掘り下げた溝を何十メートルも延ばすわけにはいくまい。ユンボでも持ってくればできるが、人力では不可能である。
ともかく、この下側の登山路の洗掘をこれ以上悪化させないために、土砂と水をここにためることにしよう。
幸いここはこれまで何年もかかって土砂が堆積しているので、土嚢の中身は幾らでもある。
もちろんスコップでは断ち切れない、太い根っ子も出てくる。これは鋸で地球を切っている気分である。
新しいダムを造る位置は、流された白い土嚢の2メートル上手。まずここに幅一五センチ・深さ10センチほど横切るように掘りこむ。ここに土嚢を置く、のではなく、縦に突き落とすのである。
袋の入り口は下になるから、詰め込まれた土砂には逃げ場がない。
横に11俵列べると溝道ぜんたいが塞がるので、さらにこんどはその上側に土嚢を突き落として密着させる。合計22枚を使うことになった。
暑いので雨着を脱いで作業していたら、雨はやんだ。
さらに土嚢と土嚢の隙間に土砂を詰め込んで、枯れ枝でおまじないを飾って踏まれないようにした。
気がついたら登山道をかんぜんに塞いでしまったので、右の檜の外側に通路を造ってようやく完成。
午後はまず、大淵林道のすぐ下、不動沢熔岩流が村山古道を横切って、右から左へと迂回して窪地になっているところ。
ここは右下に排水路を掘り下げればそれで済むのだが、左下に続く村山古道が傾斜を増して長い水路に育っていく危険性があるので、あえて土嚢2俵を積んで予防措置とした。
本日の最後の作業は、ここからさらに15分ほど、水平に近い坂を下っていくと、右上から下ってくる古い作業道が合流する場所がある。
これは今年5月15日に、下から登ってきたときの写真。 右上に行くのが村山古道、左に折れ曲がっているのが古い作業道である。みすぼらしい壊れかけた水切りは、数年前に造りかけて土嚢袋不足と疲労のため中途で終わった残骸である。
この地点で登山道の洗掘はみられないが、ここから下は延々数百メートルもこんな緩い坂道が下っている。雨が降ったときに水の逃げ場がどこにもない。まずここで雨水にストップをかけなくてはならない。
幸いこの一帯は腐葉土の堆積地だから仕事は簡単である。ときおり細い木の根が横切っているが、瓦礫も岩もない。左下に流す排水路を掘って、その土で土嚢10俵ができる。それを横べたに列べて完了である。
ここから西臼塚駐車場に引き返すのに30分もかからない。
客は疎ら、車内の吊り広告はフルに使うとB3用紙で28枚まで下がるのだが、端から端まで眺めても11枚しかない。しかも何枚かはJRの自社広告のようで、コロナ不況からの回復の兆しは感じられない。
見るともなくドア上の電光掲示板を眺めていると、台風注意報を流している。
《【山手線】台風の影響により列車の遅れや運休が発生する場合があります。今後の気象情報や運行情報にご注意ください。》
アレ!? 台風はまだまだ遠く南の海上にあったはずだが、急接近しているのかな? まアいいや、どうせ山手線乗り換えのはるか手前の藤沢で降りるのだから大事あるまい。
と思う間もなく、
《【京浜東北線】台風の影響により列車の遅れや運休が発生する場合があります。今後の気象情報や運行情報にご注意ください。》
続いて、
《【烏山線】台風の影響により列車の遅れや運休が発生する場合があります。今後の気象情報や運行情報にご注意ください。》
えッー烏山線とは宇都宮の向こうだったかな、と思う間もなく【青梅線】【常磐線】と続く。
関東地方中北部ではよほど事態が切迫しているようだ、上野以北にお帰りになる方は十分お気をつけくださいと願わずにいられない。
わたしはといえば、藤沢駅で小田急江ノ島線に乗り換えて4つ目で下車。
駅前の路面は濡れているが無風、傘を出すこともなく、帰宅してパソコンで台風情報を覗いてみた。
この台風12号の進路予想図で、黄色い円は風速15m/sの強風圏、赤の太線は25m/sの暴風圏を表している。これで見ると関東中北部に台風の影響が出るのは24日の午後以降ということになる。
JRの皆さんありがとう。
2日後に乗るお客さんのために、懇切丁寧な注意喚起をしてくださっている。
そして翌23日の朝−−
《台風12号、東日本に24〜25日に接近 大雨に警戒を
…………
台風や前線の影響で、東日本の太平洋側を中心に雷を伴う大雨が降る所もある。24日午前6時までの24時間に予想される雨量は、東海、伊豆諸島で200ミリ、関東甲信で150ミリ、東北で80ミリ。その後、25日午前6時までの24時間雨量は関東甲信で200〜300ミリ、東北、伊豆諸島で100〜200ミリ、東海で50〜100ミリの予報。》(朝日新聞デジタル>記事 2020年9月23日 10時03分)
そしてその夕刻−−
《関東は24日、東北は25日にかけて大雨に 台風12号
…………
24日午後6時までの24時間降水量は多いところで、伊豆諸島250ミリ、関東200ミリ、東北180ミリの見込み。東北ではその後の24時間にも100〜200ミリと予想され、気象庁は土砂災害への厳重な警戒を呼びかけている。
JR東日本によると、千葉、茨城、福島、宮城の各県の在来線の一部では24日、運転を取りやめる計画となっている。》(朝日新聞デジタル>記事 2020年9月23日 18時44分)
藤沢の自宅では何の兆候も感じないけれど、やはり北関東から東北は酷くやられるらしい。
そして運命の24日朝−−ひんやりした北風がときおり吹くが、雨は降っていない。きょうは庭の草抜きでもしようか。
気象庁レーダー・ナウキャスト画像はどうなっているのだろう。
あれ!? 台風の渦巻きがなくなっている。
天気図はどうだろう。
台風12号は気が変わって、前線に沿って東のほうへ行くらしい。
まもなく薄日が差してきて、ネットで調べていると納得できる情報が見つかった。
《今日24日(木)の天気 台風12号接近の関東沿岸は横殴りの雨 九州は強雨注意
…………
台風12号は陸地から離れて通るため影響は限定的で、大雨や暴風のおそれはなくなりました。
…………
東シナ海に新たに低気圧が発生して東へ進む予想です。そのため、九州や中国、四国では雨が降りやすく、特に九州南部では雷を伴って、強く降ることがあります。》(2020/09/24 05:32 ウェザーニュース)
そうか22日夜、籠原行きの車内電光掲示板の注意喚起はこのことを指していたのか。
内閣は変わっても、忖度意思決定の麗しい慣習、国民に大騒ぎさせて誰も責任をとらない行政の機能不全は継承されるらしい。
この水切りは見るからに十分に機能していたので、水路をチョイチョイと掘り下げて補修おわり。
ここは登山道が広がって氾濫原のようになっている。右下に流す水路を掘って新設。
ここは洗掘が進めば立派な水路になりそうなカーブ。すぐ右下に古い木馬道があるので排水路を掘れば簡単だと思えたのだが(左の写真)、ところがどっこい。地中を縦横に木の根が走っているのでスコップが立たない、ツルハシを打ち込んでも刃先が掘り起こせない。
地面のここぞという場所に鋸を差し込んでギコギコ試行錯誤。
地下茎を切って、改めてスコップで掘り下げるという工事を続けて土嚢2俵を造り、ようやく完成(右の写真)。
帰りの東名高速は8月最後の日曜日のせいか、コロナ禍が落ちついてきたためか、大阪・三重・名古屋など遠方のナンバーも混じってかなり込んでいた。
事故渋滞も3か所で発生していたがいずれも軽い追突で、救急車の出動はなかったようである。やれやれ。 (秋の気配その3おわり)
午前中はここが本日の最高高度で、作業打ち切り。 (つづく)
この首無し地蔵はこの間どこかから人知れず歩いてきたものではない。
1996年9月の台風17号で一帯の森林が薙ぎ倒されたとき、大木の寝返りによって土中から掘り出されたものらしい。
同報告書には「南側に石垣が積まれています」とあるが、今日それは確認できない。
日本石仏協会・田中英雄氏の鑑定によればこれは六地蔵だというから、地蔵3体ほかの遺物がこの地下に埋まっていることは確かである。
これから行政による発掘調査が行われるのかどうかは分からないが、六観音跡に続いてこの遺跡も流出・埋没する危機にある。
南の雨水の流れ出し口は昨年水切りを造っておいた。排水路を水平方向に掘って水勢を弱めるようにしただけである。
しかし北の山側は、いちおうダムのようなものを造ったが、狭まった地形の関係から流れこむ雨水を止めることができない。(《村山古道補修 補足 硬い地面ほど浸食される》2019年8月6日参照)
そこで今回はまず、この疑似ダムの10メートル上に、左(西)にある窪地に雨水を落とし込む排水路を掘った(左の写真:このペア写真は見下ろして撮ってある)。しかしこれだけではかなりの分水が登山道に流れこむので、枯れ木の向こうの登山道を塞いで、登山者には左(東)の朽ち木の上を通ってもらうことにした(右の写真)。
これが遺跡保存にどのていどの効果を発揮するかは分からない。 (つづく)
サーンゲサンゲ、ロッコンショウジョウ、サーンゲサンゲ、ロッコンショウジョウ
足場の悪い棒道で、棚状の地形に造った水切り以外はすぐに用をなさなくなってしまう。
そこでとりあえずは、岩屋不動分岐のすぐ下、坂が急になる上の棚に、しっかりした水切りを造ろうというのが今回の眼目の一つであった。
ここに造ろう。ここに横たえてある枯れ枝の線で流れてくる雨水を遮ろうというのである。
ところがここも地面下は熔岩流か、瓦礫の固まりだろうという予想に反して、腐葉土だったのである。
それでも40分近くかかって土嚢4俵を積んで、おまじないの丸太をどかどか、これでおしまい。
まだ11:40、早いけれど昼食休憩にしよう、午後は笹垢離の上でもっと難工事がある。
ところで、さっきから気になっていたのは雷鳴。
はじめは東富士演習場の自衛隊の砲撃演習の爆発音だろうと思っていたのだが、どうも聞こえてくる方角が違うではないかとスマホで気象庁のレーダー・ナウキャスト画像を出して調べてみる。富士山をすっぽり覆う真っ赤な雨雲の固まりが北側から近づいているではないか。
ひらひら飛んでいたアサギマダラは、すでに姿を消している。
ともかく昼飯を、と食べはじめるとポツリポツリ。と思う間もなくいきなり本降りの雨。
ばたばたと食器類を片づけてザックに放り込み、ザックカバー、雨具、即出発。カミナリの位置は、雷光から雷鳴まで3秒あるからまだ1キロはある。
土砂降りのなか35分後にはスカイライン縦道1600メートル地点に下り立った、やれやれ。
天はそれを見透かしたように雲が切れて日が差す。しかし、「登り返して午後の作業を再開しよう」と発議する者はいない。それが正解だった。
13:30旧料金所をあとにした直後、フロントグラスに雨粒がボタボタ、いきなり土砂降りである。
オーンモイオーンモイ、ンコラショーンコラショー、ワイパーも重そうに唸っている。
次の写真は14:00現在のレーダー・ナウキャスト画像。矢印の位置が富士山である。
しかし御殿場インターから東名高速に上がると、路面の濡れている個所はどこにもなかった。
静岡県東部の天気予報では午後雷雨、神奈川県西部は終日晴れだった。狼少年村のご託宣でも、たまにはこういう総当たりということもある。
この黒い土砂がどこから流れこんでいるのか、供給源はすでに《村山古道巡視 20年その3》で指摘したようにはっきりしている。このすぐ上を走る富士山スカイライン横道からである。スカイラインの路肩に何の損傷もみられないから、山側のL型側溝のグレーチングから流れこんだものである。
ここから流れこむ土砂を止めるのか。
遺跡を永久の眠りに戻るに任せるのか。
苔蒸した熔岩流のうえにたまった土砂を丁寧に掻きだすのか、植物遷移の成り行きとみなすのか。
いまのわれわれには、名案も実行力もない。
右の高み(この写真では左手になる)は長年の森林の林床で柔らかい土である。石や熔岩塊はいっさい含まれていない。
その代わり、木の根が縦横に走っていてスコップの刃先が深く刺さらない。鋸を地面に差し込んでは引いてみる、の繰り返しである。表面10センチを切れば、それより深い場所に障害物はない。
ともかくできあがった。
土嚢を並べて枯れ木が置いてあるのは、排水路の縁を踏んづけて崩さないでほしいというおまじないである。
さてこの木製のダムと排水路は、水切りとして有効な働きをするだろうか。
村山でもこの部分は旧来の溝道は放棄して、高みに新しい通路を造ろうという意見もある。次に想像以上の豪雨がきてこのビーバーダムを、一気に押し流してしまうかも知れない。
しばらく様子をみることにしよう。
これまで見てきた標高500〜1000メートル、村山から天照教本社までに広がるの民有林の間伐には節度というものがあった。
なかには枝付きの丸太を村山古道に向けて切り倒すので、登山者が迂回を余儀なくされることもあった。切り落とした小枝を整理しないまま林内に放置するので、山中至るところにゴミの山ができ、これが窪地にたまる。大雨が降ればこれがダムになり決壊して鉄砲水になって暴れ沢となるということもあった。
しかしこれは現場監督の癖(作業センス)のようなものであって、傷は浅い。山全体・森林全体には、山を保全し森を育てようという山林地主・所有者の強い意思が貫かれていて、歩いていればそれを感じ取ることができる。
ところが天照教林道から富士山麓山の村までの間伐、西臼塚駐車場から東へずっと大淵林道沿いにつづく間伐の跡を眺めると、まるでガリバーが大きな犂(すき)で田圃の粗起こしをやったような感じがする。表土は雨のたびに垂れ流し放題である。
こういった森林管理についての思想の差はどこから出てくるのだろう。
こういうやり方を繰り返していると、村山の農家の人たちが心配するように、“山の形が変わる”のである。
《村山古道巡視 20年その2》(5月21日)でも触れたが、このあたりから上は数年前に間伐が終わっており、林床には枯れたスズタケに代わって草や灌木が下生えとして育ってきたので、表土の流出が収まってきた。これまで造ってきた水切りの多くが、埋まったり決壊したりということがなくなってきたのは喜ばしいことである。
次の写真(左)は、向こう側の右下から手前の右後ろに向かって使われていない古い作業道が通っており、向こう側左上からも作業道が下ってきて、ここで合流している。
事態がややこしくなるのは、ちょうどこのカメラマンの背後、左上から右下に向かって枯れ沢が下っていて、雨のときだけ水が流れ下るという地形を想起していただきたい。
しかも村山古道は、向こう右下から登ってきて背後の沢を左上に登っている。
しかもしかもである。写真には写っていないが右下の登山道を曲がったところに別の沢があって、登山道を流れ下った洪水が、登山道をどんどん掘り下げているので、いずれ迂回路が要るようになろうかという場所である。
左の写真に見える縦の仕切りは、左上からの雨水を登山道に流れ込まないように築いた水切り。白いものはPP製土嚢袋の残骸。つまり水漏れが起こっている。
状況説明は長引いたが作業は簡単。左の水路にたまった土砂を麻の土嚢袋に詰め込んでドカッドカッドカッと3俵置く。その間10分。写真右のように、左向こうからの泥水も左後ろからの沢水もまとまって、右下の沢に流れ落ちるようになる。
ここから20分も沢状の熔岩流むき出しの登山道を登ると、ロックフィル式の水切りがある(写真右)。ここは土砂が少なかったので、石や岩で水切りを造ったのである。
ここは右後ろから作業道が登ってきて小さな峠を越えて左向こうへと通っている(写真左)。登山道は、カメラマンの足元を右から左へと登っている。
ここは水切りとして十分機能は果たしているが、峠の頂上からごくわずかながら、雨水がこちらに逆流している痕跡が見られた。そこへ土嚢を2俵、これでおしまい(写真右)。
ここからさらに20分も登ると古い土の作業道になり、その上部で水平につけられた作業道と交差する。
ここも《村山古道巡視 20年その2》(5月21日)で紹介しように、4輪駆動のオフロード車が入り込んで遊ぶので、「対戦車用地雷埋設」という看板を出したい場所である。ところがいつの間にか、タイヤが削り込んだ轍に豪雨が流れ込んで洗掘が進んで深くなり、一抱えもある岩も露出してきた。
こうなるとよほどテクニシャンで、パワーのある車でないと通過できなくなったようである。ここは自然に任せよう。
さらにその上、天照教本社のすぐ下に、間伐あとから大量の雨水を流し込む沢ができて村山古道を洗堀するようになっていたが、これは数年前から登山道を横切る水路を造っておいた。
ただ残念ながら、白いPP製の土嚢が積んであると登山者誘惑を呼びおこすらしく、1年ももたず踏みつぶされてきた。そこで土嚢の上に丸太を寝かしておいたところ、あえて跨いで通ろうという人もいないらしく、土嚢の上に草ばかりでなくアジサイも生え始めて、補修しないでも済むようになった。
天照教本社前の天照教林道に、めずらしく大量の土砂が堆積していたことは前回にふれた。その原因の一つとして考えられるものに、村山古道からの土砂の流出がある。
数年前に村山古道両側の国有林で間伐が行われ、大量の表土が村山古道に流れ込む現象はすでに収まっている。のこる原因は富士山麓山の村方向からの土砂の流出である。
村山古道の傾斜が緩んで土の道になって、広場のような場所がある。ここは左(西)から右(東)に抜ける作業道跡である。ここには数年来土砂がたまりつづけて、はるか上流まで平らになってしまった。
左写真の倒木に沿って村山古道がある。倒木の下の白いものはPP製土嚢の残骸である。
登山道に雨水が流れ込まないように積んだものである。中央を登山道とは直角に踏み跡のように見えるところは排水路の跡である。でも1年と持たず、このようになる。
そこで今年は、旧作業道の中央部に登山道を横切る排水路をしっかり掘った。登山道には土嚢4俵を積んで塞いで、迂回路も造った。
さらに写真右のように、立木の右側にには土嚢6俵を並べた。雨が降るとこの低い部分に越流が発生して登山道に土砂が流ちるからである。
いずれの土嚢にも丸太を横たえてある。登山者が踏まないようにというおまじないである。
次に大淵林道の上、中宮八幡堂の下はとんでもないことになっていたので、解説は次回に譲り、女人堂跡から上の村山古道の説明をしておこう。
この辺りは不動沢熔岩流が流れこんだ一帯で、スコリア(土砂)はほとんどないので登山道が大きく洗掘される心配はほとんどない。
傾斜がきつくなると雨水の流れが急になって路面を削り、緩くなると土砂や落ち葉がたまってくる。スカイライン横道までの間に小さな水切りが2か所造ってあるので、排水路の掃除をしておいた。
いずれも左が掃除前、右が掃除後の写真である。
このあたりの登山道はこんな具合で問題ないのだが、スカイライン横道のすぐ下でとんでもない事態が進行していた。そのことは次の次でお知らせすることになる。
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前回は予想外の繁茂で手こずったアジサイなので、今回は手鎌ではなく、刈り払い機に出動してもらうことになった。
これは一般には草刈り機だと思われているが、紐を振り回すタイプではなく回転鋸式の機械は、使いようによってはチェンソーの代わりになる。
まずは足許のアジサイ刈りから始まる。
もちろん頭上に覆い被さっている大木に育っている大物は、ジワジワと回転鋸を刃を押し当てて根本から切り倒す。
それでも虎刈りになったり、硬い木が取り残されるので、手引き鋸と手鎌をもった仕上げ係が後ろからついていく。
ソーシャルディスタンス、訳して社会的距離。コロナ禍ですっかり社会に定着した概念であるが、こういう近代兵器を使っている人間には距離を置かなくてはならない。間違っても、オペレーターの視界から外れる後ろから近づいてはならない。
古典的な鉈や鎌を振るうときには、刃先がどこまでいくかを見極めて寸止めする。鉈や鎌の刃先を自分の膝に打ち込まないための基本動作である。
ところが時に力いっぱい払って刃先が横に流れることもある。刃物をもった人間や犬には、近づかないほうが無難である。
ともあれ前回は人力で難渋した作業はあっという間に終わった。
風の通らない藪の底での作業だから、あっという前に全身汗でびしょ濡れである。
これでもう、雨が降っていても傘を差せば、天照教まで濡れないで登れるようになった。
といえばちょっと言い過ぎだろうな。
しかしこれで本日はおしまい、ではない。こんどは地面に難物が残っている。
左の写真は一昨年6月に造った水切りである。古い作業道から流れ下った雨水が左の村山古道に流れこんで路面を削りはじめていたので、それを防ぐためである。
右の写真は昨年7月のもので、水切りはちゃんと機能していた。作業道は廃道になったものと思っていた。
ところが今年いってみるとトラックが走ったものと見えて、水切りは蹂躙されて見る影もない(左の写真)。白いものがところどころに残っているのは、PP製土嚢袋の残骸である。
トラックの轍は残っておらず、大量に流れこんだ水の量から推定して、去年の秋以降、今年5月以前のことだろうと見当はついた。ここは完全な廃道ではなく、数年に1度の巡回に使用されているらしい。
そこで作業道幅から外れた下側に土嚢を積んで登山道に雨水が流れこまないようにした(右の写真)。麻の土嚢5俵積むのに1時間15分かかった。
作業道部分の地面は衝き固めてあるのか、スコップでは刃が立たない。鶴嘴を打ち込むと大小さまざまな石が詰まっており、1打ちごとに頭蓋骨の周りから汗が噴きだし、気がつくと全身汗まみれ・泥まみれになっていた。
北井久保林道の上、札打場周辺の間伐材搬出作業はまだ終わっていないようだ。村山古道を横切るブル道には、真新しいキャタピラの痕が残っている。ほんの1〜2間前に登っていったようである。
札打場の上のブル道は作業が終わったようで新しい轍は残っていない。路面も、何回かの雨に打たれて安定してきたようである。ただしブルドーザーで路面を削って、村山古道に雨水を流しこむようにしつらえた水切りをつくり直すには、小型スコップ1丁では刃が立たない。
最後に天照教林道に上がってみた。いやに埃っぽいな、炎天下に土埃が立っている。
天照教林道、公式には広域基幹林道富士山麓線というのだが、道路の両側に側溝がない。“環境道路”だと聞いたことがある。
つまり山側に集まった雨水は、側溝がないので舗装された路面を越流するのだが、反対の谷側にも側溝がないので、路面にたまるか、溢れた水は谷側の斜面を自由奔放に流れ落ちる。
大雨が降ると谷まった部分に土石流となって集中し、土砂がたまって通行止めになったりする。今年の雨の降り方はしつこかったたようで、天照教林道の全域各所に土砂がたまる現象が起こったようだ。
村山古道が天照教林道を横切る場所は比較的に平坦地で、ふつうの雨なら、降っているときだけ浅い池になる程度なのだが、今年はめずらしく路面にかなりの土砂が残っている。
村山古道は天照教本社から100メートルほど西側の、桧林から道路わきの草むらにひょいと出てくる位置にある。例年ならば生い茂った草の間にかすかな踏み跡が残っているはずである。
左の写真は昨年の開山前の6月のもので、この凹みの部分の草を刈り取り、ドスドスと2〜3回踏み歩くと立派な出入り口になったものだ。ところが、今年はこの草がずうーと刈り込まれて、道路にたまった土砂が置かれているので入り口が分からない。
やむなく背丈ほどの草藪を掻き分けて適当なところから檜林に下り、林のなかで登山道を見つけて登り返すと、排土の山の所に出た。
ともかくゴミを拾ってきてマーキングとしておいた(右の写真)ので、下山する人は踏み跡にはこだわらず、ここからどうぞ。
駅々でドアが開くとクマゼミの声が聞こえてくるのだが、富士駅で乗り換えるとき、シャワシャワシャワシャワ、びっくりするほど騒がしい。
村山に着くと、ヤマユリの残り花が出迎えてくれた。
前回(7月6日)に草刈りをした登山口では踏み跡がしっかりついていて、地面が見える。少なからぬ登山者がここを通過していることがうかがえる。ギィギィギィギィギィと鳴いているのはハルゼミだろうか。
しかし東電の送電線を通り過ぎ、古い作業道を横切って溝状の村山古道に踏み込むと、ちょっと様子が違う。前夜の強雨で足許が洗われていることは分かるが、取り立てて路面が傷んでいるわけではない。何となく歩きにくい。
理由はすぐ分かった。道の両側に生えているアジサイが育ちすぎて、道に被さっているために路面が見づらいのである。
さっそく鎌の登場である。刃渡りは13センチとやや小振りだが、柄の長さが43センチもあって切り込むときにスピードが出る。
左が使用前、右が使用後の写真である。
アジサイの葉が顔にぶつかる、あるいは目線が地面に届かないというときに、遠くからすぱっと切り落とす。足許の低い位置に葉を広げて、その下の浮き石を隠しているというばあいには、横に払うか、ときにはしゃがんで枝先を束ねて切り捨てる。
そのうち、石が何段かに重なってカーブする場所に差しかかった。
これは上から振り返って見た写真である。登山者は右下から登ってきて手前に通り抜ける。
右手前のブッシュが曲者で、直径2センチ超の幹が5〜6本束になっているので鎌は通用しない。鋸の出番である。
向こう正面の立木は直径2〜3センチ。
アジサイを樹木に分類すべきか、草本のとみなすかむずかしいところだが、こちらは初めから鉈と鋸を使う。
もちろん左が使用前、右が使用後。これだけの作業に30分かかっている。
なおもちょこちょこ掃除しながら登っていくと、その先が札打場跡というところでアジサイ・ジャングルにぶつかった。
ここはちょうどこの上の間伐現場から雨水が流れこんで沢のようになっており、足許がギタギタの熔岩塊が剥き出しになった場所である。丸い蕾があるからタマアジサイらしい。
この写真も左が使用前、右が使用後。そして本日は突然、ここで作業は中止。
筋肉疲労のため、右腕が動かなくなったのである。
かえりは登山道ではなく、ぶらぶら林道下り。
標高が下がるとタマアジサイが咲いていた。どこにあのように強烈な生命力があるのだろう。
村山に近づくと、ウバユリの大群落があった。
カナカナカナカナカナ、カナカナカナカナカナカナ、ヒグラシの大合唱付きである。
帰宅して新聞を見ると、《気象庁は1日、関東甲信と東海地方が梅雨明けしたとみられると発表した。》(『朝日新聞』2020年8月1日付夕刊)。
もっと問題はここに描かれている高気圧は二つとも太平洋高気圧ではなく、大陸由来のものではないか。
レーダー画像を見よう。
この雨域の固まりは一過性のものかどうか。
1時間後の予想レーダー画像はどうなっているだろうか。
まずい! この雨雲集団はさっさと東に通過するどころか、勢力範囲を広げながら居座る可能性もある。
念のために天気分布予報はどうだ。
本州はすっぽり大陸からの寒気団に覆われていて、至るところでゲリラ豪雨が発生する可能性がある。
濡れても寒くはない時節ではあるが、びしょ濡れでタクシーに乗り込むと、運転手さんいやがるだろうなア。
本日の出撃は中止!!!
きょうも涼しいから富士山データベース造りの作業も捗ることであろう。
これをたとえば『静岡新聞・プリント製本版』と呼ぶことにしよう。
これは一見冊子のように見えるが、4ページとか8ページの単位で機械印刷されて製本したものではない。いわば1ページずつ表だけ刷って(コピーして)綴じたものなので、乱丁のスタイルが変わってくる。
たとえば『静岡新聞・プリント製本版』(Vol.20)には昭和22年9月7日付『静岡新聞』が保存されていて、第2面の上端に「古老も驚く精進湖の減水」という記事がある。
しかしこの記事は『静岡新聞・プリント製本版』の昭和22年9月7日付第1面と8日付第1面の間に綴じられていたものではない。ちなみに、戦争が終わって2年経っても新聞用紙はGHQの統制下におかれて夕刊は発行されておらず、朝刊だけ、それも1日分2ページしかなかった。
なんとこの記事は、22年8月21日付第1面と8月22日付第1面の間に収まっていたのである。なぜ月替わりの2週間以上も前に挟まっていたか経緯は分からない。
なぜこういう製本ミスが発生したのか追及のしようもないが、なぜこのような製本ミスが発覚したのか、有り体を言えばこうだ。
富士山関係の記事を探すときには日付など気にしないで、記事見出しに注意を払って紙面に目を走らせる。頭のなかのキーワード群が一つでも反応すると注視する。見出しだけで判定できないときは、本分中の地名などを探して判断する。記事の中身まで読み込んでいくことはほとんどない。付箋を挟む。そして次のページに移る。1冊終わりまで行ったときまとめてコピーを撮る。
大事なのはコピーを撮りっぱなしにしないことだ。
昔の新聞印刷のばあい、1ページごと組み上げられた大組みの枠外に位置する日付はぶつけられたり古い活字を抜いて流用したりするので、凹んだり歪んだりしていることがままあってきれいに印刷されないことが多い。
このばあいもご覧の通りで、「■和廿二年九■七日」と、判読できない文字がある。
もう一つ落とし穴がある。
このようなプリント製版本は紙面のいちばん上、つまり天の部分が綴じてある。このためにコピーするとき、ガラス面に原稿を押しつける力が弱いと、喉側がガラス面から浮いた状態になるので、大組みの枠外の日付部分がコピーされないことになる。
A3の上質紙で10センチ近い厚さになると、1冊で7キロを超える。
コピーしない側半分がべろーんとガラス面の外にはみ出すので、これを左手で支え、光の走査線がガラス面を通過するタイミングに合わせて、コピーする部分に置いた右腕に全体重を掛けるのだが、草臥れてくると浮いたりずれたりする。
だからコピーが終わったら必ず、日付や面数が判読できるかどうか確認しなくてはならない。
これはマイクロフィルムからプリントアウトするばあいも同じで、必ず1ページずつコピー面が読めるかどうか、日付は判読できるかどうか確認しておかないと、あとで出典として使い物にならなくなる事態が起きる(経験者だから語る)。
というわけで、この「精進湖の減水」記事をチェックしたときも、前後のページをめくって日付を確認したのだが、エッ! 9月7日らしいがなぜ8月21日の所に挟まっているんだ。
念のためにと確かめてみると、8月21日付第2面の記事は、9月7日の第2面の位置に収まっているではないか。
これは単純な入れ替えだから簡単だが、なぜこういうミスを犯したのかを論理的に説明することはむずかしい。
いっそのこと、三つ巴四つ巴に挟み間違えていたら、複雑なゲームになるかもしれない。
ところが明治時代になって金属活字とより大きな西洋紙の製紙技術が輸入されると、1枚の紙に8ページとか16ページ裏表印刷して、折り曲げて製本するようになる。
ここでまたさっきの『日本アルプス』に戻ってみよう。
横から見ると、おやおやこの本は小口と地が裁断(化粧裁ち)してない。
もちろん製本として未完成品ではない。フランス装といって、ペーパーナイフで1ページずつ切り開きながら読んでいくというのが、当時の上流階級の人々の特権意識をくすぐったらしい。
ここで注目していただきたいのは、本文が16ページ単位で印刷されていることが誰の目にもはっきり分かることである。
ただこうなると印刷面を左右に並べて刷るというわけにはいかない。
1ページの裏に2ページが来て、その向かいに3ページが来てその裏は4ページ……これを頭の中でイメージできる人はいないだろうが、長方形の紙を3回折り曲げて、ノンブル(ページ数)を書きこんでみれば簡単である。
つぎのように印刷面を並べることを面付けという。並べ方のほかに天地の向きにもご注意ください。
もちろん印刷現場の職人さんはこの数字の並び方を暗記しいる人が多い。
これを刷り上げて3回折り曲げれば1折り16ページが完成することになる。
本を壊さないと見ることはできないが、『日本アルプス』のばあいでも。第1ページと第16ページの山折りになった峰には、『群書類従』の2ページものと同じような背丁が印刷されているはずである。
ふつうこの面付けミスで乱丁が起こるのだが、これまでみてきた『富士の人穴雙紙』にしろ『中道往還』にしろ、ノンブル(ページ数)通りの正しい面付けであるのに文章が通じなくなっている。
たぶん単なるノンブルの打ち間違いが原因であろう。
したがってなぜそうなったか、論理的な解明はできないだろう。乱丁ではなく乱調というべきだろう。
]]> この絵の描かれた30年ほど前の資料には次のように書かれている。
《役ノ行者堂ハ浅間社ノ西ニアリ本尊ハ役ノ行者八代郡右左口(うばくち)村ノ七覚山円楽寺兼帯ス……毎歳六七月円楽寺ヨリ僧侶来リテ修法アリ》(『甲斐国志』文化11=1814年成立)
よし、円楽寺から吉田口二合目・行者堂までのルートを探ってみよう。山梨県のNPO富士山ふるさと研究会の面々と、夢のような話がまとまったは6年前。それからの試行錯誤については、2019年12月19日にアップしたブログ《思いもよらぬ歴史的発見》に触れてある。
その出発点が中道往還、今日でいう甲府市の南端・右左口町である。
《甲州より駿州への通路三條あり、その中間なる故に中道といふ。》(『東八代郡誌』大正3=1914年)
まずは基礎文献として『中道往還』(山梨県歴史の道調査報告第3集、山梨県教育委員会文化課編、山梨県教育委員会発行、昭和59年)を読む。しかしこの報告書は途中から、どうにも文章が繋がらないところが出てくる。
ノンブル(ページ)を見るとちゃんと並んでいる。
しかし、36ページの末尾から37ページ冒頭に文章がうまく繋がらない。
37ページの末尾から38ページ冒頭にも繋がらない。
38ページの末尾から39ページの冒頭には繋がっているようだ。
39ページの末尾から40ページの冒頭も繋がっているようだ。
40ページの末尾から41ページの冒頭には繋がらない。
抜き出してみると次のようになる。
この乱れているのは巻末の注の部分だから文章の流れが悪くて分かりにくい。注の番号の助けを借りて並べなおしてみよう。
36ページはそのままで、
38ページを37ページにする。
39ページを38ページにする。
40ページを39ページにする。
そして37ページを40ページにする。
すると、40ページから41ページはスムーズに繋がる。
これでめでたく繋がった。
ではなぜこのような混乱が起きるのであろうか。
足許に段差があり、大小さまざまの石が散らばって草葉に隠されてしまうと、地下足袋で地面の様子を探りながらでないと歩けない。
下るときには、ドスンと落とし穴に落ちても、身体を鉛直に立てたまま倒れないようにしないと怪我をする。
そこで刈り払い機が登場する。
刈り払い機で粗々に草や灌木を薙ぎ切り、岩の隙間に隠れている草やシダ類は、手鎌でほじくるように切り取る。ともかく足許の凹凸が見えるようにするのである。
これで一雨降り日が差してくれると路面がはっきり見えるようになる。登山者が歩いてくれれば土が固まって踏み跡になる。
この朝、紀伊半島沖にあった雨雲集団が発達してきて、岳南でも昼前から雨になった。
先に《念のために》と書いたのは、午後はばあいによっては、中宮八幡堂下の抉られ続けている村山古道に土嚢積みをしようかとも考えたのであるが(ブログ《村山古道巡視 20年その3》参照)、雨のなかでの土嚢造りはどろんこ遊びにしかならない。結果として土木作業用具はそのまま持ち帰ることになった。
コロナ感染ではなく白内障手術のためである。2泊3日で脱出できたが、禁酒1週間・登山禁止1か月という保釈条件が付けられた。
小池東京都知事の倫理観や職業差別意識を滲ませたような場所に出入りしないわたしは、これまで日常生活にさほどの制約は感じなかったが、これからはしばらくは来し方を振り返ってみようかと思う。まず最初のテーマは「乱丁」。
《らんちょう ‥チヤウ【乱丁】書物のページの順序が綴じ違っていること。「−本」→丁(ちよう)5》(『広辞苑 第四版』新村出編、岩波書店、1991年発行)
先日、ムラヤマフジコチャンから『富士の人穴雙紙』(富士市立中央図書館編・発行、平成20年)を読んでいて文章が繋がらない個所があるという連絡があった(Amebaブログ(「一人、“地下鉄の地上を歩く会”」のうち、2020年5月15〜16日の《富士の人穴雙紙1〜2》参照)。
人穴というのは富士山西麓にある奥行き90メートルに及ぶ熔岩洞窟で、戦国時代末期に、藤原角行が修行して富士講を開いたといわれる聖地である。
時代はさかのぼって鎌倉幕府2代将軍・源頼家は和田平太に人穴探検を命じるが、穴の外に追い返されてしまう。そこで応募した仁田四郎が、知力と胆力でもって穴に入り込み、地獄巡り・極楽巡りをするという仏教説話である。
ウム、ツンドク本はわが家にもある。開いてみると、たしかに通じない。
《さねば、鬼共が申しけるは、
「かほどに罪深き者共をさように御待ちあらんには、いつ迄待ち申すべし。》(96?末尾)
《「如何に、仁田承れ。善根をするとて、心に染まぬ者が鼻に釘を打たるるなり。また、男の善根いたす女房が腹を立ち『無益』などと言う、そ……》(97?冒頭)
《くとして鮮やかなり。花の輪、四方の梢を並べ、異香薫じて面白き事、言葉にも延べがたし。
「佛のつぼを見せん。」》(97?末尾)
《受け取り申さん。」
と声々に申す。》(98?冒頭)
《と申せども叶わず。作りし罪の報いなれば地獄へこそ落とされけり。
大菩薩聞し召し、》(98?末尾)
《とて、阿弥陀のつぼ・釈迦の住処・薬師の住処・勢至の住処・地蔵の住処とて、仏の住ませ給う所をいちいちに拝ませ給いけり。》(99?冒頭)
でもこのパズルは簡単である。
97ページの次に99ページを読み、そのあと98ページを読めば、あっさり99ページに繋がっていく。
98ページと99ページを裏返しにして製本しなおせばいいのである。
山樂カレッジではそろそろ活動再開を視野に入れます。
各地の登山情報を集め、筋トレ・スタミナづくりを始めました。
笹垢離に流れこむ雨水を防ぐ水切りは成功していない。六地蔵の残り3体ほか相当の遺物が眠っているはずで、発掘調査が行われるまではなんとか守りたいものである。
大倒木帯はハンノキ、ナナカマド、トドマツなどが先陣を切ったがどうやらカラマツの幼木を中心に若い森林帯に遷移しているらしい。しかし基本的にはまだ禿げ山である。丸まった地形の割には登山道に雨水が集まって水路になりかかっているところが多い。
日沢にはことしも雪崩が発生しなかったようだ。
つぎの写真は2007年5月のスラッシュ雪崩の直後のものである。
砕かれた木々の根や枝のほか、大量の土砂が流れこんで堆積していることがお分かりであろう。
日沢は春先の雪崩で埋まり、春先からの雨で谷底が削られて秋にはV字谷になってきた歴史があるが、ここ数年雪崩が発生していない。つまりV字谷の底が一年中削られて熔岩流が露出するようになってきた。
左は2016年6月12日、右は2017年5月23日の横渡の、左岸からみた写真である。地元の登山家からの報告によれば、17年3月にあの大きな岩組みが流されたらしい。右岸に残された丸太の位置から、横渡に何が起こったか推定してただきたい。
ことしの横渡は去年とほとんど変わらない。
雨に叩かれた踏み跡から考えて、おそらく1週間以内に1人の登山者が左のザレ場を登ったと思われる。右から回り込んでモミの幼木の上側を抜けるるルートが去年造ってあって健在である。
おわりに。
ことしの村山古道にとくに危険な損壊場所はなかった。登山道の路面も全体的には安定してきているという印象である。去年秋の風台風による新しい風倒木はほとんどんなかった。その代わり雨量はかなりあったようで、何か所か路面が荒れて歩きにくい所もできている。
距離があるから雨脚が強いときにはたいへんな水量になるだろう。
この排水孔の位置がスコリア地帯であれば何とかなるのだが、苔蒸した熔岩流地帯であり、貴重な遺跡のすぐ上であるということが、問題をむずかしくしている。