第9回聖護院・富士山峰入り修行グラビア特集 追記

 峰入り修行2日目の早朝、標高1000メートルの天照教本社前まで朝食を出前してくださった「花月」の、日ごろからの研鑽ぶりをうかがわせる記事が『日本経済新聞』に掲載されました。

 

《白い身のニジマス、静岡・富士宮市の名物に(現場から地方創生)

「セ氏18度以下の水で育つニジマスにとって12〜14度のこの場所は最適」と岩本いづみ社長。2キログラム以上に育った大型のニジマスは「富士山サーモン」のブランドで氷をつめた箱に入れて、その日のうちに東京・豊洲市場に運ばれる。

 淡水で育つニジマスはかつて食用として広く流通したが、日本人の食生活が変わって加工しやすい海水魚などに押され、近年の出荷量はピークの1980年代半ばの10分の1以下に減った。現在はキャンプ場で焼き魚として食べるのが一般的で夏の消費が中心だ。
 ただ、海水魚の漁獲高は天候に左右されやすいうえに、近年は中国など海外の和食ブームで価格は上昇傾向にある。柿島養鱒は年間を通じて安定供給できるニジマスの販路拡大に力を入れ、東京の持ち帰りすし店などに売り込んできた。
 柿島養鱒はさらに、200〜300グラムの小型のマスを「ホワイト富士山サーモン」として地元富士宮市の名物にしたいと考えている。大型のマスに比べ食べやすいサイズで、「世界中でここしか食べられない"白身"のサーモン」がキャッチフレーズだ。
 富士宮市の日本料理店「花月」はホワイト富士山サーモンを使った「にじます定食」(2000円)が人気だ。同店の岩見安博さんは「味が淡泊でクセがなく、どんな料理にも合う」と語る。養殖なので寄生虫がおらず、刺し身はヒラメやタイに似た食感だ。煮付けやフライも食べやすい。

 ただ、富士宮市内でニジマスを食べられる店は一部に限られている。ニジマスを売っている魚屋は地元にはほとんどないという。
 ニジマスを富士宮市の観光の目玉にしようという動きは以前からあった。2008年に設立した「富士宮にじます学会」は富士宮市が国内一のニジマスの生産地であることをPRする「鱒コットガール」を設けるなど普及に努めてきた。

 小型で食べやすい「ホワイト富士山サーモン」を普及させるべく、にじます学会は旅館向けに試食会を開くなど後押ししている。学会長で富士宮観光協会会長の小川登志子さんは「富士宮を訪れる人がいつでもニジマスを食べられるようになってほしい」と願う。
 岩本社長は昨今の異常気象や魚価の上昇で、富士宮市のニジマスを売り込むチャンスが再び到来したとみている。ご当地グルメの全国的なブランドになった「富士宮やきそば」のような存在になれるのか。新たな挑戦が始まった。(静岡支局長 原田洋)》  (2019/9/24 15:11 日本経済新聞 電子版  南関東・静岡)

 

 花月では柿島養鱒内に専用の生け簀を設けて、各種料理に使い分けている。お近くをお通りの節は、ぜひお立ち寄りください。

 

第9回 聖護院・富士山峯入り修行グラビア特集 その3

 第9回 聖護院・富士山峯入り修行3日目は、8月20日4時30分に宝永山荘を出発。

 

 南の空に崖のように立ちはだかっていた黒雲は消えた。

 


 5時10分、ご来光。きょうは好天が期待できる。

 


 気になるのは頂上に被さる巨大な笠雲、そうとう強い西風が吹いているようだぞ!

 

 
 朝日に伸びるわれわれの人陰。

 

 下界は好天のしるし、雲海が広がってきた。

 

 標高3000メートルの元祖七合目で冷たい水のお接待、勤行のあとで朝食。

 

 標高3000メートルを超えるとさすがに風がいちだんと強くなってくる。

 

 荒神岩で勤行。

 

 九合五勺胸突山荘。あらかじめ荷揚げしておいた柱源(はしらもと)護摩供の法具を受け取りいよいよ山頂へ。

 

 山頂・浅間大社奥宮で勤行。

 

 笠雲のまっただなか、山頂・奥宮の鳥居前で記念撮影。

 

 しかし、廃仏毀釈の寄せ墓地前は風が強すぎて火が使えないので柱源護摩供は断念。

 

 八合目赤岩館で昼食を摂ってさらにくだり、砂走館の岩陰をお借りしてやっと柱源護摩供をおこなう。

 

 風は相変わらず収まらず、宝永山をぐるっと回り込んだ風下の御殿場側に雲ができては消える。

 左の宝永第1火口に下れば、ゴールの宝永山荘は間もなくである。
 (このブログ作成にあたって、石田芳久・鈴木翔大・土田純子・土屋四郎各氏の画像をお借りしました。ありがとうございました。)
                *        *         *
 今年の聖護院門跡・富士山峯入り修行も、多くの方のご努力・ご協力を得てぶじに終わりました。深く感謝いたします。
 来年は第10回目となりますので、日程を1日延ばして、富士山の反対側、須山から御殿場に下山しようという構想で予備調査を始めました。
 かつての村山修験の峯入り修行は、閉山後の7月22日(旧暦)に村山から入山して山中で苦行を重ねて8月3日に須山に下り、さらに御殿場・裾野・長泉・三島・沼津を回って全行程22日間、吉原を経て村山に帰ったといわれております。
 今日われわれの聖護院富士山峯入り修行はその一部を切り取った行程ですが、第10回記念としてこれをもう少し延長しようという考えです。
 最後におこなわれた村山修験峯入りは、日中戦争と重なる昭和12年ごろではなかったかといわれています。

 したがってこれが実現すればおそらく、御厨(みくりや)の地では80数年ぶりに「法印さん」がお山から下ってくることになるはずです。
 これからも多くの方にご協力をいただくことをお願いすると同時に、大いにご期待ください。

第9回 聖護院・富士山峯入り修行グラビア特集 その2

 聖護院・富士山峯入り修行2日目は、8月19日は4時40分、興法寺大日堂前を出発。

 空は晴れているが、戸外の物干しに乾しておいた略浄衣は汗で濡れたまま。着るとひんやり気持ちがいい。

 

 札打場で勤行。その昔、修験者や道者が名刺代わりの碑伝(ひで)を置いて勤行した場所だという。

 

 今年はちょうど創志150年を迎える伊勢神宮の分社・天照教に8時到着、まずは本殿で勤行。

 

 

 そのあと天照教入り口での朝食は、富士宮の和食料理「花月」からの出前。ふだんは口にできない鰻など豪勢な食事となる。

 


 中宮八幡堂で勤行。もと馬返し、女人禁制の時代は女人結界でもあった。雨が降りはじめたが霧雨で、間もなくやむ。

 


 台湾から飛来するという大型蝶アサギマダラがコウモリソウに吸蜜している。雲が広がっているためきょうは乱舞はみられそうにない。
 


 いつ崩壊するか分からない岩屋不動で勤行。村山大日道に安置されている雲切不動童子像はもとはここに鎮座していたといわれる。

 


 緩い巻き道コースを登ろうとして藪蛇。じゃなくて藪漕ぎ、やっと辿り着いた一ノ木戸で一休み、勤行。ここは戦国時代から村山古道最大の行場があったとされる。
 

 この日は標高差2000メートルを14時間30分かけて新六合目・宝永山荘に到着。淡路島は勝樂寺・森大誠住職から差し入れの般若湯で疲れを癒やす。

 

第9回 聖護院・富士山峯入り修行グラビア特集 その1

 第9回聖護院・富士山峯入り修行は、2019年(令和元年)8月18日(日)〜21日(火)に行われました。



 17日の前泊組は、吉原駅前のビジネスホテル菊川で、大女将はじめ皆さんの温かいおもてなし・見送りを受けて、18日7時30分に出発。皆さん、地下足袋が真っ白です。



 当日参加者も含めて午前8時、毘沙門天妙法寺の門前の宿・立場旅館(休業中)に集合、本山修験宗総本山聖護院門跡先達・草分俊顕師の挨拶を受けて出発。まだこのときは、これから待ち受ける猛暑の気配はなかった。



 まずは海抜0メートル、鈴川海岸に出て水垢離。台風10号の余波で、天気晴朗なれど波高し、足をとられる修験者も続出。



 『岳南朝日』(2019年8月21日付)でも紹介。この写真では、皆さん海水浴を楽しんでいるようにも見える。

 しかし事実は、YouTube土屋四郎「聖護院門跡 富士山峰入修行」を覧ください。

 吹き出したいところは、ぐっと堪えてくださいね。



 富士塚の上にのぼって勤行。関東一円に残っている富士塚は、登ると富士登山と同じご利益があるとされたが、ここは唯一、富士登山の出発点としての富士塚である。



 鈴川区管理員会の人たち大勢が待ち受けてくださり、先達・草分師による跨ぎお加持。
 往時の村山修験峯入り修行では、修行を終えた法印を村山から馬を差し向けて迎えたという故事にちなみ、先達は馬で旧東海道を進む(YouTube土屋四郎「聖護院門跡 富士山峰入修行(お馬さん)」参照)。

 


 左富士神社には鈴ではなく鰐口が掛かっている。勤行のあいだに向こうでは、依田橋町内会の方が、冷たい飲み物のお接待を準備してくださっている。



  岳南鉄道吉原本町駅前・松栄堂薬局では近隣の人が集まってこられて勤行とお接待、お加持。

 


 もともと村山の富士山興法寺大日堂と兄弟関係にあった富士山興法寺東泉院は、明治の廃仏毀釈で日吉浅間神社となった。六所芳和宮司によるお祓いのあと勤行とお加持、そのあと社務所を借りての昼食は、村山大鏡坊の末・おふくろ亭の弁当。

 


 『富士ニュース』(2019年8月22日付)は第1面ぜんぶを使って紹介してくれた。

 

 旧吉原宿の西端れ西見付跡でお馬さんとはお別れ、枡屋酒店からも冷たいお茶のお接待をいただく。

 


  広見公園に着いたのは午後2時40分、みんな茹で上がっている。

 


 気象庁アメダスの記録によれば、富士市のこの日13:00〜15:00の日照時間は2時間、つまりカンカン照り。気温は13:00で31・4℃、14:00で31・5℃。
 富士市のアメダス観測所は、ちょうどこの広見公園の西1キロ辺りにあるらしい。だからアメダス記録とわれわれ実体験の気温にそれほどの乖離があるとは思えないのに、どうしてこんなに蒸し暑かったのだろう。
 ここはまだ標高100メートルで村山は500メートル、距離は20キロの半分しか来ていないのだが、この先コンビニはない。

 


 穴原の釈迦堂で勤行。

 

 もと千貫松が生えていたといわれる佐野板金屋さんで、恒例の西瓜のお接待。一行は蘇生の思い。

 


  樒畑のあいだをただひたすら歩く。この辺り水田は一枚もない。農家の多くは植林用の杉・檜の苗を育てたり、仏壇用の樒を栽培している。

 


 

      銀杏畑の大杉家庭先では花月からかき氷・ゴーヤジュースなどお接待。

 


 ロケット花火で歓迎を受けて次郎長町・金森家に着いた。ビールの一滴もなめていないのに茹で蛸。

 

  次郎長町の盛大なお接待。テントの下にテーブルと椅子、ポカリスエット、西瓜やメロンが山盛り。


 次郎長町では老若男女ざっと40人がお加持を受ける。

 


 八大金剛童子で勤行のあとは、全員荷物をクルマに預けて午後6時10出発。ペースを落とし、ノンストップで村山までちょうど1時間。

 


  吉原を出発して11時間、やっと村山大日堂に着いた。

 

 おりしも大日堂では月例の読経会が終わったあと皆さん待機していてくださって、いっしょに到着の勤行。
 村山ジャンボでの夕食は午後8時から、アルバイトの学生さんを帰宅させますから、9時までに入浴を済ませてください。

村山古道補修 補足2 強力助っ人の登場

 前回、8月3日に村山古道をくだったとき、ふわふわの砂地に雨水は流れないが、硬く固められた地面ではちょっとした雨が大きな流れになって路面を掘り下げる現象について説明した。
「次にもう1回夕立でも来れば、V字溝の左に残っている川岸部分が崩壊して、ここは通行不能になってしまう可能性がある。」
 太平洋高気圧が強まるままに熱界雷で雷雨が発生するか、あるいは夏型気圧配置が緩んで台風が接近でもすればひとたまりもない。土嚢積みを急がなくてはならない。
 ところが8月5日夕刻、京都は聖護院から荷物が届いた。
 中身は、8月20日、富士山峯入り修行の一行が、富士山頂でおこなう柱源(はしらもと)護摩供につかう法具である〔このホームページの「富士山峯入り修行」の写真参照〕。
 背負子に括り付けてあって、ちょうど10キロある。
 これをあらかじめ、九合五勺の胸突山荘まで荷揚げしておかなくてはならない。
 ちょっと調べてみよう。
  2015年8月18日は、身延線の踏切事故で電車が遅れて富士宮駅前発9:05のバスに乗り、新六合の宝永山荘を出発したのが11:33になったが、胸突山荘まで登り3時間57分、下り1時間32分で、新五合目発18:00の下りバスに間に合っている。
 2016年8月10日は、富士宮駅前8:30発のバスに乗り、宝永山荘から胸突山荘まで登り4時間03分、下り1時間27分で、やはり18:00の下りバスで下っている。
 2017年8月14日は、富士宮駅前8:30発のバスに乗り、宝永山荘から胸突山荘まで登り4時間32分下り1時間55分かかっているが、宝永山荘のゴミを新五合目まで降ろしたので、山荘のクルマで富士宮駅まで送ってもらっている。
 2018年8月5日は、富士宮駅前8:10発のバスに乗り、膝を痛めたので生まれて初めて両ストック。宝永山荘から胸突山荘まで登り5時間04分、下り2時間34分で、新五合目発19:00の最終バスになってしまった。
 それぞれ満年齢が72歳・73歳・74歳・75歳のときの記録である。
 1年ごとに衰えてきていて、76歳の今年はもはや日帰りではできないかもしれない、1泊2日という日程がとれるだろうか。
 寝苦しい一夜を輾転反側、8月6日未明、夢枕に役行者さまが立たれておっしゃった。
「独りでやろうと思うな、助っ人を頼め!」
 朝になってSOSメールを発信したところ、午後になって土屋四郎氏から返事が来た。
「あすなら休暇がとれる」
「終わったらついでに、村山まで下ってもらえないだろうか」
 聖護院の富士山峯入り修行隊の先頭に翻る幟を、村山から借り出す必要があったのである。
 話はトントン拍子で進み、村山古道に切り残しの倒木があるだろうということから〔このブログ《2019年5月、村山古道の現況》参照〕、村山からは急遽チェンソー隊が出ることになったのである。
  2019年8月7日は8:00に水ケ塚公園に集合、村山チェンソー隊は高鉢駐車場から岩屋不動脇道に向かい、土屋氏は宝永山荘から九合五勺まで荷揚げに向かった。


 わたくし土嚢隊は10:50には横渡下の現場に着いていた。
 ここでいちおう現場のおさらいをしておこう。
 樹林帯から日沢(にっざわ)左岸に下る登山道は、浮き石がちょっと気にはなるが、しっかり踏み固められている。


 その続きも、溝がちょっと深くなってはいるが、問題はないように見える。


 ところがその下はどうか。


 去年までの踏み跡は、抉られて落ち込んだ先の斜面の位置についていた。

 今年の5月は中央を一直線を歩いていた。

 ところが前回はもう一歩山側に踏み跡が移動していた。

 この次に一雨くれば、登山道全体がひとたまりもないであろう。
 ここで私は作業手順の誤算に気づく。

 土嚢に詰める土砂は谷底にいくらである、と思っていた。土嚢の素材は捨てるほどあるのだが、10キロ以上もある土嚢を抱えてこの斜面をのぼるのことは不可能である。
 幸い左の山側に疎らな草地の斜面があり、礫のほとんどない素直な土砂が採取できた。 

 それでも炎天下、休み休み作業して5俵つくるのに30分かかった。小型の片手スコップだから能率は上がらない。

 水を飲んで日陰で10分休んでまた土嚢づくり。
  初め土嚢を下の土台がしっかりした所から積み上げようと思ったが、それでは土嚢が圧倒的に足りない。上からだ。

 上の崩れはじめた部分から順番に土嚢を押し込んで、ともかく新しく路面が掘り下げられるのを防ごう。


 とりあえず10俵押し込んだのが、この写真。

 本当は、離れて2俵置いてあるところまでびっしり詰め込みたいのだが、すでに土嚢袋がない、体力がない、やる気がない。
 ゆっくりだらだら昼食を摂って下りていくと、ちょうど岩屋不動入り口でチェンソー隊とぶつかった。
 去年9月の台風で発生した倒木はあらかた片づけたという。
 ここはちょうど古い木馬道を登山道が横切っている場所で、この下の急傾斜をえぐり取る雨水の水源池のようなところである。
 岩屋不動方向から木馬道を伝ってくる雨水は、村山古道に流れこむ手前に水切りを掘って左下に流れこむように仕向ける。

 笹垢離方向から登山道を伝ってくる大量の雨水は、登山道から右下の木馬道に流れこむように、深さ30センチ幅50センチの水路を掘り込む。幸い鶴嘴があるのであっという間に終わる。


 少々の雨なら、これで防げるだろう。

 

 笹垢離から下ではヒヨドリバナは開き、アサギマダラが翔びはじめていた。チェンソー隊の話では、岩屋不動脇道の南東斜面の日だまりでは、20〜30頭の蝶が乱舞していたという。


 このあと土嚢隊とチェンソー隊は武装解除して水ケ塚公園まで下り、そこへ荷揚げ隊も合流して本日の作業はすべておしまい。

 もちろん修行隊の幟はチェンソー隊が揚げてくれていた。
 これで18日(日)に田子の浦・鈴川海岸をスタートする富士山峯入り修行の一隊が登ってくるのを待つばかりとなった。

村山古道補修 補足 硬い地面ほど浸食される?

 前回の《村山古道補修5 浸食ますます広がる》の終わりのほうに、次のように書いた。
「これで一応今年の、夏山シーズンに向けての応急補修は終わりである。」
 意味するところは、これからオフシーズンを含めて、息長く補修作業を続けなくてはならないな、という長期の予感であった。
 ところが8月3日、新六合目の宝永山荘に行く用件ができたので、ついでに村山古道を下ってみた。梅雨明けのあと初の土曜日ということもあって、かなりの賑わいである。登山道脇にはクルマユリ、グンナイフウロ、ベニバナイチヤクソウなど原色の花も目立ってきた。


 初めのうち登山道にはなんの問題もなかった。高度が下がるに従ってモミの若い葉が足許が見えないほど茂ってくるので、鎌先でチョイチョイと葉先を刎ねながら下っていく。

 新しい倒木はない。2人、1人、2人、4人と小集団の登山者が登ってくる。
 横渡も、皆さん新しいルートを踏み固めて登ってくれているようで、足場が固まってきた。だが3か月前とはちょっと違う、どこが違うのだろう。
 次の写真は5月12日撮影のものである。


 さらに次の写真は8月3日の撮影である。


 いちばん目立つ違いは、根本を洗われて倒れた右岸のカラマツであろう。枯れたのではなく、生きていて新緑を着けている。
 次に気になるのは横たわっている丸太である。5月には岸の上に横たわっていたのに、8月には片方が川底に落ちて立ち上がっている。
 注目すべきは、川底に初めから横たわっている短い丸太である。

 この3か月間、動いた形跡はない。

 つまり河床に水は流れていないはずなのに、落ちた丸太がもともとあった場所を見てほしい。
 同じ雨が降っても、河床では流れないで地面に吸い込まれ、川岸では水流が地面を抉って丸太を押し流してしまった、と推測できる。
 さてこの横渡から5分も下ったところで、樹林帯の中にある登山道が日沢の左岸に飛び出すところがある。


 この写真の中央部が日沢で、向かって右側を斜めに下っているのが登山道である。
 しっかり踏み固められているように見えるであろう。

 ところがそのすぐ下の登山道の中央にはV字渓谷が刻まれていたのである。


 3か月まえどころか、7月20日にここを通過したときには真っ平らで、このような溝が掘り込まれるとは思いもよらぬことであった。
 固められた登山道の表面で水流となり、太くなった水の流れが路面を掘り下げたのではないか。何回も降った雨ではなく、おそらく1回の驟雨であろう。
 だとすれば、次にもう1回夕立でも来れば、V字溝の左に残っている川岸部分が崩壊して、ここは通行不能になってしまう可能性がある。
 わたしの見積もりでは、日沢の河床から登山道の高さまで、V字溝のなかに土嚢をびっしり積み上げていけば、いまならまだこれ以上の掘り下げを食い止めることができるのではないか。

 必要な土嚢は10俵以上。

 

 このあとこの日はお花畑を下りながら2か所水切りを新しく造り、最後の仕事が笹垢離の防御。
 前回造った水切りは、笹垢離跡から流れ出る雨水が下の登山道を流れて路面を荒らすので、その水量を減らす目的であった。笹垢離に流れこむ雨水を防ぐことはできない。
 困ったことはこの一帯、大小の瓦礫が堆積しているので土砂がほとんどない。
 前回は小型のスコップしかなかったので、地面に刃が立たない。

 コチョコチョとスコップの刃先を瓦礫の間に押し込んでいっても、縦横に地下を走っている木の根にぶつかるとスコップは進まなくなる。
 今回は鶴嘴が威力を発揮する。
 前回の排水路は貧弱だったので、ガッシガッシと鶴嘴のピック、クチバシのほうを打ち込む。


 小石は逃げてくれるし、大きな石にがちっとぶち当たれば梃子の原理で浮き上がらせる。

 細い木の根は無抵抗に切れるし、太い根はプレートを打ち込めば一発でブツッ。
 昔取った杵柄ならぬ、さんざん練習したピッケル操作がこんなところで役に立つ。
 ここで集めたわずかの土砂を土嚢袋2つの底に分けて入れ、大部分は登山道に散らばっている小石でいっぱいにして、笹垢離から登る登山口のすぐ上に並べて置き、近くに落ちている熔岩の固まりを上に置いて、一種のダムを造る。


 登山道を塞ぐ形にはなるが、この部分の登山道は凹んだところを通っているので、これ以外には雨水の流入を防ぐ方法はないのである。
 登山者のみなさんには迂回して登ってほしい。

 

 村山古道のヒヨドリバナはまだ蕾の状態で、蝶は飛んでいなかった。
 スカイライン縦道の旧料金所近くまで下った道端にはキジョランの大群落があって花を着けており、アサギマダラの死骸が1つ落ちていた。

村山古道補修5 浸食ますます広がる

 三島では愛鷹も富士も裾まで雲に隠れていたが、富士駅で乗り換えると愛鷹全山が見えるようになり、富士根駅からは富士山全山が姿を現した。西臼塚駐車場にクルマを停めて、富士宮五合目行きのバスに乗る。

 新五合目に着くと、富士山頂は見えるが、雨はしっかりと降っているし、西風がかなり強い。トイレがきれいな洋式なった。
 新六合・宝永山荘に寄って挨拶、ザレ場を下るとコケモモが満開である。この10年ばかり、その下につづくカラマツ・ダケカンバの樹林帯を下に向かってコケモモの分布が広がっていたが、一面に白い花が着いているのを見たのは初めてである。おまけにベニバナイチヤクソウが可憐な花を咲かせていた。
 このところの雨の降り方は異常なのであろう、路面に水流の痕が延々と続いている。地面はカラマツの腐葉土で、幸い下の火山灰層までは抉られていない。簡単な水切りだけで登山道は保持できるだろう。


 雨もあがってきたようだ、横渡で昼飯にするか、というところで驚いた。
《標高2000メートルの横渡は、去年に比べて河床が下がり、崖面がさらに後退していた。……足場を踏み固めたりすると傷口がさらに広がるだけなので、しばらく浸食の方向を見守って形が落ち着くのを待つほかなかろう。》
 さきに《2019年5月、村山古道の現況》でこのように書いたのは今シーズンは持つだろうと思ったためであるが、その足場が見事に崩れていたのである。


  ほんの数人がここに踏み込んだだけであろう。
 人工の物か自然の造形か分からないが、もともと横渡は大きな岩組みであった。


 この写真は2016年6月12日、右岸から写したもので、登山者は左岸を登ってきて、とろとろと日沢(にっさわ)を渡って富士市から富士宮市に入る。
  横渡はいつごろから利用されたものであろうか。宗教施設ではないためか宗教関係の古記録には出てこないのだが、わたしの知る限りでは、大正期に発行されたと思われる活版刷りの村山古道案内に次の一文がある。
《笹垢離ヨリ横渡マデ 三丁 日沢ヲ横越スル所ニシテ上ハ遥ニ頂上ヲ眺メ下ハ足下ニ駿河湾ヲ望ム・森林帯中眺望絶好ノ処》(県社浅間神社々務所発行、村山浅間神社蔵)
  計算の根拠はあやふやで、反論されたら即引っ込めざるをえないが、この大正時代の前、数百年の歴史をもっていると考えていいのではないか。
 わたしが横渡の地形的特殊性に気づいたのは2007年春のことである。
 この年3月末に富士宮口で大規模なスラッシュ雪崩が発生した。
《雪崩は標高2700メートル前後で発生。4本の流れがスカイラインを串刺しするように14力所で寸断した。》(asahi.comMYTOWN静岡、2007年4月6日付)
 当然のことながらスカイラインには厳しい通行規制が敷かれたはずであるが、村山古道はノーマーク、5月になって登ってみた。

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 数百メートルにわたって日沢全体が土砂で埋まり、へし折りぶち切られた丸太が両岸に散らばり重なっていたが、横渡の岩組みは無事に残っていた。
 次の写真は雪崩の5年後のものである。


 写真では分かりにくいが、右上の端っこに露岩がある。沢底の熔岩層が地表に現れている部分である。かつてここにイワカガミの咲いているのを見たことがある。
 ところがスラッシュ雪崩はこの露岩を直撃したらしい。巨大な雪崩の固まりはここで左右に分散して両岸にはね飛ばされる。その名残が左上に重なって横たわっている丸太である。つまり、横渡は雪崩の通り道の真ん中にありながら、雪崩の直撃を受けない日陰にあったのである。
 土砂で埋め尽くされた日沢は、その後雨水で洗われ、1年かけてV字谷に戻っていく。
 ところがその後、日沢には雪崩が発生しなくなり、その代わりにしょっちゅう集中豪雨に見舞われるようになる。雪崩による土砂の供給がなくなり、一年中雨水が流れて河床を掘り下げるとどうなるか。


 2016年6月の写真では、横渡の岩組みの下が大きく抉られて、かなり不安定になっていることが分かる。そして今度は雪崩ではなく、春先の豪雨が雪を溶かして土石流が発生。17年5月には、横渡が根こそぎ流されてしまった。


 このときには先に述べたすぐ上流の熔岩流で徒渉する迂回路を造ったのであるが、次の年には、徒渉地点の両岸が土石流に削られて崖になってしまった。その代わりに横渡の元の河床が埋まって楽に通れるようになった。


 というわけで、今年5月にはこの写真のように元々の場所を通過してもらおうと考えたのであるが、もくろみは見事に外れてしまった。どうしよう。


 左に見える踏み跡は17年に造って1年で廃道にした迂回路であるから、右岸・左岸ともザラザラ崩れてしまうだろう。下流はと見渡したが100mの先までV字形がさらに深くなっていて、難しい。では正面ブッシュの中央突破をしよう。


 これなら、右岸の上り下りもさほど問題ないだろう。新ルートが出来上がったところにちょうど、クラブツーリズムの大部隊が登ってきた。さっそく渡り初めをお願いする。


  このあとは上部お花畑が切れて樹林帯に下るところ。坂道が急になって路面の荒れが酷くなっているので麻土嚢3俵で水切りを新設。
 今回のもう一つの難題が笹垢離跡である。笹垢離の平坦地に大量の雨水が流れ込み、ここでさらに増量されて入り口から流れ出しているのである。


 ここは火山灰の少ない火山礫だから丈夫だろうといって油断はできない。手前の凹みが一雨でV字形に掘り下げられないという保証はない。
 1993年発行の富士宮市の調査報告書ではここに不動明王石像1体と地蔵尊2体が報告されている。ところが1996年9月の台風17号で一面のシラビソ林が全滅し、そのときもう1体の地蔵尊が地中から現れている。これは6地蔵だからあと3体は埋まっているはずの遺跡である。行政当局が無関心だからといって放っておくわけにもいかない。
 とりあえずは土嚢3俵を並べて水切りを新設した。

 麻土嚢の中身は、登山道の下のほうから拾ってきた小石である。岩礫と枯れ木が並べてあるのは、「土嚢を踏まないで!」という登山者に対する意思表示である。
 これで笹垢離から下の登山道の浸食は食い止められるはずだが、上から笹垢離の平坦地に流れこんでくる雨水を防いだわけではない。改めて地形を精査して雨水を西の斜面に逃がす方策を考えなくてはならないだろう。
 このあとは岩屋不動跡に寄って、注意喚起の札を提げる。「このさき極めて危険です。岩屋不動参拝はここから。」
            *       *       *
 これで一応今年の、夏山シーズンに向けての応急補修は終わりである。
 多くの人が村山古道を楽しんでくれるようになってひじょうに嬉しい。

 ボランティアですかと訊かれることがあるが、それは違う。こういうふうに身体を動かすのが楽しいのである。

 今後とも登山者のみなさんの支持と協力をいただいて、村山古道を守り、育てていきたいと思う。

村山古道補修4 草刈りと倒木の切り刻み

 梅雨の時季、オホーツク高気圧から右回りに吹き出す冷たい海風をヤマセという。

 福島県飯舘村の人は、ヤマセと聞くと冷害や飢饉を思い出して身震いする感じがある。

 30年ほどまえに藤沢市の地名調査を手伝ったときの印象では、ヤマセを実体験として感じている農家の人は半々だった。

 富士山に出向くようになって20年になるが、駿河の人にはヤマセを恐れるという感覚はないようだ。
 しかし朝起きて気象庁のレーダー・ナウキャスト画像を見るとまさにヤマセ。千葉県南部から富士山までの広域は、海から吹き付ける東の風で発生した雨雲に覆われている。

 とはいえ、きょうの相棒は全天候型も年季の入った土屋四郎氏。ためらう理由はどこにもないので予定通り6:00出発。
 東名高速を、丹沢山塊を正面に見ていると雲底が上がっているようでにも見えたが、御殿場市街地ではワイパーが必要になった。十里木を越えて富士山南麓線(国道469号)に入ると雨は上がり、村山に着くと路面は濡れていない。刈り払い機を借りて8時40分、六辻に着く。
 前回お伝えしたように、7月7日は村山古道を下ってきて、送電線を潜って間もなく、ことしは誰一人通過していないじゃないかという草むらにぶつかった。


 草を押し分けて登山道の終点から振り返ると、どこが村山古道の入り口かすら分からないほどの草茫々だった。


 今回、7月16日現場に着くと、入り口から50メートルほどは草刈りがしてあるが、傾斜がつく所から放置。誰が何のために草刈りしたのだろう。
 ともあれ今回は、土屋氏が入り口から刈り残しを処理しながら刈り込みに入る。


 さっきまで雨が降っていたのだろうか、地面も草もびしょ濡れである。私は露岩部分に先行して、岩の隙間のアジサイを抜いたり、シダ類や細い草を手鎌で刈り取ったりして小1時間。
 露岩部分はこの通り。


 草の葉が乱雑に散らばっているが、いったん日が差せばしおれて地面が見えてくる。
 そして村山古道入り口部分はこの通り。


 みなさんどうぞ、お通りください。
 それにしても刈り払い機の威力はすごい。手鎌でしこしこやっていたら、何度も鎌研ぎ時間が入って昼飯食ってということになるが、身体の負荷もも少なく、あっと言う間に終わった。
 あとは燃料も残っているし行きがけの駄賃である。砂利道の下から送電線の上まで下草刈りと頭上に被さる灌木を伐採、ずいぶん明るくなった。
 六道坂並びの旧登山道の上部出口、蔓草の絡まる斜面も草刈りしておく。


 これはおまけのようなものだ。
 雨のこないうちにと、村山案内所前のベンチで昼食。食後はクルマで天照教まで上がる。ここ標高1000メートルの地ではハナミズキの花終わり、オカトラノオの大群落が咲きはじめている。


 ここからは、鋸だけもって下り、午後1時20分に現場到着。


 こんな蔓の絡みは大したことではない。生の蔓は鋸を当てるとなんの抵抗もなく、豆腐を切るようなものである。このばあいは両側の2か所、つまり6本の蔓を切ればいいのであっという間に終わる。
 主役は10年物のヒノキ4本。


 ふつうはそれぞれ中程を切り離せば、丸太がドサリドサリと落ちておしまいなのだが、今回はそうはいかない。


 直径5センチ超のフジに絡みつかれて倒れ、ヒノキの枝がサンショウなどの灌木を抱き込んでいるので押しても引いても、ふにゃふにゃ動くけれど外れない。まずはヒノキの枝を1本ずつ切り落として、絡んでいる蔓も切り落として、さらに巻き添えになった灌木を引き離して行くほかない。


 雨こそ降っていないが樹皮も葉っぱもびしょ濡れ。なぜか粘土のような泥が手のひらにくっついていて、鋸をひく手がぬるぬると滑る。ともかくも刻んだ枝は1本ずつ斜面の上の方に立てかけ、さらに次の枝を切り落として絡んでいる蔓を切り離しという作業の繰り返しになる。                       
 ついに地面が見えてくる。
 最後に、むき出しになって中空に横たわっている10メートルの丸太を鋸で真っ二つに切断するのだが、息が切れるので途中で交代。ようやくドサッ、「終わった!」。


 切断する場所は、引っかかり具合を計算して、自重で落ちてくれる場所を選ぶのだが、この目測を誤ると、丸太が落ちてくれない。そのときには反対側をもう1回切り離さなくてはならない。チェンソーなら2回目も3回でもいいが、手引き鋸では一発で決めなくてはならない。
 やれやれ終わった。村山古道だから、ちったあワイルドさも残しておかなくてはいけないな、ということにして本日の作業は終了。
 意気揚々と凱旋喇叭ならぬ法螺貝を吹きながら引き揚げる。土屋氏の法螺の音もずいぶん上達してきたと私の耳には聞こえるのだが、ご本人には最後の高音部が気にくわないらしい。ともあれクマさんは絶対に近づいてはこない。
 3時前に天照教を出発。東名はまだ込んでおらず5時前に帰宅。
 気がつくと、ズボンだけでなくシャツもチョッキも泥だらけ。これで電車に乗ったら白眼視されただろうなと思いながらまず外側を洗濯機に放り込んで水洗い、そのあとでやっと本洗い。
 地下足袋はとりあえずバケツに水を張って放り込んでおいて翌朝、どろどろの水で地下足袋が見えないほどであった。

村山古道補修3  強風と高温の置きみやげ

 7月7日4時起床、小雨。

 気象庁のレーダー・ナウキャスト画像を見ると、東海地方全域に小さな雨雲の固まりが散らばっていて、これじゃ降るのか降らないのか分からないが、きょうは全天候行動可能な私1人だから問題はない。

 ともかく前回の反省から、気になるところもできるだけ見ないようにして、村山まで下ろうと決意して富士宮に向かった。
 9時00分富士宮駅前発のバス、新富士駅から乗ってきた先客は欧米系の外国人8人。9時53分西臼塚駐車場着。下車したのはもちろん私1人、手を振って外人さんたちを見送る。

 富士山頂は見えないが雨の気配はない。富士山南限のフジアザミが1株、今年も元気よく育ってきた。


 大淵林道に入るとキジョランの葉に虫食い穴2つ、アサギマダラが1頭。待て待てと声をかけたが聞く耳は持たぬ、カメラのスイッチを入れる前にどこかへ飛び立った。
 村山古道はこの辺り平坦な凹みなので、雨水で路面が削られるということも少ない。


 しかし1キロ近く下ると水量も増えてくるので浸食は進む。古い作業道が右から合流するところに麻の土嚢を8俵積んだ。


 日が差してきて汗びっしょり。ほんとうは左下に窪地があるので、そこまで水路を掘ろうとしたのであるが、決意を思い出して途中で切り上げた。
 馬頭観世音に近づくと通路が2筋あることに気づく人も多いだろう。私の推定では、左(東側)の低い凹みが本来の登山道で、右(西側)の高台を通っているは丸太搬送用の木馬道(きうまみち)跡であろう。

 村山古道再発見当時は下の道を歩いていたが、倒木が通路を塞いだり、雨水が流れて浮き石が増えてきて、みんな高台を歩くようになった。元登山道はいまやとても歩けるものではない。
  その凹み道の雨水に、さらに左(東)から雨水が合流する場所がある。
 集まった水流の威力をご覧に入れよう。


 6月30日に襲った豪雨の生々しい傷痕であろうか、流木が水流を妨げると岸を抉り取る。


 立木が倒れ込んで通行の邪魔になる。


 先ほどの土嚢を積んだ辺りに比べて、浮き石が少なく歩きやすいのが救いではあるが、次の豪雨で何が起こるか、登山道がどのように変遷していくか、想像すらできない。
  吉原林道から下は比較的平坦地であるため、簡単な水切りですんでいるが、天照教林道に近づくにつれて路面が荒れている。左右に雨水の逃がし場所がないので、麻土嚢で頑丈なダムを造るほかないかもしれない。
 6月16日におこなった天照教から北井久保林道の間の水切りはしっかり機能していた。
 天照教のすぐ下の水切りの水路には、左下のほうに新しい傾斜が刻まれていた。


 北井久保林道すぐ上のブル道跡も、決壊堤防はびくともしておらず、水路もしっかり機能していた。


 問題はその中間の曲がりくねった急坂部分の風倒木。


 6月30日の前線通過時の吹き降りで発生したものだろうか。この蔓はちょいちょいと切れば難なく通過できるが、すぐ下の倒木群はちょっと手強い。


 この写真は臨時に造られていた迂回路の上から登山道を覗いたものである。お友達同士仲良く倒れて複雑な構造をしている。これはまず、左に向いて倒れている3本の枝をぜんぶ切り落として、そのあとで幹を切り刻むほかないだろう。
 チェンソーがあれば簡単だが、手引き鋸で処理するとなると息が切れそうだ。決意に従って見ぬふりをして通り抜ける。
 標高850メートル、札打場まで下がってくるとガクアジサイの繁茂がすごいことになっている。両側から頭上に覆い被さっているばかりでなく、足許に生えてきた1〜2年生の幼樹がやっかいだ。ごつごつした熔岩流の足場が見えない。位置が低いから鉈・鎌で切るわけにはいかず、1本ずつ引き抜くほかない。


 この写真はかつての登山道が洪水時に激流の流路になり、スコリアのぼろぼろの崖になった場所である。アジサイの葉の部分まで踏み込むと、ガラガラ落石の音がする。体重をかければ踏み抜いて崩れ落ちてしまうだろう。
 ここではまず、繁茂したガクアジサイを切り取って崖下が見えるようにしておいて、「↓ぼろ↓ぼろの オーバーハング」と書いた札を提げる。


  村山古道再発見当初、全盲の人がここを下りて、いまは暗くて見えない左手の滝を登って通過していったとは、信じられないような話である。
  腕がくたびれてきた。いちいち丁寧にガクアジサイを払うことはできない。ここから下は、顔にぶつかる枝葉だけを重点的に切り倒しながら下る。そのかわり以前は、雨水に洗われて荒れていた足許は、ひじょうに安定してきた。
 送電線の下を潜ると、もう村山も近い。と安心するのはまだ早かったようだ。
 登山道を横切っている砂利敷きの作業道の先が草茫々で人が歩いた痕跡がない。


 きょうは登山客3人と行き違ったが、彼らはどこを通ったのだ。
  初めは膝下までの草が、しだいに胸の高さまでになり、左の山から岩が崩れ落ちて足場がガタガタの急坂にかかると背丈を超える草で何も見えなくなる。
 幸い登山靴ではなく地下足袋である。何も見えなくとも、足探りで段差を確かめながら下ることができる。
 草払いは足場のとくに悪いところだけ、台湾剥げ状に刈り取り、最後の平坦地ではススキだけ切り捨てる。

 やわな草は左手で逃げないよう束ねておかないと切れない。アジサイなど年輪のある木は、刃に重みがある鉈でないと切り倒せない。その点ススキは、手を添えないで根元に鎌を当てて引くだけで切り倒せる。ザクッザクッ。
 午後4時10分、ようやく六辻の林道に出ることができた。


 登山道は左の砂利道ではなく、ススキの向こうを左に回り込んで、ヒノキの並木の向こうを通っているなどと、慣れない登山者には想像もできないだろう。
 4月29日には無意識に通り抜けた草道が、2か月後には通過困難なジャングルになっていたのである。

 村山古道が初めて山道に差し掛かる入り口が、これじゃまずい。早急に手を打たなくてはなるまい。

村山古道補修2 あえなく挫折

 先週に続いて6月22日(土)も村山古道に入った。

 目標はスカイライン横道、標高1350メートルから標高500メートルの村山まで下って、登山道に被さるように伸びてきた草木の掃除、とりわけ旺盛な繁殖力をみせるガクアジアイの枝払いが中心になるはずであった。

 そのほか土嚢の補修とか傷んだ案内プレートの付け替えなどの準備もしていった。
 西臼塚駐車場でバスを降りると、雨に濡れたサンショウバラの花が盛りを過ぎていた。例年より1週間ぐらい花期が早いような気がする。


 そのほかの春の花はすっかり終わったようで、フタリシズカの小さな花くらいしか目につかない。
 村山古道に入ったところは、不動沢熔岩流が尾根状に地表を流れた場所なので、大きな水流は発生しない。
 ただしスカイラインを村山古道が横切る20メートル上側(東側)に、スカイライン側溝を流れる雨水の落とし口がある。

 そこから大量の土砂が熔岩流の上に流れ込んでコケの絨毯に達し、さらに六観音跡まで埋める危険性が出てきたので、17年7月に、土嚢を積んでスカイラインから吐き出す水流の向きを変えておいた。それが功を奏したのか、土砂の流出は進んでいないようである。
 それでも近年の異常気象のせいか、登山道にはかなりの雨水が流れ込むようだ。
 次の写真のずっと向こうまで転がっている熔岩塊は、周辺から登山道に落ちてきたものではない。雨水が路面を削って浮き出たものである。 


 ここには、雨水を右に流し落とす水切りを造っておいたが、埋まったので用をなさなくなっている。水路を掘り出して下流側の土手に積んで、ハイ5分。


 こういう水切りの補修を5か所、11:15には中宮八幡堂に着いた。

 行程は順調であるが、雨がポツリポツリ降りはじめたので傘をさす。
 ここからしばらく、大淵林道までは土の登山道で歩きやすいゆるい下りである。であったというべきか、いまや路面が雨水で掘り下げられて、快適とはいえなくなっている。
  5月19日に上梓した「2019年5月、村山古道の現況」には次のように書いておいた。
《中宮八幡堂から下の登山道には土砂の流入が激しくなっているようだ。かつて見渡す限り地面を覆っていた、背丈を超える熊笹がぜんぶ枯れてしまった。笹の保水力が影響しているかもしれない。
 大淵林道との中間にある土嚢ダムは1年で満杯になってしまう。土砂が流れ込む場所を特定して阻止できなければ、あと1〜2カ所土嚢ダムを造ったほうがいいだろう。》

 登山道の荒れ方をいま改めて考えてみると、笹枯れが主原因ではなく、村山古道の右側(西側)斜面の間伐の影響が決定的のようである。
 そこは30年モノの檜の植林地で、これまで一度も枝打ちされたことがなく、鬱蒼としていた。

 それがこの1〜2年の間に、間伐が進められてきたので、明るくなったのはいいのだが、林床には裸地が広がることになった。そこから大量の雨水と土砂が村山古道に流れ込むようになったのである。
 しかも1〜2か所の特定の場所から流れ込むのではない。
 村山古道のこの部分の西側全域が東向きの緩い斜面になっており、どこからでもお構いなく流れ込むようになっているようだ。
 中間に造っておいた土嚢ダムに着いた。


 ダムは完全に埋まり、越流した雨水と土砂が自由気儘に、ダムサイトの下流まで掘り下げはじめているようだ。
 次の写真は2017年の5月28日の同じ場所である。


 これはいかんと、応急処置として土嚢を5俵積んでおいた。


 それが2年後には、先の写真のようにまったく無力化していたのである。
 おりから雨脚が強まってきたので、どうしようか。
 ともかく土嚢袋が何枚かザックにあるはずだと、びしょ濡れになりながら土嚢を11俵積んだ。


 これまでは中央部に登山者用通路を開けておいたが、雨水の通路にもなるので今回は封鎖。この写真は下から見たもので、上に載せてある枯れ木はここを踏むなという意思表示である。
 さて予定外の時間を費やしてしまった、急がねば。雲行きはどうだろうとスマホを見ると、「圏外です」。
 村山古道の、天照教林道と中宮八幡堂の間は、ちょっと傾斜が緩んでいるので、地上からの電波が届きにくい死角である。気象状況はつかめない。

 ここから屋根のある場所というと富士山麓山の村か西臼塚駐車場ということになる。
 というわけでこの日は西臼塚駐車場の東屋で遅い昼食を摂ることになり、村山まで掃除しながら下ろうという目論見はもろくも崩れたのであった、
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 今回の土嚢ダムのすぐ下を、間伐のときの作業道が横切っている。


 登山道に対して丸太や枝葉で塞いであるのは、立ち入り禁止だという意思表示かもしれない。

 しかし間伐作業の現場監督に、村山古道への雨水の流入を防ごうという善意が微塵でもあったとしたら、お笑いである。
 まったく役に立たない。数年と経たないうちに、ゴミ山の下にくっきりと溝ができるだろう。
  ここをこのまま放置すれば、路面の浸食が地下の熔岩層にまで進むこともありうる。すなわち村山古道のすぐ東を流れる日沢(にっさわ)の河床のレベルまで抉り取られることになり、川底が登山道になる。
 ただし運が良ければ、間伐跡の裸地に日光が当たり、地中に眠っている草木の種が目を覚ましてくれるかもしれない。草や灌木が密生してくれば、地表水の流れをコントロールしてくれるだろう。
 しかし時間稼ぎをして自然の回復力の手助けをするのも、無意味ではあるまい。

 日を改めてのことになるが、土嚢ダムを、1〜2か所といわず3〜4か所でも造って、土砂の流出を防ぐことにしよう。埋まれば補修する。
 登山道を維持するというのはそういうことである。