村山古道補修 20年その4 刈り払い機出動

  2020年8月8日、村山から見る富士山には妖気が漂っている。きょうは雨の代わりに火が降るだろうと。

 前回は予想外の繁茂で手こずったアジサイなので、今回は手鎌ではなく、刈り払い機に出動してもらうことになった。

 これは一般には草刈り機だと思われているが、紐を振り回すタイプではなく回転鋸式の機械は、使いようによってはチェンソーの代わりになる。
 まずは足許のアジサイ刈りから始まる。

 もちろん頭上に覆い被さっている大木に育っている大物は、ジワジワと回転鋸を刃を押し当てて根本から切り倒す。
  それでも虎刈りになったり、硬い木が取り残されるので、手引き鋸と手鎌をもった仕上げ係が後ろからついていく。

 ソーシャルディスタンス、訳して社会的距離。コロナ禍ですっかり社会に定着した概念であるが、こういう近代兵器を使っている人間には距離を置かなくてはならない。間違っても、オペレーターの視界から外れる後ろから近づいてはならない。

 古典的な鉈や鎌を振るうときには、刃先がどこまでいくかを見極めて寸止めする。鉈や鎌の刃先を自分の膝に打ち込まないための基本動作である。

 ところが時に力いっぱい払って刃先が横に流れることもある。刃物をもった人間や犬には、近づかないほうが無難である。
 ともあれ前回は人力で難渋した作業はあっという間に終わった。

 風の通らない藪の底での作業だから、あっという前に全身汗でびしょ濡れである。
 これでもう、雨が降っていても傘を差せば、天照教まで濡れないで登れるようになった。

 といえばちょっと言い過ぎだろうな。

 

 しかしこれで本日はおしまい、ではない。こんどは地面に難物が残っている。

 左の写真は一昨年6月に造った水切りである。古い作業道から流れ下った雨水が左の村山古道に流れこんで路面を削りはじめていたので、それを防ぐためである。
 右の写真は昨年7月のもので、水切りはちゃんと機能していた。作業道は廃道になったものと思っていた。

 ところが今年いってみるとトラックが走ったものと見えて、水切りは蹂躙されて見る影もない(左の写真)。白いものがところどころに残っているのは、PP製土嚢袋の残骸である。
 トラックの轍は残っておらず、大量に流れこんだ水の量から推定して、去年の秋以降、今年5月以前のことだろうと見当はついた。ここは完全な廃道ではなく、数年に1度の巡回に使用されているらしい。
 そこで作業道幅から外れた下側に土嚢を積んで登山道に雨水が流れこまないようにした(右の写真)。麻の土嚢5俵積むのに1時間15分かかった。
 作業道部分の地面は衝き固めてあるのか、スコップでは刃が立たない。鶴嘴を打ち込むと大小さまざまな石が詰まっており、1打ちごとに頭蓋骨の周りから汗が噴きだし、気がつくと全身汗まみれ・泥まみれになっていた。

 

 北井久保林道の上、札打場周辺の間伐材搬出作業はまだ終わっていないようだ。村山古道を横切るブル道には、真新しいキャタピラの痕が残っている。ほんの1〜2間前に登っていったようである。

 札打場の上のブル道は作業が終わったようで新しい轍は残っていない。路面も、何回かの雨に打たれて安定してきたようである。ただしブルドーザーで路面を削って、村山古道に雨水を流しこむようにしつらえた水切りをつくり直すには、小型スコップ1丁では刃が立たない。

 

 最後に天照教林道に上がってみた。いやに埃っぽいな、炎天下に土埃が立っている。
 天照教林道、公式には広域基幹林道富士山麓線というのだが、道路の両側に側溝がない。“環境道路”だと聞いたことがある。
 つまり山側に集まった雨水は、側溝がないので舗装された路面を越流するのだが、反対の谷側にも側溝がないので、路面にたまるか、溢れた水は谷側の斜面を自由奔放に流れ落ちる。

 大雨が降ると谷まった部分に土石流となって集中し、土砂がたまって通行止めになったりする。今年の雨の降り方はしつこかったたようで、天照教林道の全域各所に土砂がたまる現象が起こったようだ。
 村山古道が天照教林道を横切る場所は比較的に平坦地で、ふつうの雨なら、降っているときだけ浅い池になる程度なのだが、今年はめずらしく路面にかなりの土砂が残っている。
 村山古道は天照教本社から100メートルほど西側の、桧林から道路わきの草むらにひょいと出てくる位置にある。例年ならば生い茂った草の間にかすかな踏み跡が残っているはずである。

 左の写真は昨年の開山前の6月のもので、この凹みの部分の草を刈り取り、ドスドスと2〜3回踏み歩くと立派な出入り口になったものだ。ところが、今年はこの草がずうーと刈り込まれて、道路にたまった土砂が置かれているので入り口が分からない。
 やむなく背丈ほどの草藪を掻き分けて適当なところから檜林に下り、林のなかで登山道を見つけて登り返すと、排土の山の所に出た。
 ともかくゴミを拾ってきてマーキングとしておいた(右の写真)ので、下山する人は踏み跡にはこだわらず、ここからどうぞ。

村山古道補修 20年その3 藪払い出撃

 一昨日7月31日の朝はすっかり出掛ける準備をして断念したのであるが、昨8月1日は、気象庁狼少年村の煮え切らないご託宣を押し切って出撃した。
 といってもじつは家を出たときは予報通り小雨が降っていた。

 電車の窓から丹沢の山は雨雲に隠れてまったく見えない。根府川駅からは東の果て、水平線が見えるのだが、厚い雲に遮られて太陽の位置は分からない。
 しかし丹那トンネルを抜けると青空が広がり、強い日光が窓から差し込んできた。富士山は積雲に囲まれている。

 駅々でドアが開くとクマゼミの声が聞こえてくるのだが、富士駅で乗り換えるとき、シャワシャワシャワシャワ、びっくりするほど騒がしい。
 村山に着くと、ヤマユリの残り花が出迎えてくれた。

 前回(7月6日)に草刈りをした登山口では踏み跡がしっかりついていて、地面が見える。少なからぬ登山者がここを通過していることがうかがえる。ギィギィギィギィギィと鳴いているのはハルゼミだろうか。

 
 しかし東電の送電線を通り過ぎ、古い作業道を横切って溝状の村山古道に踏み込むと、ちょっと様子が違う。前夜の強雨で足許が洗われていることは分かるが、取り立てて路面が傷んでいるわけではない。何となく歩きにくい。
 理由はすぐ分かった。道の両側に生えているアジサイが育ちすぎて、道に被さっているために路面が見づらいのである。
 さっそく鎌の登場である。刃渡りは13センチとやや小振りだが、柄の長さが43センチもあって切り込むときにスピードが出る。

 左が使用前、右が使用後の写真である。
 アジサイの葉が顔にぶつかる、あるいは目線が地面に届かないというときに、遠くからすぱっと切り落とす。足許の低い位置に葉を広げて、その下の浮き石を隠しているというばあいには、横に払うか、ときにはしゃがんで枝先を束ねて切り捨てる。
 そのうち、石が何段かに重なってカーブする場所に差しかかった。

 これは上から振り返って見た写真である。登山者は右下から登ってきて手前に通り抜ける。
 右手前のブッシュが曲者で、直径2センチ超の幹が5〜6本束になっているので鎌は通用しない。鋸の出番である。

 向こう正面の立木は直径2〜3センチ。
 アジサイを樹木に分類すべきか、草本のとみなすかむずかしいところだが、こちらは初めから鉈と鋸を使う。
 もちろん左が使用前、右が使用後。これだけの作業に30分かかっている。
 なおもちょこちょこ掃除しながら登っていくと、その先が札打場跡というところでアジサイ・ジャングルにぶつかった。

 ここはちょうどこの上の間伐現場から雨水が流れこんで沢のようになっており、足許がギタギタの熔岩塊が剥き出しになった場所である。丸い蕾があるからタマアジサイらしい。
 この写真も左が使用前、右が使用後。そして本日は突然、ここで作業は中止。
 筋肉疲労のため、右腕が動かなくなったのである。
 かえりは登山道ではなく、ぶらぶら林道下り。
 標高が下がるとタマアジサイが咲いていた。どこにあのように強烈な生命力があるのだろう。

 村山に近づくと、ウバユリの大群落があった。

 カナカナカナカナカナ、カナカナカナカナカナカナ、ヒグラシの大合唱付きである。

 帰宅して新聞を見ると、《気象庁は1日、関東甲信と東海地方が梅雨明けしたとみられると発表した。》(『朝日新聞』2020年8月1日付夕刊)。

村山古道補修 20年その2 藪払い出撃中止

 7月5日、村山古道入り口の草刈りをした(2020.07.06《村山古道補修 20年その1》)帰りに札打場に寄ってみた。一帯の間伐材搬出作業がどのていど進んでいるか観察するためである。
 北井久保林道から札打場までの登山道は流水で洗われてガタガタの沢底のようになり、札打場から上は流れてきた土砂が溜まって泥沼の様相を見せはじめていた。それより驚いたのは登山道沿いの藪の繁殖ぶりである。暖冬と頻繁に降る雨のためであろう。覆い被さっているガクアジサイなど払っておかないと登山道が見えなくなってしまうのではないか。
 先週月曜日、7月20日から青春18きっぷが使えるようになったので、鎌を研いで出発準備を始めたのだが、まれにみる長雨で出足を挫かれていた。気象庁狼少年村のご託宣によれば梅雨明けは8月に入るのではないかということである。
 しかし予想天気図によれば、31日きょうは、岳南地方は梅雨明け型の気圧配置になるのではないかと期待を持たせてくれた。
 4:00起床、パソコンを立ち上げる。
 7月31日03時の現況天気図を見る。

 小型ではあるが、鯨の尻尾型の高気圧が西日本にせり出してきた。気になるのは本州の東の海上にある高気圧の存在、ヤマセが吹き出すのではないか。

 もっと問題はここに描かれている高気圧は二つとも太平洋高気圧ではなく、大陸由来のものではないか。
 レーダー画像を見よう。

 この雨域の固まりは一過性のものかどうか。
 1時間後の予想レーダー画像はどうなっているだろうか。

 まずい! この雨雲集団はさっさと東に通過するどころか、勢力範囲を広げながら居座る可能性もある。
  念のために天気分布予報はどうだ。

 本州はすっぽり大陸からの寒気団に覆われていて、至るところでゲリラ豪雨が発生する可能性がある。
 濡れても寒くはない時節ではあるが、びしょ濡れでタクシーに乗り込むと、運転手さんいやがるだろうなア。
 本日の出撃は中止!!!
 きょうも涼しいから富士山データベース造りの作業も捗ることであろう。

乱丁 その5 『静岡新聞』の記事入れ替え

 SHIZUOKAKENRITSUCHUUOUTOSHOKANREKISHIBUNKAJYOUHOUSENTAー、しずおかけんりつちゅうおうとしょかんれきしぶんかじょうほうせんたー、ポンと変換してもまだ長い、静岡県立中央図書館歴史文化情報センターには、明治以降、静岡県内で発行された各種新聞が保存されている。といっても原紙ではなく、マイクロフィルムからA3サイズに出力したものを縢り(かがり)綴じクロス装したものである。頑丈である。

 これをたとえば『静岡新聞・プリント製本版』と呼ぶことにしよう。
 これは一見冊子のように見えるが、4ページとか8ページの単位で機械印刷されて製本したものではない。いわば1ページずつ表だけ刷って(コピーして)綴じたものなので、乱丁のスタイルが変わってくる。
 たとえば『静岡新聞・プリント製本版』(Vol.20)には昭和22年9月7日付『静岡新聞』が保存されていて、第2面の上端に「古老も驚く精進湖の減水」という記事がある。

 しかしこの記事は『静岡新聞・プリント製本版』の昭和22年9月7日付第1面と8日付第1面の間に綴じられていたものではない。ちなみに、戦争が終わって2年経っても新聞用紙はGHQの統制下におかれて夕刊は発行されておらず、朝刊だけ、それも1日分2ページしかなかった。
 なんとこの記事は、22年8月21日付第1面と8月22日付第1面の間に収まっていたのである。なぜ月替わりの2週間以上も前に挟まっていたか経緯は分からない。

 なぜこういう製本ミスが発生したのか追及のしようもないが、なぜこのような製本ミスが発覚したのか、有り体を言えばこうだ。
 富士山関係の記事を探すときには日付など気にしないで、記事見出しに注意を払って紙面に目を走らせる。頭のなかのキーワード群が一つでも反応すると注視する。見出しだけで判定できないときは、本分中の地名などを探して判断する。記事の中身まで読み込んでいくことはほとんどない。付箋を挟む。そして次のページに移る。1冊終わりまで行ったときまとめてコピーを撮る。
 大事なのはコピーを撮りっぱなしにしないことだ。
 昔の新聞印刷のばあい、1ページごと組み上げられた大組みの枠外に位置する日付はぶつけられたり古い活字を抜いて流用したりするので、凹んだり歪んだりしていることがままあってきれいに印刷されないことが多い。

 このばあいもご覧の通りで、「■和廿二年九■七日」と、判読できない文字がある。
 もう一つ落とし穴がある。
 このようなプリント製版本は紙面のいちばん上、つまり天の部分が綴じてある。このためにコピーするとき、ガラス面に原稿を押しつける力が弱いと、喉側がガラス面から浮いた状態になるので、大組みの枠外の日付部分がコピーされないことになる。

 A3の上質紙で10センチ近い厚さになると、1冊で7キロを超える。
 コピーしない側半分がべろーんとガラス面の外にはみ出すので、これを左手で支え、光の走査線がガラス面を通過するタイミングに合わせて、コピーする部分に置いた右腕に全体重を掛けるのだが、草臥れてくると浮いたりずれたりする。
 だからコピーが終わったら必ず、日付や面数が判読できるかどうか確認しなくてはならない。

 これはマイクロフィルムからプリントアウトするばあいも同じで、必ず1ページずつコピー面が読めるかどうか、日付は判読できるかどうか確認しておかないと、あとで出典として使い物にならなくなる事態が起きる(経験者だから語る)。
 というわけで、この「精進湖の減水」記事をチェックしたときも、前後のページをめくって日付を確認したのだが、エッ! 9月7日らしいがなぜ8月21日の所に挟まっているんだ。
 念のためにと確かめてみると、8月21日付第2面の記事は、9月7日の第2面の位置に収まっているではないか。

 これは単純な入れ替えだから簡単だが、なぜこういうミスを犯したのかを論理的に説明することはむずかしい。
 いっそのこと、三つ巴四つ巴に挟み間違えていたら、複雑なゲームになるかもしれない。
 

乱丁 その4 書籍印刷の面付け2

 では、2ページずつという印刷はあったのだろうか。
 『群書類従』といえば、塙保己一が編纂した一大叢書。古代から江戸時代初期までの史書や文学、計1273種を収めて、寛政5年(1793)〜文政2年(1819)に刊行された(Wikipedia)。木版印刷である。
 次の写真(ムラヤマフジコちゃん提供)では「羣書類從卷第三百九 物語部三 竹登里乃翁物語」と読める。つまり『竹とりの翁物語』の書き出し部分であることがわかる。
 
 ここで注目してほしいのは、左右中央の折り目上部に「第三百九」、下のほうに「一」と印刷されていることである。これを背丁という。
 背丁の「第三百九」巻の「一」から順番に25丁集めて、1枚ずつ中央部を山折りし、重ねて右端を麻糸で綴じれば1冊完成。この2ページずつ印刷する木版印刷が、江戸時代の出版文化を支えた技術である。
 製本するときに、背丁に気をつけておけば乱丁は起きないはずである。
  ここでさらに小脱線。東京は渋谷の塙保己一史料館にはこの『群書類従』の版木全巻が保存されていて、開架式に並べてあるので誰でも閲覧できる。大部分は版木として現役だという。眼福というか、ちょっと賢くなったような気分になれる。

  ところが明治時代になって金属活字とより大きな西洋紙の製紙技術が輸入されると、1枚の紙に8ページとか16ページ裏表印刷して、折り曲げて製本するようになる。
 ここでまたさっきの『日本アルプス』に戻ってみよう。
   
 横から見ると、おやおやこの本は小口と地が裁断(化粧裁ち)してない。
 もちろん製本として未完成品ではない。フランス装といって、ペーパーナイフで1ページずつ切り開きながら読んでいくというのが、当時の上流階級の人々の特権意識をくすぐったらしい。
 ここで注目していただきたいのは、本文が16ページ単位で印刷されていることが誰の目にもはっきり分かることである。
 ただこうなると印刷面を左右に並べて刷るというわけにはいかない。
 1ページの裏に2ページが来て、その向かいに3ページが来てその裏は4ページ……これを頭の中でイメージできる人はいないだろうが、長方形の紙を3回折り曲げて、ノンブル(ページ数)を書きこんでみれば簡単である。
 つぎのように印刷面を並べることを面付けという。並べ方のほかに天地の向きにもご注意ください。

 もちろん印刷現場の職人さんはこの数字の並び方を暗記しいる人が多い。
 これを刷り上げて3回折り曲げれば1折り16ページが完成することになる。

 本を壊さないと見ることはできないが、『日本アルプス』のばあいでも。第1ページと第16ページの山折りになった峰には、『群書類従』の2ページものと同じような背丁が印刷されているはずである。
 ふつうこの面付けミスで乱丁が起こるのだが、これまでみてきた『富士の人穴雙紙』にしろ『中道往還』にしろ、ノンブル(ページ数)通りの正しい面付けであるのに文章が通じなくなっている。
 たぶん単なるノンブルの打ち間違いが原因であろう。

 したがってなぜそうなったか、論理的な解明はできないだろう。乱丁ではなく乱調というべきだろう。

乱丁 その3 書籍印刷の面付け1

 なぜ乱丁という混乱が起きるのか。それを考えるまえにまた脱線して紙に印刷するということについて考えてみよう。
 まずは1ページずつ印刷ということ。
 こういう古い本がある。

 著者は小島烏水。といえば日本近代登山の先駆者、日本山岳会の初代会長、書名は『日本アルプス』。第1巻が明治43年7月の発行、第2巻が明治44年7月、第3巻が明治45年7月、第4巻が大正4年7月の発行である。
  当時の印刷技術・製本技術の贅を尽くした豪華本である。
《『日本アルプス』全四巻は、……その内容とともにそれにふさわしい装幀・挿画・写真・図版・造本などを考えあわせると、わが国の出版文化史のなかで画期的な名品であったといえる。》(近藤信行「小島烏水『日本アルプス』全四巻」『覆刻 日本の山岳名著 解題』日本山岳会企画・編集、大修館書店制作・刊行、昭和50年)
 それをいちいち解説しているときりがないので、いきなり第1巻150ページを開いてみよう。

 対向ページに「第五圖版 精進湖より仰げる白峯三山(ウオルタ アウエストン氏)」の写真と「第六圖版 農鳥山の鳥形残雪(野尻正英氏スケッチ)」が紺色インクで印刷されている。
 わが国で、紙の上に写真製版の印刷ができるようになった初期の作品というべきである。感光剤に反応させたのではない。
 その裏はどうなっているか。

 真っ白で、何も刷ってない。そして対向ページが151ページになっている。
 つまり、この写真ページは本文とは別格、1ページずつ、表だけ印刷されてここに挟み込まれたものである。紙の上に写真版印刷という技術がたいへんデリケートでむずかしものだったということが伺われる話である。
 今日書籍では、よほどの大型本でなければ、1ページずつ印刷されることはまずない。
 

乱丁 その2 『中道往還』

 「なかみちおうかん」と言ってもどこのことだか分からない人が多いであろう。
 そこでいきなり脇道にはいって道草を食べていただくことになる。
 山梨県は河口湖湖畔の勝山にある冨士御室浅間神社本宮は、富士山最古の社といわれる。もともとは吉田口登山道二合目にあったものを昭和49年=1974年に現在地に遷したものである。

 『冨士山眞景之圖』(英湖斎泰朝、弘化4=1847年)にはその当時の二合目の絵図が載っている。

 中央に小室仙元堂があって、右端に行者堂がある。

 この絵の描かれた30年ほど前の資料には次のように書かれている。
 《役ノ行者堂ハ浅間社ノ西ニアリ本尊ハ役ノ行者八代郡右左口(うばくち)村ノ七覚山円楽寺兼帯ス……毎歳六七月円楽寺ヨリ僧侶来リテ修法アリ》(『甲斐国志』文化11=1814年成立)
 よし、円楽寺から吉田口二合目・行者堂までのルートを探ってみよう。山梨県のNPO富士山ふるさと研究会の面々と、夢のような話がまとまったは6年前。それからの試行錯誤については、2019年12月19日にアップしたブログ《思いもよらぬ歴史的発見》に触れてある。
 その出発点が中道往還、今日でいう甲府市の南端・右左口町である。
 《甲州より駿州への通路三條あり、その中間なる故に中道といふ。》(『東八代郡誌』大正3=1914年)
 まずは基礎文献として『中道往還』(山梨県歴史の道調査報告第3集、山梨県教育委員会文化課編、山梨県教育委員会発行、昭和59年)を読む。しかしこの報告書は途中から、どうにも文章が繋がらないところが出てくる。
 ノンブル(ページ)を見るとちゃんと並んでいる。
 しかし、36ページの末尾から37ページ冒頭に文章がうまく繋がらない。
 37ページの末尾から38ページ冒頭にも繋がらない。
 38ページの末尾から39ページの冒頭には繋がっているようだ。
 39ページの末尾から40ページの冒頭も繋がっているようだ。
 40ページの末尾から41ページの冒頭には繋がらない。
 抜き出してみると次のようになる。
 

 この乱れているのは巻末の注の部分だから文章の流れが悪くて分かりにくい。注の番号の助けを借りて並べなおしてみよう。
      

 36ページはそのままで、
 38ページを37ページにする。
 39ページを38ページにする。
 40ページを39ページにする。
 そして37ページを40ページにする。
 すると、40ページから41ページはスムーズに繋がる。
 これでめでたく繋がった。
 ではなぜこのような混乱が起きるのであろうか。

村山古道補修 脱線

 今年の聖護院・富士山峯入り修行は10回目。これまでは海抜0メートル、田子の浦海岸から村山道・村山古道をたどって富士山頂を往復、富士宮に下山していたのだが、第10回目は日程を1日延ばして、御殿場に下ろうということになった。
 昭和10年頃まで、村山修験の山伏たちが歩いたコースである。
《村山修験の下山路は須山口登山道であり、須山からの下りは十里木道と呼ばれた現在の県道富士・裾野線をたどり、東海道へと抜ける道であった。……断片的ではあるが、聞き取りによる昭和十年代の様子は、次のようである。
 まず、九月二日、印野に下山し、大日堂に寄って護摩を焚き、翌日印野の御胎内に参る。そこから北畑へ向かい、後鬼前鬼神社へと参って泊まる。……
 九月八日、次の下和田に行く途中でチョウチングチ(提灯口、銚子囗とも表記される)という滝を拝み、タナノダイ(棚の台)あたりで愛鷹山中にまつられている飯盛山不動に向かってホラノキャー(法螺貝)を吹く。この滝は、「富岡村三大瀑布ノ一」で、高さ四三尺もあるという(『駿東郡富岡村誌』)。下和田から金沢に向かい、……その後、今里に戻って旭滝で滝行をした。旭滝は、『駿河記』にある「棚底の滝」(『駿東郡富岡村誌』には「棚返りノ滝」とある)のことである。滝の水が水量不足で落ちていないと、滝壺に入って身を清めた。》(『富士山須山口登山道調査報告書』裾野市立富士山資料館編・発行、平成21年)
  われわれは昨年秋から何回か御殿場・裾野両市に通い、拝所を確かめ関係者にお目にかかって協力をお願いしてきた。ここに引用した銚子口ノ滝も旭滝も駐車場の位置など確かめておいた。
 ただ残念ながら渇水期のためか、滝の迫力はいまいちというところであった。
  
 左は昨年12月27日で、右は今年3月22日の、銚子口ノ滝(提灯口の滝)である。

 旭滝は、左の写真が去年の11月24日のもので左が雄滝、右が雌滝、優美な滝である。そして右は今年の3月22日の撮影で、滝というより単なる岩壁である。
 もっと残念なことはご存じの通り、新型コロナ禍のために峯入り修行そのものが中止になったことである。
 人が歩かなければ登山道は消える。
 だから今年も村山古道の傷み具合をしらべ、まずは入り口に生い茂る獰猛な草を刈り取ったことは前回のブログ《村山古道補修 20年その1》で報告したばかりである。
  昼前から小雨が降りはじめ、間もなく本降りになってきた。午後は泥んこ遊びではなく、滝を見に行こう! ということになったのである。
 銚子口ノ滝は渇水期であれば、裾野市下和田の宮川橋の西袂から佐野川の河床におりてアプローチするのだが、きょうは膝下か、ばあいによっては腰辺りまで水没するかもしれない。
 佐野川の右岸伝いは雑木林の密林が続いていて、鋸鉈なしの丸腰ではちょっと面倒なことになりそうだ。だが左岸はと見回すと、ぐるりと大きく道路を迂回すれば檜の植林地が滝壺まで続いているようだ。そこからはいることにしよう。
 
 これが生き返った銚子口ノ滝である。
 生の迫力をご覧になりたい方はこちらをどうぞ。
 https://youtu.be/G9cCie_tHwo
 旭滝は、静岡県道富士裾野線の今里新田バス停から枝道を下っていくと、ドドドドッという地響きのような音が聞こえてくる。
 最後のカーブを曲がったところで、思わず高笑いしてしまった。
 
 落差50メートル、これが野生を取り戻した旭滝である。
  水行でもと考えている方は、諦めてください。
  https://youtu.be/tlMCv3UutYw
 濁流渦巻くといいたいところだが、水は少しも濁っていないのが三島熔岩流の上を流れている佐野川の特徴である。

【特殊訓練を受けて救難用装備を持ったチーム以外は、絶対に、増水した川や沢に入らないでください】

村山古道補修 20年その1

 ことしの梅雨は陽性である、というのを通り越して凶暴である。
 《熊本で豪雨 15人心肺停止》(『朝日新聞』2020年7月5日付朝刊1面トップの見出し)を横目で見ながらネットで「気象庁 レーダー・ナウキャスト」を開く。

 おッ! 前線が南下してくれたのでなんとかなりそうだ。
  念のためということで、スコップや鶴嘴、土嚢袋20枚などを持って6:00に出発。
 7:20東富士演習場は雲のなかで対向車はライトを点けているが、十里木に上がると雲が消えた。8:00村山に着くと、富士山全体が見える。

 そのまま村山古道は六辻(標高650メートル)まで上がる。
 ここまでは自動車の入る林道だが、ここからは踏み跡の登山道になる。南に開けて日当たりがいいので草が伸び放題である。
 
 ここは傾斜もなく路面が平らなのでまだいい。

 “足探り”という言葉をご存じだろうか。

 足許に段差があり、大小さまざまの石が散らばって草葉に隠されてしまうと、地下足袋で地面の様子を探りながらでないと歩けない。
 下るときには、ドスンと落とし穴に落ちても、身体を鉛直に立てたまま倒れないようにしないと怪我をする。
 そこで刈り払い機が登場する。

 刈り払い機で粗々に草や灌木を薙ぎ切り、岩の隙間に隠れている草やシダ類は、手鎌でほじくるように切り取る。ともかく足許の凹凸が見えるようにするのである。

 これで一雨降り日が差してくれると路面がはっきり見えるようになる。登山者が歩いてくれれば土が固まって踏み跡になる。
 この朝、紀伊半島沖にあった雨雲集団が発達してきて、岳南でも昼前から雨になった。
 先に《念のために》と書いたのは、午後はばあいによっては、中宮八幡堂下の抉られ続けている村山古道に土嚢積みをしようかとも考えたのであるが(ブログ《村山古道巡視 20年その3》参照)、雨のなかでの土嚢造りはどろんこ遊びにしかならない。結果として土木作業用具はそのまま持ち帰ることになった。

乱丁 その1 『富士の人穴雙紙』

 全国のコロナ緊急事態宣言が解除されたまさにその日に、わたしは病院に軟禁された。

 コロナ感染ではなく白内障手術のためである。2泊3日で脱出できたが、禁酒1週間・登山禁止1か月という保釈条件が付けられた。
 小池東京都知事の倫理観や職業差別意識を滲ませたような場所に出入りしないわたしは、これまで日常生活にさほどの制約は感じなかったが、これからはしばらくは来し方を振り返ってみようかと思う。まず最初のテーマは「乱丁」。

《らんちょう ‥チヤウ【乱丁】書物のページの順序が綴じ違っていること。「−本」→丁(ちよう)5》(『広辞苑 第四版』新村出編、岩波書店、1991年発行)

 

 先日、ムラヤマフジコチャンから『富士の人穴雙紙』(富士市立中央図書館編・発行、平成20年)を読んでいて文章が繋がらない個所があるという連絡があった(Amebaブログ(「一人、“地下鉄の地上を歩く会”」のうち、2020年5月15〜16日の《富士の人穴雙紙1〜2》参照)。
人穴というのは富士山西麓にある奥行き90メートルに及ぶ熔岩洞窟で、戦国時代末期に、藤原角行が修行して富士講を開いたといわれる聖地である。
 時代はさかのぼって鎌倉幕府2代将軍・源頼家は和田平太に人穴探検を命じるが、穴の外に追い返されてしまう。そこで応募した仁田四郎が、知力と胆力でもって穴に入り込み、地獄巡り・極楽巡りをするという仏教説話である。

 ウム、ツンドク本はわが家にもある。開いてみると、たしかに通じない。

 

《さねば、鬼共が申しけるは、
「かほどに罪深き者共をさように御待ちあらんには、いつ迄待ち申すべし。》(96亘尾)
《「如何に、仁田承れ。善根をするとて、心に染まぬ者が鼻に釘を打たるるなり。また、男の善根いたす女房が腹を立ち『無益』などと言う、そ……》(97亘粗)
《くとして鮮やかなり。花の輪、四方の梢を並べ、異香薫じて面白き事、言葉にも延べがたし。
「佛のつぼを見せん。」》(97亘尾)
《受け取り申さん。」
と声々に申す。》(98亘粗)
《と申せども叶わず。作りし罪の報いなれば地獄へこそ落とされけり。
大菩薩聞し召し、》(98亘尾)
《とて、阿弥陀のつぼ・釈迦の住処・薬師の住処・勢至の住処・地蔵の住処とて、仏の住ませ給う所をいちいちに拝ませ給いけり。》(99亘粗)
 
 でもこのパズルは簡単である。
 97ページの次に99ページを読み、そのあと98ページを読めば、あっさり99ページに繋がっていく。

 98ページと99ページを裏返しにして製本しなおせばいいのである。