村山古道補修5 浸食ますます広がる

 三島では愛鷹も富士も裾まで雲に隠れていたが、富士駅で乗り換えると愛鷹全山が見えるようになり、富士根駅からは富士山全山が姿を現した。西臼塚駐車場にクルマを停めて、富士宮五合目行きのバスに乗る。

 新五合目に着くと、富士山頂は見えるが、雨はしっかりと降っているし、西風がかなり強い。トイレがきれいな洋式なった。
 新六合・宝永山荘に寄って挨拶、ザレ場を下るとコケモモが満開である。この10年ばかり、その下につづくカラマツ・ダケカンバの樹林帯を下に向かってコケモモの分布が広がっていたが、一面に白い花が着いているのを見たのは初めてである。おまけにベニバナイチヤクソウが可憐な花を咲かせていた。
 このところの雨の降り方は異常なのであろう、路面に水流の痕が延々と続いている。地面はカラマツの腐葉土で、幸い下の火山灰層までは抉られていない。簡単な水切りだけで登山道は保持できるだろう。


 雨もあがってきたようだ、横渡で昼飯にするか、というところで驚いた。
《標高2000メートルの横渡は、去年に比べて河床が下がり、崖面がさらに後退していた。……足場を踏み固めたりすると傷口がさらに広がるだけなので、しばらく浸食の方向を見守って形が落ち着くのを待つほかなかろう。》
 さきに《2019年5月、村山古道の現況》でこのように書いたのは今シーズンは持つだろうと思ったためであるが、その足場が見事に崩れていたのである。


  ほんの数人がここに踏み込んだだけであろう。
 人工の物か自然の造形か分からないが、もともと横渡は大きな岩組みであった。


 この写真は2016年6月12日、右岸から写したもので、登山者は左岸を登ってきて、とろとろと日沢(にっさわ)を渡って富士市から富士宮市に入る。
  横渡はいつごろから利用されたものであろうか。宗教施設ではないためか宗教関係の古記録には出てこないのだが、わたしの知る限りでは、大正期に発行されたと思われる活版刷りの村山古道案内に次の一文がある。
《笹垢離ヨリ横渡マデ 三丁 日沢ヲ横越スル所ニシテ上ハ遥ニ頂上ヲ眺メ下ハ足下ニ駿河湾ヲ望ム・森林帯中眺望絶好ノ処》(県社浅間神社々務所発行、村山浅間神社蔵)
  計算の根拠はあやふやで、反論されたら即引っ込めざるをえないが、この大正時代の前、数百年の歴史をもっていると考えていいのではないか。
 わたしが横渡の地形的特殊性に気づいたのは2007年春のことである。
 この年3月末に富士宮口で大規模なスラッシュ雪崩が発生した。
《雪崩は標高2700メートル前後で発生。4本の流れがスカイラインを串刺しするように14力所で寸断した。》(asahi.comMYTOWN静岡、2007年4月6日付)
 当然のことながらスカイラインには厳しい通行規制が敷かれたはずであるが、村山古道はノーマーク、5月になって登ってみた。

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 数百メートルにわたって日沢全体が土砂で埋まり、へし折りぶち切られた丸太が両岸に散らばり重なっていたが、横渡の岩組みは無事に残っていた。
 次の写真は雪崩の5年後のものである。


 写真では分かりにくいが、右上の端っこに露岩がある。沢底の熔岩層が地表に現れている部分である。かつてここにイワカガミの咲いているのを見たことがある。
 ところがスラッシュ雪崩はこの露岩を直撃したらしい。巨大な雪崩の固まりはここで左右に分散して両岸にはね飛ばされる。その名残が左上に重なって横たわっている丸太である。つまり、横渡は雪崩の通り道の真ん中にありながら、雪崩の直撃を受けない日陰にあったのである。
 土砂で埋め尽くされた日沢は、その後雨水で洗われ、1年かけてV字谷に戻っていく。
 ところがその後、日沢には雪崩が発生しなくなり、その代わりにしょっちゅう集中豪雨に見舞われるようになる。雪崩による土砂の供給がなくなり、一年中雨水が流れて河床を掘り下げるとどうなるか。


 2016年6月の写真では、横渡の岩組みの下が大きく抉られて、かなり不安定になっていることが分かる。そして今度は雪崩ではなく、春先の豪雨が雪を溶かして土石流が発生。17年5月には、横渡が根こそぎ流されてしまった。


 このときには先に述べたすぐ上流の熔岩流で徒渉する迂回路を造ったのであるが、次の年には、徒渉地点の両岸が土石流に削られて崖になってしまった。その代わりに横渡の元の河床が埋まって楽に通れるようになった。


 というわけで、今年5月にはこの写真のように元々の場所を通過してもらおうと考えたのであるが、もくろみは見事に外れてしまった。どうしよう。


 左に見える踏み跡は17年に造って1年で廃道にした迂回路であるから、右岸・左岸ともザラザラ崩れてしまうだろう。下流はと見渡したが100mの先までV字形がさらに深くなっていて、難しい。では正面ブッシュの中央突破をしよう。


 これなら、右岸の上り下りもさほど問題ないだろう。新ルートが出来上がったところにちょうど、クラブツーリズムの大部隊が登ってきた。さっそく渡り初めをお願いする。


  このあとは上部お花畑が切れて樹林帯に下るところ。坂道が急になって路面の荒れが酷くなっているので麻土嚢3俵で水切りを新設。
 今回のもう一つの難題が笹垢離跡である。笹垢離の平坦地に大量の雨水が流れ込み、ここでさらに増量されて入り口から流れ出しているのである。


 ここは火山灰の少ない火山礫だから丈夫だろうといって油断はできない。手前の凹みが一雨でV字形に掘り下げられないという保証はない。
 1993年発行の富士宮市の調査報告書ではここに不動明王石像1体と地蔵尊2体が報告されている。ところが1996年9月の台風17号で一面のシラビソ林が全滅し、そのときもう1体の地蔵尊が地中から現れている。これは6地蔵だからあと3体は埋まっているはずの遺跡である。行政当局が無関心だからといって放っておくわけにもいかない。
 とりあえずは土嚢3俵を並べて水切りを新設した。

 麻土嚢の中身は、登山道の下のほうから拾ってきた小石である。岩礫と枯れ木が並べてあるのは、「土嚢を踏まないで!」という登山者に対する意思表示である。
 これで笹垢離から下の登山道の浸食は食い止められるはずだが、上から笹垢離の平坦地に流れこんでくる雨水を防いだわけではない。改めて地形を精査して雨水を西の斜面に逃がす方策を考えなくてはならないだろう。
 このあとは岩屋不動跡に寄って、注意喚起の札を提げる。「このさき極めて危険です。岩屋不動参拝はここから。」
            *       *       *
 これで一応今年の、夏山シーズンに向けての応急補修は終わりである。
 多くの人が村山古道を楽しんでくれるようになってひじょうに嬉しい。

 ボランティアですかと訊かれることがあるが、それは違う。こういうふうに身体を動かすのが楽しいのである。

 今後とも登山者のみなさんの支持と協力をいただいて、村山古道を守り、育てていきたいと思う。

村山古道補修4 草刈りと倒木の切り刻み

 梅雨の時季、オホーツク高気圧から右回りに吹き出す冷たい海風をヤマセという。

 福島県飯舘村の人は、ヤマセと聞くと冷害や飢饉を思い出して身震いする感じがある。

 30年ほどまえに藤沢市の地名調査を手伝ったときの印象では、ヤマセを実体験として感じている農家の人は半々だった。

 富士山に出向くようになって20年になるが、駿河の人にはヤマセを恐れるという感覚はないようだ。
 しかし朝起きて気象庁のレーダー・ナウキャスト画像を見るとまさにヤマセ。千葉県南部から富士山までの広域は、海から吹き付ける東の風で発生した雨雲に覆われている。

 とはいえ、きょうの相棒は全天候型も年季の入った土屋四郎氏。ためらう理由はどこにもないので予定通り6:00出発。
 東名高速を、丹沢山塊を正面に見ていると雲底が上がっているようでにも見えたが、御殿場市街地ではワイパーが必要になった。十里木を越えて富士山南麓線(国道469号)に入ると雨は上がり、村山に着くと路面は濡れていない。刈り払い機を借りて8時40分、六辻に着く。
 前回お伝えしたように、7月7日は村山古道を下ってきて、送電線を潜って間もなく、ことしは誰一人通過していないじゃないかという草むらにぶつかった。


 草を押し分けて登山道の終点から振り返ると、どこが村山古道の入り口かすら分からないほどの草茫々だった。


 今回、7月16日現場に着くと、入り口から50メートルほどは草刈りがしてあるが、傾斜がつく所から放置。誰が何のために草刈りしたのだろう。
 ともあれ今回は、土屋氏が入り口から刈り残しを処理しながら刈り込みに入る。


 さっきまで雨が降っていたのだろうか、地面も草もびしょ濡れである。私は露岩部分に先行して、岩の隙間のアジサイを抜いたり、シダ類や細い草を手鎌で刈り取ったりして小1時間。
 露岩部分はこの通り。


 草の葉が乱雑に散らばっているが、いったん日が差せばしおれて地面が見えてくる。
 そして村山古道入り口部分はこの通り。


 みなさんどうぞ、お通りください。
 それにしても刈り払い機の威力はすごい。手鎌でしこしこやっていたら、何度も鎌研ぎ時間が入って昼飯食ってということになるが、身体の負荷もも少なく、あっと言う間に終わった。
 あとは燃料も残っているし行きがけの駄賃である。砂利道の下から送電線の上まで下草刈りと頭上に被さる灌木を伐採、ずいぶん明るくなった。
 六道坂並びの旧登山道の上部出口、蔓草の絡まる斜面も草刈りしておく。


 これはおまけのようなものだ。
 雨のこないうちにと、村山案内所前のベンチで昼食。食後はクルマで天照教まで上がる。ここ標高1000メートルの地ではハナミズキの花終わり、オカトラノオの大群落が咲きはじめている。


 ここからは、鋸だけもって下り、午後1時20分に現場到着。


 こんな蔓の絡みは大したことではない。生の蔓は鋸を当てるとなんの抵抗もなく、豆腐を切るようなものである。このばあいは両側の2か所、つまり6本の蔓を切ればいいのであっという間に終わる。
 主役は10年物のヒノキ4本。


 ふつうはそれぞれ中程を切り離せば、丸太がドサリドサリと落ちておしまいなのだが、今回はそうはいかない。


 直径5センチ超のフジに絡みつかれて倒れ、ヒノキの枝がサンショウなどの灌木を抱き込んでいるので押しても引いても、ふにゃふにゃ動くけれど外れない。まずはヒノキの枝を1本ずつ切り落として、絡んでいる蔓も切り落として、さらに巻き添えになった灌木を引き離して行くほかない。


 雨こそ降っていないが樹皮も葉っぱもびしょ濡れ。なぜか粘土のような泥が手のひらにくっついていて、鋸をひく手がぬるぬると滑る。ともかくも刻んだ枝は1本ずつ斜面の上の方に立てかけ、さらに次の枝を切り落として絡んでいる蔓を切り離しという作業の繰り返しになる。                       
 ついに地面が見えてくる。
 最後に、むき出しになって中空に横たわっている10メートルの丸太を鋸で真っ二つに切断するのだが、息が切れるので途中で交代。ようやくドサッ、「終わった!」。


 切断する場所は、引っかかり具合を計算して、自重で落ちてくれる場所を選ぶのだが、この目測を誤ると、丸太が落ちてくれない。そのときには反対側をもう1回切り離さなくてはならない。チェンソーなら2回目も3回でもいいが、手引き鋸では一発で決めなくてはならない。
 やれやれ終わった。村山古道だから、ちったあワイルドさも残しておかなくてはいけないな、ということにして本日の作業は終了。
 意気揚々と凱旋喇叭ならぬ法螺貝を吹きながら引き揚げる。土屋氏の法螺の音もずいぶん上達してきたと私の耳には聞こえるのだが、ご本人には最後の高音部が気にくわないらしい。ともあれクマさんは絶対に近づいてはこない。
 3時前に天照教を出発。東名はまだ込んでおらず5時前に帰宅。
 気がつくと、ズボンだけでなくシャツもチョッキも泥だらけ。これで電車に乗ったら白眼視されただろうなと思いながらまず外側を洗濯機に放り込んで水洗い、そのあとでやっと本洗い。
 地下足袋はとりあえずバケツに水を張って放り込んでおいて翌朝、どろどろの水で地下足袋が見えないほどであった。

村山古道補修3  強風と高温の置きみやげ

 7月7日4時起床、小雨。

 気象庁のレーダー・ナウキャスト画像を見ると、東海地方全域に小さな雨雲の固まりが散らばっていて、これじゃ降るのか降らないのか分からないが、きょうは全天候行動可能な私1人だから問題はない。

 ともかく前回の反省から、気になるところもできるだけ見ないようにして、村山まで下ろうと決意して富士宮に向かった。
 9時00分富士宮駅前発のバス、新富士駅から乗ってきた先客は欧米系の外国人8人。9時53分西臼塚駐車場着。下車したのはもちろん私1人、手を振って外人さんたちを見送る。

 富士山頂は見えないが雨の気配はない。富士山南限のフジアザミが1株、今年も元気よく育ってきた。


 大淵林道に入るとキジョランの葉に虫食い穴2つ、アサギマダラが1頭。待て待てと声をかけたが聞く耳は持たぬ、カメラのスイッチを入れる前にどこかへ飛び立った。
 村山古道はこの辺り平坦な凹みなので、雨水で路面が削られるということも少ない。


 しかし1キロ近く下ると水量も増えてくるので浸食は進む。古い作業道が右から合流するところに麻の土嚢を8俵積んだ。


 日が差してきて汗びっしょり。ほんとうは左下に窪地があるので、そこまで水路を掘ろうとしたのであるが、決意を思い出して途中で切り上げた。
 馬頭観世音に近づくと通路が2筋あることに気づく人も多いだろう。私の推定では、左(東側)の低い凹みが本来の登山道で、右(西側)の高台を通っているは丸太搬送用の木馬道(きうまみち)跡であろう。

 村山古道再発見当時は下の道を歩いていたが、倒木が通路を塞いだり、雨水が流れて浮き石が増えてきて、みんな高台を歩くようになった。元登山道はいまやとても歩けるものではない。
  その凹み道の雨水に、さらに左(東)から雨水が合流する場所がある。
 集まった水流の威力をご覧に入れよう。


 6月30日に襲った豪雨の生々しい傷痕であろうか、流木が水流を妨げると岸を抉り取る。


 立木が倒れ込んで通行の邪魔になる。


 先ほどの土嚢を積んだ辺りに比べて、浮き石が少なく歩きやすいのが救いではあるが、次の豪雨で何が起こるか、登山道がどのように変遷していくか、想像すらできない。
  吉原林道から下は比較的平坦地であるため、簡単な水切りですんでいるが、天照教林道に近づくにつれて路面が荒れている。左右に雨水の逃がし場所がないので、麻土嚢で頑丈なダムを造るほかないかもしれない。
 6月16日におこなった天照教から北井久保林道の間の水切りはしっかり機能していた。
 天照教のすぐ下の水切りの水路には、左下のほうに新しい傾斜が刻まれていた。


 北井久保林道すぐ上のブル道跡も、決壊堤防はびくともしておらず、水路もしっかり機能していた。


 問題はその中間の曲がりくねった急坂部分の風倒木。


 6月30日の前線通過時の吹き降りで発生したものだろうか。この蔓はちょいちょいと切れば難なく通過できるが、すぐ下の倒木群はちょっと手強い。


 この写真は臨時に造られていた迂回路の上から登山道を覗いたものである。お友達同士仲良く倒れて複雑な構造をしている。これはまず、左に向いて倒れている3本の枝をぜんぶ切り落として、そのあとで幹を切り刻むほかないだろう。
 チェンソーがあれば簡単だが、手引き鋸で処理するとなると息が切れそうだ。決意に従って見ぬふりをして通り抜ける。
 標高850メートル、札打場まで下がってくるとガクアジサイの繁茂がすごいことになっている。両側から頭上に覆い被さっているばかりでなく、足許に生えてきた1〜2年生の幼樹がやっかいだ。ごつごつした熔岩流の足場が見えない。位置が低いから鉈・鎌で切るわけにはいかず、1本ずつ引き抜くほかない。


 この写真はかつての登山道が洪水時に激流の流路になり、スコリアのぼろぼろの崖になった場所である。アジサイの葉の部分まで踏み込むと、ガラガラ落石の音がする。体重をかければ踏み抜いて崩れ落ちてしまうだろう。
 ここではまず、繁茂したガクアジサイを切り取って崖下が見えるようにしておいて、「↓ぼろ↓ぼろの オーバーハング」と書いた札を提げる。


  村山古道再発見当初、全盲の人がここを下りて、いまは暗くて見えない左手の滝を登って通過していったとは、信じられないような話である。
  腕がくたびれてきた。いちいち丁寧にガクアジサイを払うことはできない。ここから下は、顔にぶつかる枝葉だけを重点的に切り倒しながら下る。そのかわり以前は、雨水に洗われて荒れていた足許は、ひじょうに安定してきた。
 送電線の下を潜ると、もう村山も近い。と安心するのはまだ早かったようだ。
 登山道を横切っている砂利敷きの作業道の先が草茫々で人が歩いた痕跡がない。


 きょうは登山客3人と行き違ったが、彼らはどこを通ったのだ。
  初めは膝下までの草が、しだいに胸の高さまでになり、左の山から岩が崩れ落ちて足場がガタガタの急坂にかかると背丈を超える草で何も見えなくなる。
 幸い登山靴ではなく地下足袋である。何も見えなくとも、足探りで段差を確かめながら下ることができる。
 草払いは足場のとくに悪いところだけ、台湾剥げ状に刈り取り、最後の平坦地ではススキだけ切り捨てる。

 やわな草は左手で逃げないよう束ねておかないと切れない。アジサイなど年輪のある木は、刃に重みがある鉈でないと切り倒せない。その点ススキは、手を添えないで根元に鎌を当てて引くだけで切り倒せる。ザクッザクッ。
 午後4時10分、ようやく六辻の林道に出ることができた。


 登山道は左の砂利道ではなく、ススキの向こうを左に回り込んで、ヒノキの並木の向こうを通っているなどと、慣れない登山者には想像もできないだろう。
 4月29日には無意識に通り抜けた草道が、2か月後には通過困難なジャングルになっていたのである。

 村山古道が初めて山道に差し掛かる入り口が、これじゃまずい。早急に手を打たなくてはなるまい。

村山古道補修2 あえなく挫折

 先週に続いて6月22日(土)も村山古道に入った。

 目標はスカイライン横道、標高1350メートルから標高500メートルの村山まで下って、登山道に被さるように伸びてきた草木の掃除、とりわけ旺盛な繁殖力をみせるガクアジアイの枝払いが中心になるはずであった。

 そのほか土嚢の補修とか傷んだ案内プレートの付け替えなどの準備もしていった。
 西臼塚駐車場でバスを降りると、雨に濡れたサンショウバラの花が盛りを過ぎていた。例年より1週間ぐらい花期が早いような気がする。


 そのほかの春の花はすっかり終わったようで、フタリシズカの小さな花くらいしか目につかない。
 村山古道に入ったところは、不動沢熔岩流が尾根状に地表を流れた場所なので、大きな水流は発生しない。
 ただしスカイラインを村山古道が横切る20メートル上側(東側)に、スカイライン側溝を流れる雨水の落とし口がある。

 そこから大量の土砂が熔岩流の上に流れ込んでコケの絨毯に達し、さらに六観音跡まで埋める危険性が出てきたので、17年7月に、土嚢を積んでスカイラインから吐き出す水流の向きを変えておいた。それが功を奏したのか、土砂の流出は進んでいないようである。
 それでも近年の異常気象のせいか、登山道にはかなりの雨水が流れ込むようだ。
 次の写真のずっと向こうまで転がっている熔岩塊は、周辺から登山道に落ちてきたものではない。雨水が路面を削って浮き出たものである。 


 ここには、雨水を右に流し落とす水切りを造っておいたが、埋まったので用をなさなくなっている。水路を掘り出して下流側の土手に積んで、ハイ5分。


 こういう水切りの補修を5か所、11:15には中宮八幡堂に着いた。

 行程は順調であるが、雨がポツリポツリ降りはじめたので傘をさす。
 ここからしばらく、大淵林道までは土の登山道で歩きやすいゆるい下りである。であったというべきか、いまや路面が雨水で掘り下げられて、快適とはいえなくなっている。
  5月19日に上梓した「2019年5月、村山古道の現況」には次のように書いておいた。
《中宮八幡堂から下の登山道には土砂の流入が激しくなっているようだ。かつて見渡す限り地面を覆っていた、背丈を超える熊笹がぜんぶ枯れてしまった。笹の保水力が影響しているかもしれない。
 大淵林道との中間にある土嚢ダムは1年で満杯になってしまう。土砂が流れ込む場所を特定して阻止できなければ、あと1〜2カ所土嚢ダムを造ったほうがいいだろう。》

 登山道の荒れ方をいま改めて考えてみると、笹枯れが主原因ではなく、村山古道の右側(西側)斜面の間伐の影響が決定的のようである。
 そこは30年モノの檜の植林地で、これまで一度も枝打ちされたことがなく、鬱蒼としていた。

 それがこの1〜2年の間に、間伐が進められてきたので、明るくなったのはいいのだが、林床には裸地が広がることになった。そこから大量の雨水と土砂が村山古道に流れ込むようになったのである。
 しかも1〜2か所の特定の場所から流れ込むのではない。
 村山古道のこの部分の西側全域が東向きの緩い斜面になっており、どこからでもお構いなく流れ込むようになっているようだ。
 中間に造っておいた土嚢ダムに着いた。


 ダムは完全に埋まり、越流した雨水と土砂が自由気儘に、ダムサイトの下流まで掘り下げはじめているようだ。
 次の写真は2017年の5月28日の同じ場所である。


 これはいかんと、応急処置として土嚢を5俵積んでおいた。


 それが2年後には、先の写真のようにまったく無力化していたのである。
 おりから雨脚が強まってきたので、どうしようか。
 ともかく土嚢袋が何枚かザックにあるはずだと、びしょ濡れになりながら土嚢を11俵積んだ。


 これまでは中央部に登山者用通路を開けておいたが、雨水の通路にもなるので今回は封鎖。この写真は下から見たもので、上に載せてある枯れ木はここを踏むなという意思表示である。
 さて予定外の時間を費やしてしまった、急がねば。雲行きはどうだろうとスマホを見ると、「圏外です」。
 村山古道の、天照教林道と中宮八幡堂の間は、ちょっと傾斜が緩んでいるので、地上からの電波が届きにくい死角である。気象状況はつかめない。

 ここから屋根のある場所というと富士山麓山の村か西臼塚駐車場ということになる。
 というわけでこの日は西臼塚駐車場の東屋で遅い昼食を摂ることになり、村山まで掃除しながら下ろうという目論見はもろくも崩れたのであった、
         *        *        *
 今回の土嚢ダムのすぐ下を、間伐のときの作業道が横切っている。


 登山道に対して丸太や枝葉で塞いであるのは、立ち入り禁止だという意思表示かもしれない。

 しかし間伐作業の現場監督に、村山古道への雨水の流入を防ごうという善意が微塵でもあったとしたら、お笑いである。
 まったく役に立たない。数年と経たないうちに、ゴミ山の下にくっきりと溝ができるだろう。
  ここをこのまま放置すれば、路面の浸食が地下の熔岩層にまで進むこともありうる。すなわち村山古道のすぐ東を流れる日沢(にっさわ)の河床のレベルまで抉り取られることになり、川底が登山道になる。
 ただし運が良ければ、間伐跡の裸地に日光が当たり、地中に眠っている草木の種が目を覚ましてくれるかもしれない。草や灌木が密生してくれば、地表水の流れをコントロールしてくれるだろう。
 しかし時間稼ぎをして自然の回復力の手助けをするのも、無意味ではあるまい。

 日を改めてのことになるが、土嚢ダムを、1〜2か所といわず3〜4か所でも造って、土砂の流出を防ぐことにしよう。埋まれば補修する。
 登山道を維持するというのはそういうことである。

村山古道補修1 麻の土嚢袋を導入

  5月19日付のブログ「2019年5月、村山古道の現況」で、このオフシーズンの特徴として、強風による倒木は比較的に少なかったが、雨水による路面の荒れ方が目立ったことを報告した。
 ことしもまた補修作業にはいるとして、ほかの場所は時間が空いた時にちょいと出掛ければ済むが、天照教本社から北井久保林道のあいだは、補修にかなりの労力が必要だろうと思われた。幸い6月16日(日)、強力な助っ人2人の日程が空くというので、「少々の雨でも」決行しようということになった。
 はいえ天気は気になる。15日は朝からしょぼしょぼ雨が降って気温も下がり、山樂カレッジで予定していた三ツ峠山アツモリソウ観察は中止、夜になると風神・雷神は大暴れ。ただし夜半には雨の音もしなくなり、寒冷前線はスピードを上げて通過したようだ。
 朝になっても風は強く丹沢には大きな雲が引っ掛っていたが、東名を走っているうちに青空が広がり、東富士演習場から見る富士山は、先週積もった雪もすっかり消えていた。


 天照教林道では各所に越流した名残の土砂がたまり、路面は濡れたままであったが、日が差し込むと湯気が立ち始めた。


 天照教本社すぐ下の水切りは、手前右手の大斜面から、天照教林道を越流した大量の水と土砂が流れ込んで水路は満杯になっていた。


  ここは水路部分を掘り起こして土嚢を7俵造り、破れた土嚢の上に積み並べて、それでおしまい。


 ご覧のように今回初めて麻の土嚢袋を使った。われわれとしてはG20サミットにちなんで、廃プラ問題解決の一助としてPP袋から麻袋に切り替えた、と言い切るのは嘘である。
 PP袋は余りにもろい。直射日光に当たればすぐぼろぼろになるし、登山靴で踏まれると一発で穴が開く。一般登山者は土嚢を踏まないで歩いてくれるのに、リーダーやガイド諸君は高いところへ乗りたがる傾向があるようで、これをやめさせることもできない。
 楽天市場で調べてみると、名古屋にある「めばえや」から480×620ミリサイズの麻袋を売り出しており、100枚を10980円也で入手できる。消費税・送料込みである。PP袋に比べると4倍近い値段だが、われわれは何万枚と使うわけではない。よし、採用することにしよう。

 

 作業は続いてすぐその下の、雨が降ると池になる作業道。
 路肩部分に土嚢を水平に並べようというのだが、われわれのやり方は大雑把なもので、水準の取り方も目測で、ここら辺からそこまで、歩いてみるだけ。
 初め線引きもかねて鶴橋を打ち込んではみたが、礫の混じらない土砂だから張り合いがない。剣先スコップで簡単にすくい取って土嚢袋に詰め込んでいけばいい。
 まずはいちばん奥に土嚢19俵。左奥が緩い傾斜ながら逆扇形に広がっている。


 その手前に土嚢16俵。草の間に鹿道があって、そこから登山道に雨水が流れ込む。


 最後は登山道にかかる部分。さっきまで降っていた雨がたまって池になっているが、向こう半分から越流して大量の水が登山道に流れ込んだようだ。


 登山道部分には麻袋を並べて、ここが通り道ですよと強調するため、両脇に黒袋を2俵ずつ置いて向こうは白袋。
  この麻袋2枚を除いてここでは14枚の土嚢袋をつかったが、すべて昨シーズンまでの残りで済ませた。

 

 さて本日の大物は、天照教から標高差200メートルほど下った北井久保林道から札打場に向かう中間、間伐のためのブルドーザーの轍が村山古道を横切っている場所である。
 登山道を登っていくと路面の抉られ方が4月29日の印象とはかなり違う。


 この写真の左下から左上へと登山道が通っているのだが、昨夜の豪雨は幅50センチ×深さ20センチの傷跡を新たにつくって右下に向かったようだ。ガタガタで歩きにくいことおびただしい。
 現場に着いた。  


 これは6月19日ではなく4月29日の写真。登山道から上側、直角に横切るブル道を写したものである。
 もともとは草の生えている高さにブル道は造成されたのであるが、山奥から集まってくる雨水がブル道の右側を抉り下げ、白く見える土嚢のところにごみがたまってダムになったので、左に反転して堤防を決壊させたことが分かる。ブル道は右手前に下っている。
 2013年1月1日のわたしの日記に次の記録がある。
《10:30〜12:30北井久保林道と札打場のあいだのブル道改修、土嚢15個は簡単だが幅50センチ×深さ50センチの排水路を登山路を横切って10メートル掘るのが大事業、》

 土嚢15個(俵)というのは、すでに決壊していた場所に土嚢を3段に積み重ねて堤防を造り、ブル道中央部に水路を掘って、登山道の下の急坂まで雨水を流すように工夫した。
  6年近くよくぞ持ちこたえてくれたものだが、まさにその土嚢堤防の上流が破られたのである。
  作業はまず水路を塞いでいる丸太などを取り除くことから始まる。

 次に水路にたまった土砂で土嚢をつくるはずだが、これが簡単ではない。砂だけでなく、拳大から人頭大の石がぎっしり詰まっているので、剣先スコップが立たない。
 そこで埋まった水路部分に鶴嘴のクチバシをくまなく打ち込む。ガチッと反応があれば大きな石があるので、これは堤防の決壊部分に投げ込んで土台にする。そのあとで土嚢づくりになる。土嚢は18俵、決壊場所に2段重ねで並べ、土嚢の水路側に丸太を2列に並べて隙間に小石を詰めて補強しておく。


 さらに埋まっている水路跡は20メートルもあるので、幅50センチ×深さ20センチに掘り下げていく。下流のほうは岩礫が少なくなるので、鶴嘴も平刃を打ち込んでペースを上げる。


 雨水は土砂を押し流してくれるのではない、水流が緩んだところにため込んでしまうものである。水路掃除をしなければ水切りは維持できないものである。
 最後に、登山道が水路を跨いでいる谷側の堤防に麻の土嚢を置く。これは防水と足場兼用である。この1枚を除いて、ここで使った土嚢袋はぜんぶこれまでの残りのPP袋である。
 2013年正月の作業は富士宮のI氏の協力で2時間かかり、今回は3人がかりで1時間40分で終わった。

 さあ腹がヘッタ。村山まで下ってドロドロの手を洗って、昼食にしよう。

2019年5月、村山古道の現況

  4月29日に西臼塚駐車場から村山まで、会津若松から見えたI氏とともに歩き〔ヤマレコ「村山古道を下る(富士山麓・畠堀氏と西臼塚〜村山浅間神社)」参照〕、5月12日には新六合から西臼塚まで土屋四郎氏といっしょに下ったので、村山古道の現況を報告しておきたい。

 富士宮口新五合目から上の夏道は、所々地面が顔を出しているがおおむねザラメ雪に覆われていた。


 宝永山荘の東、日沢(にっさわ)の源頭部(標高2500メートル)も雪に覆われていた。これでも例年に比べて積雪が少なく、今年も雪崩は発生しなかったようだ。


 次の写真は去年5月4日の同じ場所。春先の大雨で土石流が発生して大きく浸食されたが、今年はこれからどうなるだろうか。


  さて村山古道を下ろう。
 ザレ場も、所々地面が露出している所もあるがほぼ全面雪に覆われており、夏道通りには下れなかった。


 宝永遊歩道(標高1350メートル)から下の樹林帯もおおむね雪に覆われていたが、登山路分の吹き溜まりが強調されているようにジグザグの形が見えるので、踏み外れることはなかった。雨のため形は崩れているが、1週間前かそこら、ここを登った登山者の足跡が残っていた。
 下るにつれて雪が腐り、膝上まで踏み抜く回数が増えた。また融雪が夜間は氷結するために、小さいながらアイスバーンが形成されるようになった。地下足袋ではキックステップが利かないので難渋する。
 標高2150メートル、一ノ木戸跡で昼食を摂っていたら、重装備の若者が1人登ってきた。新六合辺りでテントを張るという。 
 去年夏に切り残していたシラビソの倒木は土屋氏が昨秋10月に処理してくれていた。


 標高2000メートルの横渡は、去年に比べて河床が下がり、崖面がさらに後退していた。上が今年の5月12日の写真。下は昨年4月7日に市川和秀氏によって撮影されたものである。
 足場を踏み固めたりすると傷口がさらに広がるだけなので、しばらく浸食の方向を見守って形が落ち着くのを待つほかなかろう。
 これから下のお花畑では、ところどころ登山道を雨水が流れはじめて、路面が抉れて浮石がふえてきた。幸い登山道は丘陵の凸部を通っているので、左右に水を逃がす水切りを造れば、浸食を食い止めることができるだろう。
 岩屋不動に向かう枝道では、何本もの大木が谷側(南東方向)に向けて薙ぎ倒されている。土屋氏が刻んでくれているものもあるが、多くは跨ぐか潜るか迂回することになる。


 今回の巡回でいちばん驚いたのは岩屋不動の惨状だ。


 洞窟の前に下る急斜面全体が、木立を抱えたままずれ落ちはじめている。谷側で支えている熔岩の塊は踏んでもびくともしないが、斜面全体が動きはじめたとき受け止めることができるかどうか判断のしようがない。
 それに岩屋不動を組み立てている岩組みが緩んでいるようにも見える。5センチほどの破片が指でつまむと音もなく抜ける。〔https://youtu.be/VtCZ3YS5VwM
  訓練を受けた人が1人2人なら下りることもできるだろうが、何人もの人間が団子になって洞窟の前に並んでいて、地震でも起きればとんでもないことにことになる。少なくとも数年間は、遠巻きにして、自然の成り行きを眺めるほかないであろう。
  小倒木帯の急坂の浸食は止めようがない。登山道部分が緩く凹んでいる谷底なので、雨水を左右に振り分けることができない。せめて落ち口に、左右に流すしっかりした水切りを設置し、途中には地形を見ながら随所にダム式の水切りを造って、登山者は迂回路を歩いてもらうほかなかろう。
 途中に枝付きの樅の大木が、幹の3メートルほど上が折れて落ち、縦に登山路を塞いでいる。最近のことらしい。


 これは下側の枝が地面に突き刺さっているので、押しても引いてもびくともしない。チェンソーで枝をぜんぶ切り落とし、そのあとで主幹を短く切り刻むほかに除去の方法はない。チェンソーボランティアが現れるまでは、迂回路を通過することにしよう。
 標高1600メートルのスカイライン縦道、1350メートルのスカイライン横道の間の登山道は安定している。1カ所、数年前からミズナラの大枝が登山道の真ん中に突き刺さっているが、もはや危険性はなくなりあと数年で朽ち果てるだろう。
 スカイライン横道の側溝から村山古道・不動沢熔岩流のうえに流れ込んでいた土砂は、ストップがかかっているようで、六観音遺跡も危機を脱したと考えてよかろう。
 この下、日沢の徒渉点までの登山路は浮き石もすくなくなってきて、安定している。
 八大竜王と水神は、去年村山の人たちが右上に移してくれて安泰である。
 昨年まで、日沢が左岸を破って井戸跡に流れ込む危険性のあった個所は、蛇籠の裏側に水流が流れ込んだ挙句、蛇籠と岸の間が崩れて埋まってしまいかえって安定してきた。そのかわり奔流が直撃する下流の小山は、いずれ流されるであろう。
 中宮八幡堂から八大竜王に下るルートは、トラロープを張った場所は下部が削られてオーバーハング気味になってきたので、村山の人たちが上回りで直接八大竜王に向かう道を造ってくれた。そのほか、日沢の徒渉点から河床を登っていけば、階段のような滝を2つ越えて簡単にアプローチできる。ただし左岸の削られたオーバーハングした熔岩流の下には入らないようしてほしい。
 中宮八幡堂から下の登山道には土砂の流入が激しくなっているようだ。かつて見渡す限り地面を覆っていた、背丈を超える熊笹がぜんぶ枯れてしまった。笹の保水力が影響しているかもしれない。
 大淵林道との中間にある土嚢ダムは1年で満杯になってしまう。土砂が流れ込む場所を特定して阻止できなければ、あと1〜2カ所土嚢ダムを造ったほうがいいだろう。
 大淵林道から下も、ゆるくて幅広い谷の中心部を村山古道が通っているので大量の雨水が集まる。馬頭観世音までは倒木が何カ所か登山道をふさぐていどだが、馬頭から下の凹みには大量の土砂が流れ込んでいて、左からの合流点の下流は深いV字に抉られている。
 V字の底を歩くことは可能だが、ばあいによっては丸太を組んでダムを造って土石流を塞いでしまう。そして右岸高みの林床に、富士山麓山の村までつづく巻き道を造ったほうが早いかもしれない。
 富士山麓山の村から下、去年は切れていたどん詰まりのトラロープは無事で、ここから下部の路面は天照教まで安定している。
 天照教本社のすぐ下の水切りは、バイクが往復して破損しているが、土砂が大量にたまっているのですぐに直せる。対バイク地雷のようなものはないだろうか。


 その下で、村山古道から右に作業道が分かれる。数年前の間伐作業のとき造られたものだ。その作業道はまっすぐ下り坂にならないで、いったん下ってすぐ上り坂になるので、当初は雨が降ると池になった。ところが池の岸から2本の鹿道がすぐ下の登山道へとつながっており、ここに大量の雨水が流れ込むようになった。そのため登山路には浮石が大量に転がるようになり、歩きにくいことおびただしい。ここは作業道の路肩近くを掘り下げて多数の土嚢を並べるほかあるまい。
 その下に村山古道を横切っている古い作業道が2本あり、2本とも4輪駆動車が走り回っている。しかしそこではうまい具合に轍が轍を呼んで水路が深くなり、登山路に影響はない。
 札打場と北井久保林道のあいだに、村山古道をブル道が横切っている場所がある。


 まっすぐブル道を流れ下ってきた大量の雨水が左の登山路に流れ込んでいたので、左側に土嚢を2列に積み上げて土手を築き、ブル道の中央に水路を掘り下げて雨水を手前下に逃がすようにしておいた。ところが昨秋の大雨で水路が杉枝や流木で塞がれ、左の土手が決壊してしまった。ここは土手をもっと頑丈に造りなおし、水路をもっと広く深くするほかあるまい。
 このあと、かつての登山道が大雨のたびに抉られて歩けなくなり、入り口も出口もオーバーハングになった所は更に浸食が進んで、ラミネートの注意書きがなくなっていた。中間の徒渉点は熔岩流の露頭なのでぶじである。
 これから下は路面は安定してきており、以前にもまして歩きやすくなってきた。
  村山古道はほぼ全域、冬になれば地面が凍結するか、霜柱は2重3重に立ち、春になれば解ける。解けると土壁が崩れ、浮石が埋まってくる。
 浮き石は周りから落ちてくるものではない。雨水がなだれ込めば土が流されて石や礫が浮き上がってくる。熔岩層に達するまでこれはつづく。だから雨水の流入を防ぐだけで路面が良くなっていく。
 ここ数年、標高1000メートルを横切る天照教林道から下の民有林で間伐・枝打ちが大規模におこなわれた。タイヤやキャタピラの轍を伝わって、大量の雨水が村山古道に流れ込むようになった。これはほぼ土嚢で塞いだので、これから林床に草や灌木が育ってくれば安心である。村山古道を歩きはじめて十数年、スカイライン横道から下でようやくその成果が実りはじめたと言っていい。
 さいごに、六辻すぐ上の崩れ。去年1トンの岩がおちて山側からの崩落は落ち着いてきたが、今回谷側の壁から人頭大の落石が3個見つかった。これから草が茂ると危険な状況になるかもしれない。昨年迂回路は解消したが、また復活させる必要が 出てくるかもしれない。
 さて今年の補修はどこから手を着けましょうかね。

遠路はるばる、背戸峨廊のご褒美

 磐越東線(ゆうゆうあぶくまライン)江田駅は遠い。
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■六会日大前 07:09発小田急江ノ島線◇藤沢[5分待ち]東海道本線◇上野[4分待ち]常磐線◇水戸[42分待ち]常磐線◇いわき[36分待ち]磐越東線13:32江田着
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  所要時間6時間23分である。
 在来線特急を利用すればどうか。
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■六会日大前08:50発小田急江ノ島線◇藤沢[3分待ち]東海道本線(東日本)◇品川 [6分待ち]ひたち7号◇いわき[66分待ち]磐越東線13:32江田着    
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 所要時間は4時間42分に短縮されるが、到着時刻は同じである。
 東北新幹線を使えばどうか。
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■六会日大前10:21発小田急江ノ島線◇藤沢[11分待ち]東海道本線◇東京[8分待ち]やまびこ49号◇郡山[21分待ち]磐越東線14:31江田着 
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 所要時間は4時間10分。わずかに改善されるが、到着が59分遅くなる。
  理由は後で述べるが、これではその日のうちに背戸峨廊に入れない。


 5月ともなれば日が長い、空は抜けるように青い。ちんたらちんたら、13時32分、2両編成のディーゼル・ワンマンカーが江田駅に着いた。下車したのは我々のほか若者1人だけ。


 無人駅で、小さな待合所はあるがホームに屋根はない、トイレもない、自販機すらない。
 その昔ここは信号所で列車交換(行き違い)をやっていたらしい。単線なのにどうやって列車交換をしたかって? 
 興味のある方は《まったり駅探訪 https://ameblo.jp/aru-king/entry-11298061332.html》をご覧ください。
 福島県道41号を隔てて「■■朝日屋」と看板、駄菓子やアイスクリームを売っている。小父さんに荷物を預かっていただけないかと申し出ると、「いまはやっていない食堂があるから置いていきなさい、気をつけて行ってらっしゃい」。「■■」には食堂と書いてあったらしい。
 朝日屋を出発して、すぐ右に駐車スペースがあって公衆トイレ、その先に「背戸峨廊入口」の看板、磐越東線のガードをくぐるとすぐに江田川沿いの道になり、13時58分駐車場広場の登山口に着く。《背戸峨廊》の命名者・草野心平直筆の石碑が出迎えてくれる。


 案内板に曰く、《入山される皆さんへ……1周には、約4時間半かかります。山の日没は大変早いので、入山時間は厳守してください。……〈入山時間〉春・夏 午後2時まで 秋・冬 正午まで 》
 さいわい制限時刻までまだ2分ある、いざ出発。
 初めのうちは渓流右岸の岩を削って歩道が造ってあり、小さな滝を迂回していくと東屋もある。


 20分も歩くと落差10メートルのきれいな滝が現れる。トッカケの滝である。

 向かって滝の左の緑の合間に3連のアルミ梯子がみえる。まずこれを登る。


 さっきの案内板には《初めて背戸峨廊に入られる方は、無理をしないで「トッカケの滝」を目標にしましょう。》とあったので、ここで3点支持の原則を講義。
 右手左手が2点、右足左足が2点を合わせて4点、両手両足で身体を支えます。身体を移動させるときには、3点で身体を支えたまま、移動する方向に1点だけ伸ばして、体重を移動させます。
 みなさん飲み込みが早い。3連のアルミ梯子が終わるとちょっと左にトラバースし、さらに鎖付きの鉄梯子になるころには、上体を起こして登ってくる。
 身体を硬直させ梯子にしがみついているようだと、引き返してもらうほかない。
  ここから基本的には、両手を振って歩ける登山路はなくなる。水流で抉られた岩盤のでこぼこを上ったり下ったり、垂直の岸壁に飛び飛びに続いているステップを伝って行くことになる。もっとも壁には鉄の鎖が延々と張ってあるので、技術的に難しくはない。身体を鉛直に立て、鎖をつかんで心持ち身体を岸壁から離せば、ステップが沢側に傾いていてもまずスリップすることはない。 


 登山路のすぐ脇を奔流が流れ落ちている釜ん淵を過ぎると、水流が緩やかになって珍しく河床に砂がたまっている。と思ったら流木の山である。


 アルミ橋で左岸に渡ると、ステップが小さいへつりが続くようになる。鎖の扱い方が分かってきたようで、カメラを構えると、手や脚を上げてポーズの余裕すら出てくる。ボルダリングの技術はまだ教えていないんだがなア。 

  
 このあと右岸に渡り、左岸に渡り返しているとる、水流が扇形に分かれる片鞍の滝に出る。


 滝の右に長い鉄梯子があるが途中2カ所にガムテープが下げてあるので、ピンクのマーキングに従って、その右のガレ場を登るとクロスして左向きの鉄梯子あり、この繋がりが慣れない人には難しいのかもしれない。


 背戸峨廊に入って1時間40分、右に傾斜した大岩盤を流れ下る滝がある。龍門の滝である。


 ここは向かって左、右岸に回り込んで続く斜めの長い岩盤を鎖伝いに登る。


 それからも左岸に渡り、右岸に渡り、くねくねと続く5連の梯子を登ったり、下り梯子は後ろ向きで下りたり、16時30分、三連の滝が見えてくる。


 本日の沢登りはここでおしまい、ここから沢筋を離れて急坂を尾根筋に出る。ゆっくりコースは緩い尾根道で、路面に石ころ一つない歩きやすい土道である。

 17時44分入り口の駐車場を通過、17時53分朝日屋に帰着。所要時間4時間05分也。

 
 驚いたことになんとこの小父さん、疲れたでしょうと言いながらお茶の接待をしてくださる。

 素晴らしい峡谷美を愉しみ、充実した沢登りに満足して帰ってくると、阿武隈の人のやさしい心遣いが待っていたのである。
 ゆうゆうあぶくまラインには、もっと時間をゆったりとって、また来てみたいものである。
 列車は6時10分江田駅発、6時33分小野新町駅着。同35分には駅前の旅館・西田屋支店にチェックインすることができた。

富士山のメタファーが変質する

  ことしも青春18きっぷ、春期シーズンが終わった。
 人生のサンセットに近い私は、ことしも3セット利用させてもらった。
 山樂カレッジの山行や夏の富士山・峯入り修行のための挨拶回りもあったが、図書館通いが12人/日。富士宮市立中央図書館や山梨県立図書館、大月市立図書館にもちょろっと行ったが、10人/日は静岡県立図書館歴史文化情報センターであった。

 すでに紹介したことだが(2018.10.07Sunday オールコック異聞 その3)、ここでは明治以来の新聞のマイクロフィルムがA3版にプリントしてあるので、効率的に紙面チェックができる。このところ『静岡民友新聞』をずうっと眺めていて、富士山関係の記事を中心に拾っている。

 この春は昭和8年4月から13年3月までをめくった。1か月半ずつ製本してあるVol.236からVol.282まで眺めて、ざっと1200枚のコピーを撮った。
 この間の歴史上の大事件としては昭和12年(1937)7月7日に起こった蘆溝橋事件、すなわち日中戦争勃発が挙げられるだろう。
  例年春先から紙面には、山小屋の準備やら登山道整備の記事が載りはじめ、開山の7月を迎えると登山記事が連日の洪水となり、8月後半になると右下がりに少なくなっていく。ところがこの年、昭和12年は初めから記事本数が少ない。
 煩わしいかと思うが、7月1日以降の記事タイトルの書き出したを眺めていただきたい。
     ◇      ◇      ◇
深雪の富士へ軍隊夜間登行 宇都宮聯隊の壮挙」(7月1日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(一)」(7月1日付夕刊)
残んのお化粧美しく 富士山お山開き 室も開いていよゝゝ準備」(7月1日付朝刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(二)」(7月2日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(三)」(7月3日付夕刊欠号)
「本社主催 富士を中心にして語る(四)」(7月4日付夕刊)
大宮口の登山者 天候回復に元気で」(7月4日付朝刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(五)」(7月6日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(六)」(7月7日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(七)」(7月8日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(八)」(7月10日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(九)」(7月10日付夕刊)
国鉄夏の陣立 登山・探勝・海水浴等々の割引」(7月11日付夕刊)
元気=百十歳翁 白装束姿も甲斐々々し」(7月11日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十)」(7月11日付夕刊)
行列そろえて大社に参詣 百十歳翁の元気」(7月11日付朝刊)
白衣に六根清浄 百十歳翁元気で登山 早暁大社前に勢揃ひ」(7月12日付朝刊)
百十歳翁富士頂上を極む」(7月13日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十一)」(昭和12年7月13日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十二)」(年7月14日付夕刊)
百十歳翁と語り合つて静岡師範富士登山隊帰る」(心持」(『静岡民友新聞』昭和12年7月15日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十四)」(7月16日付夕刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十五)」(7月17日付夕刊)
羅府ボーイスカウトが“五湖めぐり”から大宮へ」(7月17日付朝刊)
「本社主催 富士を中心にして語る(十六)」(7月18日付夕刊)
大宮署長が試みた富士登山標準時間 大宮口制破十二時間」(7月18日付朝刊)
大宮口賑ふ きのふ登山客八百名」(7月22日付夕刊)
「暑中御伺 東海道線御殿場駅前富士登山御殿場口営□組合 東海道線御殿場駅前富士登山自動車営業組合ほか」〔広告〕(7月25日付夕刊)
羅府の若人 ゆうべ大宮に一泊 けさ勇躍登山の途に」(7月26日付朝刊)
静岡少年団 富士登山 けふ雨を冒し勇躍出発」(7月27日付夕刊)
登山病者のために村田県防疫医活動 富士八合目県救護所に詰切り」(7月29日付夕刊)
富士閉山」(『静岡民友新聞』昭和12年9月1日付朝刊)
     ◇      ◇      ◇
 32本の記事が載っているように見えるが、新聞記者が雑談して机上で書いた記事が16回分あるからこれを1本と見なし、1ぺージ広告1回を除けば、記者が取材して書いた記事はわずか15本ということになる。

 しかも110歳翁の登山記事5回と、ロサンゼルス若人の記事2回をそれぞれ1本とみなせば、富士登山の記事は絶滅したほどに少ない。
  日付にも注意を払っていただきたい。

 7月29日付の救護センターの記事の次は9月1日付の閉山記事に飛ぶ。

 昭和12年8月、富士山は存在しなくなったような印象で、秋になっても富士登山関係記事が復活することはない。
 この日、というのはことしの3月26日の夕刻、『静岡民友新聞』をVol.272、昭和12年10月1日〜11月15日の晩秋までめくっていって、富士登山関係の記事が一本も登場しないことに異変を感じた。

 その代わり中国大陸各地に侵攻する日本軍の赫々たる戦果と、9月にはいると戦死者・戦傷者記事の大洪水になる。そしてそのなかに、消えたはずの富士山が復活していることに気づいたのである。
 図書館通い次の日には、目線を変えて、昭和12年7月1日までさかのぼって『静岡民友新聞』をめくりなおしてみた。
 その結果が、以下の追加記事である。
    ◇     ◇      ◇
「弾丸の炸裂は花火のやうぢやゾ 富士の見へぬを淋しがる喜多少将」(8月24日付夕刊)
岳南魂を発揮して北支に活躍する勇士」(9月3日付夕刊)
江南の華と散る若人 霊峰下の日本魂」(9月12日付朝刊)
岳麓の勇士 武門の誉 戦死二回の家 須津村半田上等兵」(9月18日付朝刊)
霊峰下勇士」(9月19日付朝刊)
「上海戦線に散る華 涙一滴見せぬ家庭の人々 富士郡」(9月20日付日曜夕刊)
「江南を彩る皇軍の花 霊峰下勇士」(12年9月21日付朝刊)
一死覚悟の上 雄々しき家庭 富士郡下に咲く銃後談」(年9月23日付夕刊)
岳麓の名誉」(9月25日付夕刊)
霊峰に輝く武勲 護国の人柱勇士」(9月27日付朝刊)
富岳にまさる勲功弥や高し 富士郡下の戦傷者」(9月28日付夕刊)
「楊行鎮激戦に散る霊峰下の三勇士」(9月29日付夕刊)
     ◇     ◇     ◇
 富士山になぞらえて、死を悼んでいるのか死を讃美しているのか、理解に苦しむ記事が並ぶようになる。この時点で、人々にとって富士山のメタファーは変質したようである。
 このところ世界文化遺産に絡んで、マスコミに“霊峰”という表現が目立ってきている。その人はこのような言葉の歴史を知って使っているのかどうか、気になるところである。
 奇しくもことしのエイプリルフール、4月1日夕刊のトップニュースは新元号の発表であった。
  令=イヒツケ、申渡シ、オホセ、ミコトノリ、……
  和=ヤハラグ、シタガフ、カナフ、不堅不柔、……
 いずれも『大字典』(上田万年ほか編、講談社、大正6年初版)に書かれている字訓である。
 レイワという音だけ聞いて明るい未来を期待ずる人もいるようだが、お上の管理が強まって生きづらい世の中になるかもしれないと心配するのは、私のように旧い教育を受けた老人の杞憂であろうか。

白鳥山から富士山を眺める

 静岡県道223〔ふじさん〕号では、道路交通法は適用されない。 

 静岡県の清水港と土肥港を結ぶ海上航路だからである。

 この海上からの富士山の眺めが素晴らしいと評判になり、観光目的で県道に昇格したのが2013年4月。

「駿河湾フェリー」は一躍有名になったが、駿河湾沿いの陸上道路網の発達はいかんともしがたく、2019年3月末で廃止と発表されたのが昨年5月のことである。
 そこで今年の新年登山は、ラフカディオ・ハーンも絶賛した海上からの富士山展望を計画したのであるが、昨年末に富士宮駅に貼ってあるJR東海のお知らせに絶句した。


 駿河湾を泳いで渡ることもできず、吉原駅南口の津波タワーやふじのくに田子の浦みなと公園にある富士山ドラゴンタワーからの眺望で誤魔化すわけにもいかず、できるだけ南の方から眺めようと地図で探して、身延線は芝川駅の西にそびえる白鳥山に登ることにした。
  静岡県と山梨県の境界は複雑である。東の端、駿河・甲斐・相模の接する三国山からほぼ西に向かうが、小富士から富士山頂までの間は現在でも県境が未定。山頂から西に下りながら10キロほど北上して、本栖湖の南岸・竜ケ岳からは天子山脈を南下して富士川を越えて駿河湾にあと10キロまで迫り、今度はまた北上すること50キロ、白根三山の間ノ岳が駿河・甲斐・信濃の境界になる。

 その南端近くにあるのが白鳥山であるから、富士山を南西方向から眺めることになる。

 登り方は至って簡単である。静岡県側の身延線芝川駅から往復とも歩き。

 ただし西富士宮から北は1時間に1本の電車、16時台は一本もない。バスやタクシーがからまないから、下り時間でのバタバタがない。
      *    *    *
 1月26日(土)早朝、日本海に小さな低気圧があって無風快晴だったが、身延線に乗り換えるころから北風になった。高気圧からの吹き出しが始まったようだ。

 とちゅう富士根駅のホームの北端からは電線が一本もない富士山が見える。


 芝川駅は無人駅である。掃除の行き届いたトイレはある。県道を左に行って踏切を渡り、バイパスと合流したところで左折すると鋼鉄製のアーチ橋・釜口橋がある。


 上流側から見るとこのような場所である。


 およそ1万4000年前、富士山から吐き出された芝川熔岩流がほぼ真横から富士川に流れ込んで右岸に大きく蛇行させ、幅広い河川敷を造り、左岸では10メートルも熔岩塊を削り込んで直線の水路を造った。なぜこのように複雑な地形になったのかいまのところよく分からない。
  日本三大急流である富士川の舟運最大の難所がこの釜口峡となったが、川幅が狭いことを生かして古くから橋が架けられていた。
《慶長十三年、神祖駿府御在城の時、台命にて此所に刎ね橋架けたりと云う。》(『駿河記 下巻』桑原藤泰著、足立鍬太郎校訂、加藤弘造出版、昭和7年)
 慶長13年といえば1608年、江戸時代の初めに、神祖すなわち徳川家康の命令で刎ね橋が架けられたというのである。 

 甲州街道の猿橋のような構造だったのだろうか。詳しくは分からないが、何度か掛け替えられるうちに幕末には、藤蔓や竹を縄のように編んで使う吊り橋になったようである。
《其の橋造り毎歳八月竹縄を作り、両岸に岩石を多く積んで中央に題目石を掘り建て、彼の竹綱四本を巻き付けて結び付けかため、此方の岸より彼方の岸へ八筋引き渡し、其の上に竹綱を凡そ九尺計りに切りて隙なく横に結びて、縄簀の如くになし、其の上に厚さ一寸・幅尺許りの長板を正中に一枚通り敷き渡し、其の板の上を歩行す。又左右に橋より少し高く二筋の綱を渡したり。又向こうの岩上橋下の大木より此方の橋上の大木に一筋の大竹綱を張り渡して、釣橋を下より中央のたるむを扣〔ひか〕え置くなり。》(同前)
  次の絵図は『駿河記』を書き残した桑原藤泰が描いたスケッチである。


  ちなみに桑原藤泰(1762〜1832)は、東海道島田宿の作り酒屋に養子にはいり、駿府奉行の『駿河大地誌』編纂計画に従事するが参加者が次々に亡くなり、単独で『駿河記』をまとめたのは文化3年(1806)。しかし桑原家にはすでに財力もなく、『駿河記』が刊行されたのは死後100年経った昭和7年(1932)、『駿河記 絵図集成』が陽の目をみたのは平成10年(1998)のことであった。
 蝦夷地探検で有名な松浦武四郎が明治2年(1869)にこの橋を渡っている。
《如何にも足おのゝきて渡りがたき物なりしに、両掛けを持たせし人足は未だ始めてのよしにて荷を卸して越え難き由申せしに、余も実に当惑したるに、大宮より案内致し来り呉し直吉の養子は、此の内房村の者のよしに而日々渡りしとてすぐ此の両掛けを荷い渡りしが、其の者橋三分も行くや揺れし橋キッとしまり如何にも渡りやすくぞ見えたり。》(「明治二年東海道山すじ日記」『松浦武四郎紀行集(上)』古田武三編、冨山房、昭和50年)

 この橋の明治時代の写真が残っている。


  危うげな吊り橋の向こうに霞んで見えるのが、本日の目標、白鳥山である。
  大正4年(1915)この100メートル下流、おそらく現在の釜口橋の位置に、長さ34間・幅9尺、木造トラス補鋼の鉄線吊り橋が架けられる。しかし大正7年(1918)年10月28日、豊橋歩兵第六十聯隊が通過中に落下、死者7人という大惨事を引き起こしている。

 
 当時の『静岡民友新聞』は原因を重量オーバーと報じているが、兵隊の揃えた歩調で橋桁の震動が共鳴して大きくなって鉄線が切れたのではないか。

 わたしが小学校時代の遠足で、一行が橋に差しかかると、付き添いの先生が「足並み乱せ!」と怒鳴っていたのは、この事故の記憶があったのではないか。
 われわれは昭和26年架橋の鋼鉄アーチのトラス橋で瀬戸島に渡り、続いて内房橋にかかると右手正面に白鳥山が見えてくる。


 富士川の右岸山裾を右折して間もなく、日蓮宗本成寺の手前に白鳥山への看板がある。10時35分、標高74メートル。
 ちょっと登ると峯集落があって、正面の民家の庭に入っていくと山道が始まる。
  林床がきれいに掃除された孟宗竹の竹林が続く。直径20センチ近い竹も立っている。富士宮市内房はタケノコの産地として有名なところである。
 まもなくお題目塔にぶつかる。左面には「身延道」、右面には「七面宮 安永二癸巳二月日」と読める。右の、20〜30年生の杉の植林地をジグザグに登っていく。
 登山家が造る登山道は最大角度を採って一直線になるが、伐木造林の作業道は一定の傾斜を保ってジグザグになる。作業員が現場に着いたとき、息が切れていたら仕事にならんからである。


 あいかわらず杉林のジグザグを登っているととつぜん、石段と立派な看板が現れる。
《平成十一年(一九九九年)地元有志五人が、定年退職記念に白鳥山登山をおこなった。一行が途中休憩した処に、石ノミの痕跡がある岩が覗いていた。これが参道階段敷石の発見となり、驚きと感動で地元有志が集い発掘のうえ今日の整備に至っている。》
  そりゃ驚いたことであろう。何もないはず土の斜面から175段の石段が現れ、下のお題目塔に書いてある七面宮跡が実在したのである。

 七面宮とはなじみがないが、ここから20キロ北方、身延山の隣の七面山には七面天女が祀ってあるという。
《七面神 日蓮宗の守護神。七面明神・七面天女・七面大菩薩とも称す。本地は吉祥天、または弁財天という。》(『国史大辞典第六巻』国史大辞典編集委員会編、吉川弘文館、昭和60年)
 ところで、今日流通している国土地理院2万5000分の1地図「富士宮」にはお宮マークが記されている。


 こんなちっぽけな無住の廃寺跡がなぜ記載されているのか、疑問が湧く。
 手持ちの地形図を調べてみると、もっとも古い国土地理院5万分の1地形図「富士宮」(1969年発行)、その前の内務省地理調査所「富士宮」(1946年発行)、さらにその前の大日本帝国陸地測量部の「大宮」(1920年発行)にまで溯ってみると、ずっとここにお宮マークが付されている。さらにそれ以前の大日本帝国陸地測量部「大宮」の1913年版、1899年版には記載がない。
 つまり、大正2年から9年の間に行政当局がここに神社があると認識し、地名調書原簿に書き込まれたことになるが、それ以降は誰もがそのことを忘れていたということである。ともあれ、めでたしめでたし。
 国土地理院地形図にはもう一つ間違いがある。
 最新の電子板ではお宮マークが標高280メートル地点に記されているが、今回GPSデータを解析したところ、もっと上、標高430メートル付近ではないかという結論が出ている(地図上の矢印)。展望の利かない杉林のなかであるが、等高線から考えてもそうではないか。
  12時08分、標高470メートルの小ピークに出る。杉の大木の根元に卵形の大石があり、《豊雲野姫金神大神》と陰刻してある。日本神話に出てくる天地開闢の神の1柱である。
 ここから頂上まで標高差100メートル。やや急斜面になるが、《頂上迄350叩佞箸い辰神个良玄韻50メートル置きに建てられている。
 12時26分、標高568メートルの白鳥山山頂である。


《白鳥山砦跡 静岡県との県境の富士川右岸に位置する白烏山にある砦。白鳥山は城取山ともいう(甲斐国志)。……永禄一二年(一五六九)武田信玄が駿河へ侵攻した折設けたという煙火台で、山中には陣場・鞍掛・馬ノ背・大鼓・打揚山などの地名が残る(同書)。「甲斐国志」はさらに白烏山の山名について、白鳥は日本武尊の陵の名であり、駿河にも尊の古跡があることから、山名に冠したとしている『日本歴史地名大系第一九巻 山梨県の地名』平凡社地名資料センター編、平凡社発行、1995年)
  確かに、冨士山麓に軍隊が動けば手に取るように分かる。
 正面に富士山は見えるが、山頂部に雲か掛かってきた。アルプスを越えてきた雪雲だろうか。それにしても富士山の山肌にはほとんど雪がない。
  頂上には戦争にはふさわしくないものもある。石板が立っていて、ハート形の窓が富士山側を向いている。《恋人の聖地》と書かれている。
《恋人の聖地プロジェクトでは、……全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定し、地域の新たな魅力づくりと情報発信を図るとともに、地域間の連携による地域活性化を図っています。》(NPO法人地域活性化支援センター、ホームページ)
 現在「恋人の聖地」は全国で140カ所あるそうだが、ネットで探しても白鳥山は写真は一枚も出てこないし、当の地域活性化支援センターのホームページには静岡県内で8カ所の恋人の聖地が紹介してあるのに、白鳥山は漏れている。
  つのる想いを抑えて、何も言わずにここまで連れてきて、ハイ! プロポーズ、というケースがありうるだろうか。
   *    *   *
 風が出てきた。枯れ草が深いので火が使えない。
 西側、つまり武田側に10分足らず下ると東屋とトイレがあって、ブランコまである。ここで昼食。
 下りはゆっくり歩いて麓の本成寺まで60分、帰りは新内房橋で富士川を渡った。
 釜口峡のいちばん狭い場所に竹綱や藤蔓の吊り橋があったと思われるのだが、いまは直径6メートル、巨大な鉄管を渡すサイホン橋がある。


 鉄や銅の精錬は酸化物や硫化物を高温で融かして還元するが、アルミニウムは電気分解みたいなものだから、大量に電気を必要とする。東海道線蒲原駅近くにある日本軽金属では工場に隣接して富士川第二水力発電所を持っている。


 写真のGoogleのGが発電所で、その右が工場である。
 日本軽金属ではここから7キロ上流に富士川第一発電所を持っており、使った水は富士川に戻さないまま左岸の山中深く掘ったトンネルを通して釜口まで流し、ここで富士川左岸はサイホン橋で越えさせ、瀬戸島からは河川敷の下のトンネルで右岸に渡し、さらに今度は右岸の山中深く刳り抜いたトンネルで10キロ南の蒲原まで送水しているのである。
     *    *    *
 翌1月27日(日)午後、静岡県富士山世界遺産センターで聴きたい講演があるので、皆さんを見送ったあとでその夜は富士宮に泊まり、翌日は朝一から富士宮市立図書館に入った。

 富士山データベース作業の一環で、この日は『岳南朝日』新聞の昭和42〜44年をめくった。釜口峡関係の記事が立て続けに5本も見つかった。
  昭和44年6月11日付「縄橋絵図見つかる 江戸末期の釜口(芝川)風景」
  昭和44年8月18日付「ルポ 釜口を探る(1)悲劇のクロス 昔は舟運、今はダンプ」
  昭和44年8月19日付「ルポ 釜口を探る(2)原始の藤縄吊橋 足がすくんだ旅行者」
  昭和44年8月20日付「ルポ 釜口を探る(3)人命奪った岩々 対策は祈りだけ」
  昭和44年8月21日付「ルポ 釜口を探る(4)釜口版ローレライも 許せない悲劇の放置」
  前日に釜口橋を渡った印象が残っていなければ見落としていたかもしれない。

2年がかりの金剛石 ダイヤモンド富士@女人天上

 明治5年(1872)太政官布達によって女人結界が廃止されるまで、富士山も女人禁制であった。吉田口登山道でいえば、二合目・小室浅間神社の地に道者改所が置かれ、登ってくる道者(登山者)のなかに女性が混じっていると、ここから追い返したといわれる。

 もっとも富士講のなかには禁制に従わない講社もあり、また山麓の御師にも売り上げを優先して女性登山を容認したところもあったようで、富士山が出現したとされる庚申の年には女性登山を推奨したと思われるポスターもつくられている(一恵齊芳幾筆『万延元年庚申六十一年目ニ當リ 冨士山北口女人登山之圖』品川屋発行、万延元年=1860年)。

 それ以外の年はどうであったか。
《ここ〔女人御来迎場〕は正式に認められた場所ではなかったが、……山頂や朝日を拝することができないため、女性は内緒でここまで登って拝したという。……男性であっても、登山期以外の時期にはここを遙拝所として利用したという。》(『富士吉田市歴史民俗博物館企画展図録「富士山明細図」』富士吉田市歴史民俗博物館編、富士吉田市教育委員会発行、平成9年)

 ところでいつ誰が気づいたことか知らないが、太陽暦で1月8日を挟む3日間、この女人天上からダイヤモンド富士が見られることが分かった。よし、見に行こう!
  昨年、2018年1月8日、われわれは勇躍、富士急行線富士山駅に降り立った。しかし天は非情である。

  女人天上の位置は富士山に被る雲ほど高くはないが、あえて登っていこうとは誰も言わない。急遽方向を変更し、船津胎内から吉田胎内、泉水を経て、雨のなかを雁ノ穴まで歩いたのである。
 反省点として、今年はあらかじめ日にちを固定しないでおいて、1月1日の夜に気象占いをして決行日を決めようということになった。気圧の谷通過は1月6日と計算し、7日の翌日予報はご覧の通り。

  8日の朝、富士急行線の電車が寿駅に近づくと、任せてくれと言わんばかりの富士山である。


 富士山駅裏から三立〔みたて〕交通のタクシーに乗る。この会社は迎車料金をとらないので、帰りが便利である。

 馬返までクルマで、登山道に入ってもまったく雪がない。運転手もこの冬の天気はおかしいと言う。風も吹かない。
 一合目・鈴原天照大神の周辺には、一抱えもあるカラマツの大木が50センチの長さに輪切りにして、あちこちに置かれている。

 切り口を見ると洞のない大木で、よほどの強風に倒されたものであろう。倒木を整理した人たちがベンチ代わりにおいてくれたものと思われる。

 しばらく登っていくと、枝葉付きの大木が登山道を塞いでいる。コメツガの古木である。

 こちらはオフシーズン、9月30日・台風24号による風損で、一合目に掃除部隊が入ったときには発生していなかったようだ。

 単独で倒れたものではなく、洞のあるミズナラ(?)の老木が吹き倒されて、道連れにされて複雑な構造になっている。下手に枝払いすると跳ね返ったりして危険である。大型チェンソーで、端から順番に切り刻んでいくほかに片づけようがないだろう。

 二合目・小室浅間神社奥宮前の旧社殿は北半分が崩壊してしまってもはや救いようがない。かつて雨降りにはこのなかで弁当を使うこともあった。こうなるまえに行政はなんとかできなかったものだろうか。

   林道細尾野線に入ると、所々の日陰に吹きだまりの雪が現れた。カチカチに凍っているが斑である。滑るぞとアピールしている氷でも、木の葉や小石、草といっしょに踏み込めば大丈夫で、アイゼンは要らない。
   いよいよ女人天上に近づいて、林道から青空のもと、見上げる富士山は大きく懐を開いている。

 中央のいちばん高いところが白山岳、そこから右手前に下がる屏風尾根。吉田大沢を挟んで左からかぶさっているように見えるのが久須志岳、そして吉田口登山道は左の尾根を登っていく。

  最後の急斜面はコメツガの原生林で、雪がまったくない。

 1時30分、女人天上に着いた。

 東側、つまり朝日の昇る方向はシラビソの人工林がびっしり壁をつくって展望はまったくないが、南側、つまり富士山頂側は大きく切り開かれて展望が利くようになっている。
 これまでは、あの枝が邪魔だとなれば、人目がないことを見計らってゲリラが出動して根元から切り倒していたのだが、いまや恩賜林組合や行政の協力を得て、展望が確保されている。すその路郷土研究会の皆さま、ありがとうございます。 
 左のなだらかなピーク・久須志岳の左から、まぶしく輝く太陽が近づいている。
  1時50分、太陽を遮るように黒い雲が湧いてきた。
 われわれの中に、前世の悪行を悔い改めない奴がいるに違いない!

  おんあびらうんけんばーさらだとーばん

  おんあびらうんけんばーさらだとーばん

  おんあびらうんけんばーさらだとーばん   

 そして最後に、日没寸前に、奇跡が起こる。
         

 われわれは、2年がかりで、ダイヤモンドをつかむことができたのであった。

 

 以下にGPSデータに基づくわれわれの行動ルートを紹介しておこう。

 馬返から一合目は、登りは行政ご推薦の新道、下りは旧道を通った。