青木ケ原の熔岩流:吐き出し口から墓場まで その1

 貞観6年(864)から2年間、富士山北西面の割れ目から熔岩流が吐き出されて青木ケ原樹海がつくられたという。

 熔岩の量は14億立方メートル――縦横高さが1キロの立方体1杯分――で、30平方キロ――東京ドーム640面――の広域に及んで、水深100メートルのセノウミを埋めて西湖と精進湖に切り離した。

 今回はその樹海ではなく、土台となった熔岩流そのものを、吐き出し口からどこまで流れていったか墓場まで観察しようという企画である。
 出発の前日、9月21日18時の現況天気図では、秋雨前線がどっかと本州の東西に横たわっている。

 

 希望を持たせるのは翌朝、22日06時の予想天気図である。

 寒冷前線が未明に通過して、移動性高気圧が張り出してくる図柄である。日本海を北回りで高気圧が南下するばあい、天気の回復が遅れることもあるが、このように南回りでせり出してくるのは吉兆である。
  22日は4時に起床、新聞を取りに出ると霧雨である。気象庁の地域時系列予報「山梨県東部・富士五湖」を見ると、午前9時ごろまで雨が残りそうである。スバルライン三合目を潜るトンネル内で、青木ケ原熔岩流について1時間ぐらい講義して時間稼ぎすることになるかなと思って家を出た。
  小田急線・横浜線・中央線と乗り継いでいくたびに空が明るくなり、四方津では日が差してきた。富士急線で三つ峠駅を過ぎると青空の下に富士山が半分みえる。

 

  全員ぶじ登山バスに乗り換えてスバルライン三合目で下りたのは我々8人のみ。雲はかかっているが空気は乾いている。精進口登山道の概要・資料説明をして出発。
 初めのうちは溝状に抉れた土の道で、富士山本体ができた1万年前のスコリア(多孔質の小石)である。ところどころ雨水に浸食されて熔岩流が露出しているが、登山道と同じ安定勾配だから歩く邪魔にはならない。ウラジロモミの風倒木が目立つが、きれいに掃除されている。この辺り、笹枯れのあとにはミヤマシキミが進出している。

 

 しだいに笹が増えてきて、二合目・富士林道から下は背丈を超す笹になるが、大きく右に、ほぼ直角に曲がる正面の藪の中に踏み跡が見える。

 ここに踏み込むと直径50メートル・深さ10メートルほどの円形窪地がある。斜面から底には苔にくるまれた巨岩がゴロゴロ、乱雑に折り重なっている。とりあえず氷穴(こおりあな)火口列火口1と名付けておこう。

 

  登山道は火口列からいったん離れるが、左に曲がってふたたび右に大きく湾曲するところで、氷穴火口列火口2を見ることができる。

 

 そして火口2の手前に、直径5メートル・深さ5メートルの火口3がある。ここは周囲がぐるりとオーバーハングになっているので、落っこちると、しかるべき道具がないと救助できない。

 

 私がいつ初めて精進口登山道を登ったか記憶にはないが、ここに変な穴があることは気づいていた。なんとなく単発の噴火口だろうと思っていたのかもしれない。はっきり意識したのは15年ほど前である。富士砂防工事事務所(現・富士砂防事務所)の広報誌『ふじあざみ』(第38号、平成14年10月1日)に青木ケ原のレーザー測量写真が掲載されて、これは単発の噴火口ではなく割れ目噴火の火口列だということが分かったのである。

 


 レーザー測量の原理と分解能についてここでは触れないが、これまでの可視光線の航空写真ではぜったい見えなかった登山道の屈曲もはっきり識別できる。この写真からは火口が20以上数えることができる。火口1、火口2も、ここだと指摘できる

 ここを過ぎると傾斜が緩くなって水平近くなり、間もなく一合目・鳴沢林道に着く。横切っているのは甲斐から駿河に抜ける室町時代以前からの若彦路で、ちょっと左に行くと天神峠、峠を越えると氷池にかかわる富士講の石碑があるが今回は割愛して先を急ぐことにしよう。
 このあと長尾山の裾でふたたび風損木が何本も現れるが、こちらは誰も手入れをしていないので、潜れるところは潜り、ばあいによっては迂回する。

 

 このあとは熔岩流のうえに土盛りした直線路を延々と歩いて、ようやく大室山の登山口に着く。
 大室山は3300年前に噴火した円錐形に近い側火山であるから、1200年前の貞観噴火の熔岩流の海に浮かんだ島のようなものである。しかも大室山は熔岩ではなくスコリアを噴出している。

 

 この写真の手前の砂地むき出し部分が大室山の裾のスコリアで、向こうの苔にくるまれているのが熔岩流である。

 

 熔岩流の上の植生は貧弱だが、スコリアには大森林が発達する。

  本日の予定にはこの大室山登山が含まれていたが時間がない。来年は新緑のころに、大室山単独登山を目的にもう一度来ることにしよう。
  風穴というのは火口ではない。熔岩流がたまって冷え固まるとき、カサブタの下にガスが集まって空洞をつくることがある。パチンと弾けてトンネルの入り口が露出する。大室山のすぐ側にある富士風穴は奥行きが230メートルもあり、一年中氷柱も下がっているが、今回は取り急ぎ入り口広場に下りるだけ。

 

 あたふたと上がってきた時はすでに3時15分。

 昭文社の山と高原地図『富士山』によれば、ここから精進湖湖畔の赤池バス停まで95分かかることになっている。河口湖行きバスが4時54分発であるから、まだ間に合う。急げ!
  我々が赤池バス停に着いたのは4時50分。バスは7分遅れの5時01分に到着。

 バス停手前1キロの辺りで、平服でビニルの500円傘を突いて佇んでいる若い女性がいた。両側には薄暗い青木ケ樹海が続いている。「大丈夫ですか?」「はい」
 バス停の道路際に富士五湖消防本部河口湖消防署上九一色分遣所というのがあって、訓練中の隊員にそのことを伝えたところ、「貴重な情報、ありがとうございました」と挙手の挨拶が返ってきた。あの女性ぶじに帰宅できただろうか。
  バスの窓から見ると、茜色に染まりはじめた富士山が、そんなこと知らんよと顔を出していた。

 

                     *                             *                       *
 ここで国土地理院の地形図について言及しておかねばならないだろう。
 今回の山行は、全行程を国土地理院地形図に記載の登山道を歩いたはずである。氷穴火口列火口に入ったときも、荷物は入り口に置いてルートを外れ、また元の位置に戻って出発している。藪漕ぎの新ルートは通っていない。一方でGarminのGPS受信器は腰に着けて歩いたから、全行程の位置情報は記録されているはずである。
 ところが、地形図上の登山道とGPSデータによる歩行位置が合致しないのである。地形図が正しいとすれば我々は登山道を無視して背丈を超える笹藪のなかを歩いたことになり、GPSデータが正しければ地形図はでたらめということになる。
ちなみに手持ちの1:25000地形図、甲府8号富士山の1「鳴沢」の〔昭和31年発行、地理調査所:旧版〕と〔平成27年発行、国土地理院:新版〕を比較してみよう。

 


 中央を斜めに横切る一合・鳴沢林道から左上は両者ともほぼ一致しているが、右下部分は驚くほど食い違っている。とくに問題にしたいのは精進口登山道の「一合」と「二合」の部分である〔黄色部分〕。一般的に言って発行年が新しいほど正確度は増すはずと考えられるが、今回はGPSデータとは似ても似つかない登山道になっている。

 

 とりあえずは旧版にGPSデータを重ねてみよう。方法は、近所に固定した三角点がないので、地形図の「一合」地点と「二合」地点を基準点として、GPSデータを拡大してその2点に重ねたのである〔赤線〕。

 場所のズレはあるが、登山道の屈曲具合はそれなりに反映されていることがお分かりだろうか。「氷穴」の右斜め下には、点々と小さな火口列も描き込まれている。地形図作成者が現地を歩いた情報に基づいていることがうかがえる。
 ところが新版はのっぺりした登山道となっており、GPSデータとは懸け離れている。現地情報はまったく反映されていない。
 さいごにもう一度、先に触れた『ふじあざみ』の記事に触れておきたい。

 

 ここには可視光線写真とそれに基づいて作成された地形図、レーザーパルスによる立体画像が掲載されている。右下の立体画像に注目していただきたい。
 弓射塚とイガドノ山の位置と形がはっきり分かり、登山道の屈曲もくっきりしている。

 しかも、左上の地形図を見ると、どうやらそれらの情報をしっかり反映した地形図があるらしい。

 近いうちに東京・大手町にある国土地理院関東測量部に行って、1:25000地形図「鳴沢」の全図歴を調べてみることにしよう。

 

第8回 聖護院・富士山峯入り修行 グラビア特集

 初日の8月19日は終日ほぼ快晴。運がいいことに、連日の過酷な猛暑は一休み。田子の浦・鈴川海岸から村山・興法寺大日堂まで標高差500メートル、水平距離20キロのアスファルト道。

 

夏には珍しく、終日富士山が見える

                《夏の朝、鈴川海岸から富士山が見えることは珍しい》

 

鈴川海岸で出発の水行

                                《鈴川海岸で出発の水行》

 

富士塚で勤行のあと、大人も子供も“跨ぎ”を受ける

              《富士塚で勤行のあと、大人も子供も“跨ぎ加持”を受ける》

 

                                      《地元紙『富士ニュース』でも報道される》

 

                          《左富士神社で“杖加持”を受ける人たち》

 

                       《松栄堂薬局まえで“杖加持”を受ける人々》

 

 

                    《日吉浅間神社で宮司からお祓いを受ける一行》

 

                       《日吉浅間神社拝殿まえで記念撮影》

 

                     《鯛屋旅館まえで“杖加持”を受ける人たち》

 

                        《千貫松では14キロの西瓜の“お接待”》

 

                《次郎長町では盛大な“お接待”が待ち受けていた》

 

                   《“跨ぎ加持”を受ける次郎長町のこどもたち》

 

 2日目は標高差2000メートルの森林帯。上空は晴れていたが、標高1500〜2500メートル一帯は、駿河湾からの上昇気流のためべとべとの天気。

“”

                   《20日早朝、いよいよ山道に入っていく》

 

                               《札打場での勤行》

 

             《天照教本社まえの朝食は富士宮の和風料理“花月”から出前》

 

                《一ノ木戸あたりは台風12号による風損が生々しい》

 

 3日目も晴れ。朝から西の風が強く、八合目以上に巨大な笠雲ができるが夕刻には治まる。

 強風のもとでの柱源(はしらもと)護摩供の様子は次の動画でお楽しみください。

 https://youtu.be/nylaTOnNa6w

 

                         《浅間大社奥宮まえで記念撮影》

 

             《ガスのかかるなか、御殿場口ルートから下っていく》

 

                  《宝永第1火口から登ってきた一行》

 

 以上、市川和秀・瀧田浩貴・土田純子・土屋四郎の各氏から画像データの提供を受けました。お礼申し上げます。

春日山脱線登山、鉄ちゃんの旅

 あすは中央線石和温泉からバスで鳥坂峠まで上り、春日山が目標である。8月31日夕刻、数日来東北南部に停滞していた前線が南下を始めたようだ。


 翌朝9時の前線の予想位置は、ズバリ山梨県を狙っている。

 がしかし、じっさいの天気がどうなるかはまだ分からない。雨が降ったとしても地域と時間が限定されれば、いまどき濡れても身体が冷えるようなことはないだろう。
 9月1日4時起床。妙に明るいなと思って新聞取りに出てみると、快晴!
 あの前線はどこへ行ったんだ。パソコンを点けて気象庁のレーダー・ナウキャストを開くと、確かに関東地方の大部分には雲一つない。

 しかし、すでに東京都の西端から西、山梨県全域と長野県南部、愛知県まで雨雲でベッタリ覆われていて、雨雲全体が東に進んでいる。 そのうち綺麗な朝焼けが始まる。出発時刻だ。
 町田、八王子と乗り換えて集合場所の高尾駅に近づくと、確かに北の山には雲が下がっているが、南の空には雲間に青空がのぞいている。
 7:10甲府行列車は高尾発。
 レーダー・ナウキャストの画像に大きな変化はない、雨を避けるとすれば伊豆半島か房総に方向転換するほかないかな。というところで、ひらめき。
  今回は参加者全員が青春18きっぷ利用である。新幹線や特急列車はダメだが、在来線ならJRを一日中乗り回してどこまで行ってもいい。今日中に帰ってくればいい。
  8:31下車予定の石和温泉は通過して8:40甲府着。
  改札を出てまずは北口の甲州夢小路。洒落たワインバーなどあるが早朝から開いているわけではない。再建された山手御門に登るとミニ博物館兼展望台になっている。

 レーダー画像にあった雨雲などこへ行ったのか、遠望が利く。再建された時の鐘の向こうにあるはずの富士山は見えない。

 次いで中央線を跨線橋で渡って本丸跡へ。天守台への石段は脛より高い段差もあってけっこう登山気分。

 10:54身延線富士行き甲府発、南甲府駅に近づくと富士山が見えてくる。

 11:41市川大門着。ここは江戸時代から富士川舟運の中継地として栄えた歴史があり、駅舎も何かを語りかけているようだ。

 町の観光案内板によると今日でも和紙と花火の生産が盛んなようで、中央通りを見物しながら1駅引き返して市川本町駅へ。

 そのほか幕末の天保の飢饉のおり、この地で大我講を興した大寄友右衛門が忍野八海を整備して村民救済を図ったと伝えられており(『忍野八海を中心とした富士山信仰と巡礼路』忍野村教育委員会、2015年)、機会があれば再訪したいものである。
 12:19市川本町発は、2駅目の鰍沢口駅行き。身延線には富士駅発の下りも甲府発の上りにも鰍沢口行きという列車がある終始点駅なのだが、駅前には何もない。十谷温泉行きのバスが待っていたがこれは富士川町営のホリーデーバス(土日休日運転)で1日3往復、これに乗ったら今日中には家に帰れないだろう。
 薄日が差しているので富士川土手に行って昼食。ヘクソカズラの清楚な花が満開で、踏んだり摘んだりしないことが肝要である。

 13:14鰍沢口発、15:09富士宮着、静岡県世界遺産センターへ。


 ここでは螺旋回廊を登って頂上まで行くと正面に富士山の大展望という富士登山の疑似体験ができる。笠雲を被った富士山の全体がくっきり。

 2階の映像シアターでは“地の巻”を上映中で、わが聖護院・富士山峯入り修行の一部始終が紹介されている。先駆けとして先頭を歩く筆者は11場面に登場する。
 閉所時刻まで滞在して真ん前の神田川楽座に入って生ビールで乾杯、名物の富士宮焼きそばもいただく。

 18:00富士宮駅発、18:23富士駅乗り換え、19:27熱海駅乗り換えで長い一日の鉄ちゃんの旅を終わったのであった。


 ちなみに藤沢在住の筆者がJR乗車券をそのつど購入すると:
 1940+320+190+1140+1940=5530円也となるが、

 青春18きっぷのおかげで、11850÷5=2370円で済んだ。

台風12号の置き土産 その2

  きのう8月6日は、富士山富士宮口五合目から九合五勺・胸突山荘まで、10キロの荷物の荷揚げをおこなった。21日に聖護院・富士山峯入り修行では山頂で柱源(はしらもと)護摩供を執行するので、法具をあらかじめ揚げておこうというわけである。
 15:30下山を開始。間もなく雨が降りはじめたので雨具を着けたが小降りになったので、17:00元祖七合目で脱いだ。蒸し暑いので、汗をかくよりは濡れた方がいい。
 なにしろ雨具とはいえ、自衛隊の冬季用白ポンチョだから、いったん事あれば雪のシベリアを横断してモスクワまで攻め込まなくてはならない仕様で、夏の富士山向きではない。
 ちょうど身軽になったところで、花月マスターからケータイが入る。
「いま五合目にいる、これから西臼塚におりる」
 きょうアサギマダラの観察のために村山古道に入ることは聞いていた。
「台風12号の風損被害は凄いね。ちょいと直そうと思ったのだが、とうとう本気になって掃除してしまって、こんなに遅くなった」
 蝶の舞いを見に来て力仕事とはご苦労さんです、そいう人柄なんですね。
 歩きはじめて間もなく雨脚が強まり、こんどはボツボツと雨粒が大きい。すぐにポンチョを着直すがあっという間にずぶぬれ。
 土砂降りになってバリバリバリ!!  雷鳴が頭上を駆けめぐる。上空に寒気が流れ込んでいるのだ。
 雹が降りはじめるがさすが冬季仕様だ、びくともしない。
 薄暗くなってきて雷光が見えるので、雷鳴までの時間を数える。
 5秒1500メートル、3秒1000メートル、どんどん近づいている。
 新六合・宝永山荘のトイレ屋根が見えてきたとき、ピカーッ、ゴロゴロドシーン! 雷光と雷鳴の間がない。
 真っ暗な宝永山荘に飛び込んだのは18:00ちょうど。落雷の直撃を避けるため発電機が切ってあるのだ。


 下界の炎熱をよそに、久しぶりに涼しい登山をさせてもらった。

台風12号の置き土産

  7月28日夜から29日にかけて、台風12号が駿河湾沖を西に進んだ。


  富士山頂で安全指導員を務めていた富士宮市の西方義典さん(71歳)は、台風最接近の前に下山しようと判断したのであろうが、それでも途中で強風のために身動きできなくなり、低体温症で亡くなった。
   翌30日夜、静岡県立図書館から帰宅途中の列車のなかで富士宮口新六合目の宝永山荘から電話をもらった。沼津始発18:08上野東京ライン宇都宮行きのこの列車は熱海で5分、小田原で5分と途中停車が長いので、停車ごとに電話を繋いでかなり込み入った話ができる。
 電話口には宿泊客、静岡の田中裕二さんに出てもらった。きょう村山古道を登ってきて酷い目に遭ったという田中さんの話によると、台風による新しい倒木が酷くてとても歩けない状態になっている、自分は7月14日に登って2回目の登山だからなんとか突破できたが、初めての人にはぜったい無理である。
  4日の村山古道ゆったりツアーは不人気のため中止させてもらったが、11日のツアーと20日の富士山峯入り修行に重大な支障が生じるかもしれない(山樂カレッジの行事案内参照)。さっそく実情を調べなくてはなるまい、少々のことなら手直ししながら下ってみることにした。
 8月1日、始発電車を乗り継いで、富士宮駅前8時10分発の富士山五合目行きバスに乗ると9時30分に五合目着、10時には宝永山荘に到着しここが出発点になる。
 初めザレ場にはカラマツの枝葉がやたらに散らばっている。広葉樹は葉っぱを落として小枝を護るが、針葉樹は弱い葉を枝ごと落として本体を護る。台風の風の強さを物語っているようだ。
 下の宝永遊歩道からはシラビソの小枝が散らかるようになる。
 ときに幹が根こそぎ倒れて道を塞ぐ。


 このばあい、登山道幅の右端を鋸で切ってしまう。切り口が鋸の刃を挟んで締め付けないよう、幹を左手で持ち上げる。左手を引っ込めると幹本体が地面に落ちて歩けるようになる。
 生のシラビソは豆腐のように軟らかいから、ほんの2分とかからない。
 シラビソの大木が倒れて登山道を塞いでいる。


 登山道は倒木の左から右下へと曲がっている。登山道幅の左端を切り落とすためには左手で鋸を引かなくてはならない。しかも重い複雑な枝先が絡んでいるので、もう1〜2カ所鋸を入れる必要があるかも知れない。
 この際、カラマツの大木のほうに伸びた梢を3カ所切れば向こうに下ることができる。中央の主幹を別にすれば、残りの小枝は鋸の右引き1回ずつでおわる。小枝の折れ具合から推測すると、あの田中さんもここを押し通っている。
 ナナカマドの大木が倒れて側枝が下向きに6本、櫛の歯のように登山道を塞いでいるところがある。これは枝の根元に鉈を1回ずつ打ち込めば真っ平ら、横たわった幹の下を楽々通過できるようになる。
 一ノ木戸近くまで下がってくるとシラビソの大木が道連れといっしょに倒れている。あの田中さんは道具(鉈や鋸)は持っていないはずだ。どこを通ったのだろう。


 ここでは右手にある丸太は跨いでもらうことにして残し、それ以外の小枝はぜんば鉈で払うと、右に回り込む踏み跡が現れてくる。
 一ノ木戸のすぐ下の風損がいちばん酷かった。


 数本のシラビソが集団自殺したような状態で、1本ごとの木の絡み具合などはよく分からない。

 田中さんは鶴のように長い脚をもっているか、そうでなければ蛇のように匍匐前進ができる人なのかもしれない。

 ともかく登山道の筋道を見極めて、そこにはみ出している小枝大枝・幹はぜんぶ鋸と鉈で切り落として道筋がみえるようにしておいた。

 

 今回の台風12号の置きみやげによって、ここを登ってくる登山者は、初期の村山古道を登ったときのようなワイルドな気分が味わえるのではないだろうか。
 標高2000メートル、横渡にもアサギマダラが吸蜜していたが、1650メートルの高鉢駐車場には20〜30頭のアサギマダラが乱舞していた。

オールコック異聞 その1

 去年の暮れから目の前に、オールコックの影がちらちらしている。
 戌年にちなんで、年賀状にオールコックの愛犬「トビー」を使えないだろうかと、ムラヤマフジコちゃんから問い合わせがあり、それが発端である。 

 駐日初代英国公使オールコックが、万延元年(1860)に西欧人として初めて富士山に登っての帰り、東海道で箱根を越えて東神奈川に帰るのではなく、三島から間道を通って熱海に出て、そこで2週間休養している。
《この閑静な温泉場でわれわれがおくった生活は、単調そのものであった−−そこでのできごとは、早飛脚が到着したことと、いつもわたしの忠実な友であった愛犬のスコッチ・テリアが死んだことだけだ。》(オールコック著・山口光朔訳『大君の都』岩波文庫、昭和37年初版)     
 当時の熱海の源泉は自然のままで、道ばたのあちこちから熱湯がぶくぶくと迸り出ているような状態だったらしい。

《温泉壺数多シ。六ツ八ツ七ツ昼夜六度大熱湯トナル。》( 『伊能忠敬測量日記 伊豆篇』 佐藤陸郎校注・自費出版、2003年)

 公使の愛犬トビーがその一つ、大湯間歇泉の熱湯を浴びて死んでしまったのである。

 

 

 思いがけないことに、村人たちは坊さんを呼んで丁寧に弔ってくれたので猊下は大感激、イギリス国民の親日感情向上に寄与するという美談になるのだが、私に言わせりゃあ、エッ!オールコックは富士登山に犬ころを連れて行ったの?
   
 そう言えば……万延元年7月25日(1860年9月10日)にオールコック一行が大宮(富士宮)を通過したときの記録が残っている。
《「異人等ハ浅間社を拝せずす通り也 別当〔宝幢院〕ニてウドンを多く喰し鮪〔まぐろ〕のさし味を多く喰し アヒルを料理して 生の肉を飯ニかき交て多く喰す …………  羅沙面の小獣を連来ル 鶏 アヒル荷物也》
 ここでいう“羅紗面の小獣”こそが、鶏・アヒルのように生きたままぶら下げられている食料ではなく、まさに猊下お気に入りのトビーのことだと思われる。
 この記録は幕末期に大宮の酒屋さんが書き継いだ日記で、29字×26行×2段組み、B5版、全5冊、900ページちかくが翻刻されている。引用は『駿州大宮町横関本家 袖日記(八番・九番)』(富士宮市教育委員会編・発行、平成12年3月)からである。

 
 
 ただしこの“羅紗面の小獣”、ご主人様が富士登山中、麓のどこでだれが世話をしていたものか、これ以外のことは何も分かっていない。
 数年前にわたしが脊椎管狭窄症&椎間板ヘルニアという診断を受けたとき、通院して待ち時間が余りに長いので全冊読んでしまった。というのは言い過ぎで、長い待ち時間を利用して全冊をめくり、いくつかのキーワードを決めてレ印を付けておいた。それがこのときの記憶喚起に役に立ったのである。
 病気のほうは幸い、大袈裟な病名にかかわらず、積極的治療がないまま間もなく自然治癒する。

 膝なら膝、踵なら踵、脊椎なら脊椎というように、整形外科の専門領域は分化しており、各分野の治験を積んだ医者をそろえることは業院経営にとって大変だと理解はできる。しかしか長い待ち時間をすこしでも有意義に過ごせるように、待合室に書見台を設備してもらえるとありがたいのだが。

池塘と花の会津駒ケ岳

 「東日本と西日本では12日から17日頃にかけて最高気温が35度以上となるところがあるでしょう。熱中症など健康管理に注意してください。」(平成30年7月10日15時00分気象庁予報部発表)
 そして7月14日午後1時、会津駒ケ岳滝沢登山口は31℃、山樂カレッジ登山隊は登り始めた。われわれには知る由もないが、ちょうどこのころ東北地方南部の梅雨明け宣言が出されている。

 


  このコースは山頂近くまで樹林帯が続くとはいえ、この暑さのなかを本日の宿である駒の小屋まで、標高差1230メートルを登るのはかなりきつそうだ。
  初めはミズナラの巨樹群に感心し、「ツルリンドウが多いねえ」などとブナの大木が混じってくるころまでは森林観察の余裕もあったが、あとはひたすら水場はまだか? 下ってくる人が、「あと一登りではなく二登りかな」、ぬか喜びしないよう気をつかってくれる。
  随時に休憩を入れながら 水場に着いたのが午後4時。ダケカンバの大木が出てきても急坂はつづき、オオシラビソ帯でようやく傾斜が緩み、最初の高層湿原に着いたのが5時40分。

 

 ここからは会津駒ケ岳(2132メートル)が正面に、ようやく左手に駒の小屋が見え、小屋に着いたときは6時を回っていた。黄金色に夕日が照らされながら自炊の夕食を済ませると間もなく消灯。
 この小屋に発電機はないのでランプが消えると、外は満天の星である。

 

 15日午前4時、雲一片ない青空である。刺すとか噛みついたりはしないのだが、小蠅が何匹も顔や首に止まって五月蠅いので、防虫ネットを被って4時40分に出発。まずは目の前の会津駒ケ岳へ。空身だからきのうとはうって変わってるんるんである。

 


 巻き道で駒ケ岳入り口を過ぎると雪田が現れてくる。夏が短く枯れた草が分解しないまま堆積して泥炭層となって水を貯める。これが池塘である。

 


 雪解けの直後、ほかの植物が芽生えないうちにまず花を咲かせるのがショウジョウバカマやハクサンコザクラ。

 

                          中門岳(2060メートル)は冬には雪の吹き溜まりになる。

 


 イワイチョウの花やワタスゲの穂が木道わきに続く。

 


 

  そのほか、コバイケイソウ、チングルマ、コイワカガミ、ハクサンチドリ、キソチドリ、ハリブキ、ネバリノギラン、バイカオウレン、ツマトリソウ、ゴゼンタチバナ、マイヅルソウ、ハクサンシャクナゲ、ベニサラサドウダン、ギンリョウソウなど春の花が咲き乱れ、ずっと下ってくるとヤマブキショウマ、オカトラノオ、キツリフネ、ヤグルマソウ、ヤマアジサイ、タマガワホトトギス、そして綿菓子のように広がるオニシモツケ。

 

 登りも下りも暑さに辟易したが、それでもお釣りがくるほどの花の山であった。

富士山・村山入山式の脇道

 西日本大豪雨の悲報がこれから大展開しようという7月9日に東海地方は梅雨明け。 

 翌10日は猛暑のなか、富士山の静岡県側各登山口で山開きが行われた。平日にもかかわらず村山古道入り口にも、300人以上の参拝者があり、神仏混交の開山式典が繰り広げられ、京都は聖護院の山伏による採燈護摩焚きが掉尾を飾った。

 


 それに先立ちわたしは、道者道の補修と村山古道の整備をおこなった。
 むかしの富士山信仰登山をする人を道者といい、道者が歩く道だから道者道。
 富士宮市街地から村山まで断続的に続いているが、江戸時代以前からの古い姿を残しているのが、くねくねの国道469号にある粟倉観音堂から村山・西見付までの急坂、800メートルの間である。

 


 左は『富士根村精細地図 最新地番地目地積入』(秋山工務店、昭和29年)で、右は『ゼンリン住宅地図 SHIZUOKA富士宮市』(ゼンリン東海、2010年)である。
 黄色い部分が国道469号で、くねくね部分は現在でも往復1車線、大型バスは入れないどころか小型車同士でも擦れ違いができない。「富士根北公民館で右折しないで」とこのルートを指示すると露骨に嫌がるタクシー運転手もいる。
 赤線部分が道者道で、半世紀前の土地利用図でははっきり全コースが描かれているが、こんにちの住宅地図ではまったく分からない。ただ後者をよく見ると「山辻の石畳」と書かれた右側にわずかな破線があり、かろうじて石畳道の存在を示している。
  ここでようやく本題に入るのだが、村山入山式当日には富士宮歩こう会の人たち100人がここを歩いて村山に入るというので、先日は同会が道者道の整備したという。まことにめでたいことである。
  ところがわたしが9日に行ってみると、石畳から上の部分はチェンソーと刈り払い機が入ってきれいに掃除してあるが、石畳までの下半分はまったくの手つかずである。

 


 富士宮歩こう会の人々は山辻の石畳までどこを通って来たんだろうか。まさかヘリで飛来してロープを垂らして懸垂下降したわけでもあるまい。
 ヒントは富士宮市教育委員会の《歩く博物館 D 富士根北地区 「道者道を歩くコース」》 にあった。

 


 これによると、山口鉄工所の左を藪の茂った道者道に直進しないでアスファルト道を右折し、突き当りのカーブミラーのところを左折してゆるゆる上って、山辻の石畳をそのまま通り過ぎて国道469号のくねくね部分に出て、バイパスが完成したために行き止まりの盲腸道になった469号を本来の道者道まで辿るという全面的な迂回路である。
 つまり富士宮歩こう会のコースは、前半の山辻の石畳までは行政ご推薦の自動車道を歩き、後半は行政の指導に従わないで独自の道を切り開いたということになる。もちろん各主催団体には独自に練り上げられた目的と参加者全体の力量の評価があるので、わたしはそれがいいとか悪いとか言うつもりはない。
 ただ1年間に10人でもいいから、山辻の石畳までの下の部分を歩いてもらえると、歴史の道が保存できるのだがな、という思いはぬぐいがたい。

 


   小さな沢に架かっていた橋は崩れ落ちているが、足許はまったく傷んでいない。チェンソーどころか、鉈を抜くこともなかった。とりあえずは鎌一本で、顔に枝葉がぶつからないで通過できるようにしておいた。

『週刊新潮』砲!!

  3週間前に入梅宣言が出たばかりというのに、もう梅雨明けの気圧配置になってしまいました。身体が暑さに慣れていないので、熱中症などに注意して体調管理に気を配ってください。
 ところで、昨日6月28日(木)発売の『週刊新潮』(7月5日号)の巻頭カラーグラビアをご覧になりましたか。

 スキャンダルではありません。

 

 じつはわたくしも小さく登場しているのですが、さてどこに居るでしょうか。
 税込み400円しますが、余裕のある方はご購入いただいてお調べください。

講演依頼の余得

 

  北斎の『冨嶽三十六景』の1枚に「尾州不二見原」がある。

 


 大桶の中に職人が入って、中刳りの遣り鉋を使って仕上げをしている大胆な図柄である。その職人の後ろの遠望に白く雪を戴いた山があるので、これは富士山だと思ってしまうのがふつうの人情である。
 ところが、現在の名古屋市中区一帯の冨士見原から富士山は見えないという指摘が早くからあって、では北斎が描いた山はどこかと古文献をあさり現地まで行って丹念に調べた論文があって、山岳雑誌『岳人』に載っていることを聞きつけたので横浜市立中央図書館まで行ってバックナンバーを探してコピーを撮ったことは覚えている。しかし、そのコピーをどこにしまい込んだのか分からなくなって、さほど切迫した必要もないまま荏苒時が過ぎていた。
      *      *      *
 カワカブ会から講演依頼がきたことはすでに6月2日に書いた。そして昨日6月24日、「麓から登る富士山 富士山信仰の歴史と登山道の変遷」というタイトルで2時間ほど喋った。会場は新宿歴史博物館の講堂、座席定員90人のというのでたじろいだが聴講者84人という大盛況。閑古鳥が鳴くようでは申し訳ないと心配していたが、カワカブ会や山樂カレッジの関係者のご協力に感謝しなくてはならない。

 


 わたしが富士山にかかわるようになって20数年は、ちょうど富士登山史研究が飛躍的に発展した時期でもある。明治の廃仏毀釈で廃絶された峯入り修行は村山古道の再生で復活した。世界文化遺産運動は官製の翼賛運動として始まったが、各地に眠っていた富士山信仰の様々の動きを呼び醒ますことになり、民間レベルでの研究も盛んになった。この間に大量の史資料が発掘されて論文が書かれ、考古学が介入してきたことも大きい。それらの成果を通観して皆さんに披露できれば社会的意味もあるし、わたし自身にとっても今後の研究方向も見えてくるのではないか。
 準備は、手持ちの書籍やコピーから関係ありそうなテーマを選んでいくことから始まる。それらを並べ替えながら歴史的・論理的なストーリーを組み立てていく。ところがたちまちにして、こういう資料があったはず、ああいう論文があったはずということになって作業は大渋滞に陥る。
 電子化が済んでいる画像や資料はキーワード検索ができる。単行本や、コピーでも半冊以上のボリュームがあれば厚紙のフラットファイルに綴じてある。しかしスポット的に見つかった数枚の論文コピーは、ほとんどがチョイ置きである。テーマのまとまりもなくそのつど順番に重ねておく。そういう山がパソコン机の横に2カ所、本来の机の上と下に数カ所、本棚からは本を抜いて積み上げてあるというありさま。たまに雪崩が発生してやむなく整理することもあるが、多くはそのままである。

   コノハナサクヤヒメのお父様は大山祇神であるが、わが家に繁殖しているのは大山積みの紙である。
 それでも今回のような大きなテーマにとりかかるときには、記憶の限りにひっかきまわして山積みの紙を1枚ずつ剥がして、発掘していく。見つからなければテーマから外す。逆に、探してもいない思わぬ宝石が出てくることもある。
   富士山信仰に係わるもっとも古い女神像が南アルプス市の江原浅間神社にある。11世紀の一木づくりである。この女神のカラー写真が確か、『富士山−信仰と芸術』(「富士山−信仰と芸術」展実行委員会編・発行、平成27年)に載っていたはずだ。

 


 めくっていると5〜6枚のA4コピーが落ちた。1枚目は『岳人』の表紙で、「1994 MAY No.563」とある。
 これだこれ! ここに載っているのが安井純子の「まぼろしの富士山を検証する」、つまり本稿冒頭に書いた「尾州不二見原」を詳細に検証した論文である。
 実にうれしい。紙の地層をいくらめくっても出てこないわけだ。
 時たま舞い込んでくる原稿依頼や講演依頼があると、たいていこういう発見があって、わが家の大山積みの紙はわずかながら整理される。ありがたいことである。