オールコック異聞 その1

 去年の暮れから目の前に、オールコックの影がちらちらしている。
 戌年にちなんで、年賀状にオールコックの愛犬「トビー」を使えないだろうかと、ムラヤマフジコちゃんから問い合わせがあり、それが発端である。 

 駐日初代英国公使オールコックが、万延元年(1860)に西欧人として初めて富士山に登っての帰り、東海道で箱根を越えて東神奈川に帰るのではなく、三島から間道を通って熱海に出て、そこで2週間休養している。
《この閑静な温泉場でわれわれがおくった生活は、単調そのものであった−−そこでのできごとは、早飛脚が到着したことと、いつもわたしの忠実な友であった愛犬のスコッチ・テリアが死んだことだけだ。》(オールコック著・山口光朔訳『大君の都』岩波文庫、昭和37年初版)     
 当時の熱海の源泉は自然のままで、道ばたのあちこちから熱湯がぶくぶくと迸り出ているような状態だったらしい。

《温泉壺数多シ。六ツ八ツ七ツ昼夜六度大熱湯トナル。》( 『伊能忠敬測量日記 伊豆篇』 佐藤陸郎校注・自費出版、2003年)

 公使の愛犬トビーがその一つ、大湯間歇泉の熱湯を浴びて死んでしまったのである。

 

 

 思いがけないことに、村人たちは坊さんを呼んで丁寧に弔ってくれたので猊下は大感激、イギリス国民の親日感情向上に寄与するという美談になるのだが、私に言わせりゃあ、エッ!オールコックは富士登山に犬ころを連れて行ったの?
   
 そう言えば……万延元年7月25日(1860年9月10日)にオールコック一行が大宮(富士宮)を通過したときの記録が残っている。
《「異人等ハ浅間社を拝せずす通り也 別当〔宝幢院〕ニてウドンを多く喰し鮪〔まぐろ〕のさし味を多く喰し アヒルを料理して 生の肉を飯ニかき交て多く喰す …………  羅沙面の小獣を連来ル 鶏 アヒル荷物也》
 ここでいう“羅紗面の小獣”こそが、鶏・アヒルのように生きたままぶら下げられている食料ではなく、まさに猊下お気に入りのトビーのことだと思われる。
 この記録は幕末期に大宮の酒屋さんが書き継いだ日記で、29字×26行×2段組み、B5版、全5冊、900ページちかくが翻刻されている。引用は『駿州大宮町横関本家 袖日記(八番・九番)』(富士宮市教育委員会編・発行、平成12年3月)からである。

 
 
 ただしこの“羅紗面の小獣”、ご主人様が富士登山中、麓のどこでだれが世話をしていたものか、これ以外のことは何も分かっていない。
 数年前にわたしが脊椎管狭窄症&椎間板ヘルニアという診断を受けたとき、通院して待ち時間が余りに長いので全冊読んでしまった。というのは言い過ぎで、長い待ち時間を利用して全冊をめくり、いくつかのキーワードを決めてレ印を付けておいた。それがこのときの記憶喚起に役に立ったのである。
 病気のほうは幸い、大袈裟な病名にかかわらず、積極的治療がないまま間もなく自然治癒する。

 膝なら膝、踵なら踵、脊椎なら脊椎というように、整形外科の専門領域は分化しており、各分野の治験を積んだ医者をそろえることは業院経営にとって大変だと理解はできる。しかしか長い待ち時間をすこしでも有意義に過ごせるように、待合室に書見台を設備してもらえるとありがたいのだが。

池塘と花の会津駒ケ岳

 「東日本と西日本では12日から17日頃にかけて最高気温が35度以上となるところがあるでしょう。熱中症など健康管理に注意してください。」(平成30年7月10日15時00分気象庁予報部発表)
 そして7月14日午後1時、会津駒ケ岳滝沢登山口は31℃、山樂カレッジ登山隊は登り始めた。われわれには知る由もないが、ちょうどこのころ東北地方南部の梅雨明け宣言が出されている。

 


  このコースは山頂近くまで樹林帯が続くとはいえ、この暑さのなかを本日の宿である駒の小屋まで、標高差1230メートルを登るのはかなりきつそうだ。
  初めはミズナラの巨樹群に感心し、「ツルリンドウが多いねえ」などとブナの大木が混じってくるころまでは森林観察の余裕もあったが、あとはひたすら水場はまだか? 下ってくる人が、「あと一登りではなく二登りかな」、ぬか喜びしないよう気をつかってくれる。
  随時に休憩を入れながら 水場に着いたのが午後4時。ダケカンバの大木が出てきても急坂はつづき、オオシラビソ帯でようやく傾斜が緩み、最初の高層湿原に着いたのが5時40分。

 

 ここからは会津駒ケ岳(2132メートル)が正面に、ようやく左手に駒の小屋が見え、小屋に着いたときは6時を回っていた。黄金色に夕日が照らされながら自炊の夕食を済ませると間もなく消灯。
 この小屋に発電機はないのでランプが消えると、外は満天の星である。

 

 15日午前4時、雲一片ない青空である。刺すとか噛みついたりはしないのだが、小蠅が何匹も顔や首に止まって五月蠅いので、防虫ネットを被って4時40分に出発。まずは目の前の会津駒ケ岳へ。空身だからきのうとはうって変わってるんるんである。

 


 巻き道で駒ケ岳入り口を過ぎると雪田が現れてくる。夏が短く枯れた草が分解しないまま堆積して泥炭層となって水を貯める。これが池塘である。

 


 雪解けの直後、ほかの植物が芽生えないうちにまず花を咲かせるのがショウジョウバカマやハクサンコザクラ。

 

                          中門岳(2060メートル)は冬には雪の吹き溜まりになる。

 


 イワイチョウの花やワタスゲの穂が木道わきに続く。

 


 

  そのほか、コバイケイソウ、チングルマ、コイワカガミ、ハクサンチドリ、キソチドリ、ハリブキ、ネバリノギラン、バイカオウレン、ツマトリソウ、ゴゼンタチバナ、マイヅルソウ、ハクサンシャクナゲ、ベニサラサドウダン、ギンリョウソウなど春の花が咲き乱れ、ずっと下ってくるとヤマブキショウマ、オカトラノオ、キツリフネ、ヤグルマソウ、ヤマアジサイ、タマガワホトトギス、そして綿菓子のように広がるオニシモツケ。

 

 登りも下りも暑さに辟易したが、それでもお釣りがくるほどの花の山であった。

富士山・村山入山式の脇道

 西日本大豪雨の悲報がこれから大展開しようという7月9日に東海地方は梅雨明け。 

 翌10日は猛暑のなか、富士山の静岡県側各登山口で山開きが行われた。平日にもかかわらず村山古道入り口にも、300人以上の参拝者があり、神仏混交の開山式典が繰り広げられ、京都は聖護院の山伏による採燈護摩焚きが掉尾を飾った。

 


 それに先立ちわたしは、道者道の補修と村山古道の整備をおこなった。
 むかしの富士山信仰登山をする人を道者といい、道者が歩く道だから道者道。
 富士宮市街地から村山まで断続的に続いているが、江戸時代以前からの古い姿を残しているのが、くねくねの国道469号にある粟倉観音堂から村山・西見付までの急坂、800メートルの間である。

 


 左は『富士根村精細地図 最新地番地目地積入』(秋山工務店、昭和29年)で、右は『ゼンリン住宅地図 SHIZUOKA富士宮市』(ゼンリン東海、2010年)である。
 黄色い部分が国道469号で、くねくね部分は現在でも往復1車線、大型バスは入れないどころか小型車同士でも擦れ違いができない。「富士根北公民館で右折しないで」とこのルートを指示すると露骨に嫌がるタクシー運転手もいる。
 赤線部分が道者道で、半世紀前の土地利用図でははっきり全コースが描かれているが、こんにちの住宅地図ではまったく分からない。ただ後者をよく見ると「山辻の石畳」と書かれた右側にわずかな破線があり、かろうじて石畳道の存在を示している。
  ここでようやく本題に入るのだが、村山入山式当日には富士宮歩こう会の人たち100人がここを歩いて村山に入るというので、先日は同会が道者道の整備したという。まことにめでたいことである。
  ところがわたしが9日に行ってみると、石畳から上の部分はチェンソーと刈り払い機が入ってきれいに掃除してあるが、石畳までの下半分はまったくの手つかずである。

 


 富士宮歩こう会の人々は山辻の石畳までどこを通って来たんだろうか。まさかヘリで飛来してロープを垂らして懸垂下降したわけでもあるまい。
 ヒントは富士宮市教育委員会の《歩く博物館 D 富士根北地区 「道者道を歩くコース」》 にあった。

 


 これによると、山口鉄工所の左を藪の茂った道者道に直進しないでアスファルト道を右折し、突き当りのカーブミラーのところを左折してゆるゆる上って、山辻の石畳をそのまま通り過ぎて国道469号のくねくね部分に出て、バイパスが完成したために行き止まりの盲腸道になった469号を本来の道者道まで辿るという全面的な迂回路である。
 つまり富士宮歩こう会のコースは、前半の山辻の石畳までは行政ご推薦の自動車道を歩き、後半は行政の指導に従わないで独自の道を切り開いたということになる。もちろん各主催団体には独自に練り上げられた目的と参加者全体の力量の評価があるので、わたしはそれがいいとか悪いとか言うつもりはない。
 ただ1年間に10人でもいいから、山辻の石畳までの下の部分を歩いてもらえると、歴史の道が保存できるのだがな、という思いはぬぐいがたい。

 


   小さな沢に架かっていた橋は崩れ落ちているが、足許はまったく傷んでいない。チェンソーどころか、鉈を抜くこともなかった。とりあえずは鎌一本で、顔に枝葉がぶつからないで通過できるようにしておいた。

『週刊新潮』砲!!

  3週間前に入梅宣言が出たばかりというのに、もう梅雨明けの気圧配置になってしまいました。身体が暑さに慣れていないので、熱中症などに注意して体調管理に気を配ってください。
 ところで、昨日6月28日(木)発売の『週刊新潮』(7月5日号)の巻頭カラーグラビアをご覧になりましたか。

 スキャンダルではありません。

 

 じつはわたくしも小さく登場しているのですが、さてどこに居るでしょうか。
 税込み400円しますが、余裕のある方はご購入いただいてお調べください。

講演依頼の余得

 

  北斎の『冨嶽三十六景』の1枚に「尾州不二見原」がある。

 


 大桶の中に職人が入って、中刳りの遣り鉋を使って仕上げをしている大胆な図柄である。その職人の後ろの遠望に白く雪を戴いた山があるので、これは富士山だと思ってしまうのがふつうの人情である。
 ところが、現在の名古屋市中区一帯の冨士見原から富士山は見えないという指摘が早くからあって、では北斎が描いた山はどこかと古文献をあさり現地まで行って丹念に調べた論文があって、山岳雑誌『岳人』に載っていることを聞きつけたので横浜市立中央図書館まで行ってバックナンバーを探してコピーを撮ったことは覚えている。しかし、そのコピーをどこにしまい込んだのか分からなくなって、さほど切迫した必要もないまま荏苒時が過ぎていた。
      *      *      *
 カワカブ会から講演依頼がきたことはすでに6月2日に書いた。そして昨日6月24日、「麓から登る富士山 富士山信仰の歴史と登山道の変遷」というタイトルで2時間ほど喋った。会場は新宿歴史博物館の講堂、座席定員90人のというのでたじろいだが聴講者84人という大盛況。閑古鳥が鳴くようでは申し訳ないと心配していたが、カワカブ会や山樂カレッジの関係者のご協力に感謝しなくてはならない。

 


 わたしが富士山にかかわるようになって20数年は、ちょうど富士登山史研究が飛躍的に発展した時期でもある。明治の廃仏毀釈で廃絶された峯入り修行は村山古道の再生で復活した。世界文化遺産運動は官製の翼賛運動として始まったが、各地に眠っていた富士山信仰の様々の動きを呼び醒ますことになり、民間レベルでの研究も盛んになった。この間に大量の史資料が発掘されて論文が書かれ、考古学が介入してきたことも大きい。それらの成果を通観して皆さんに披露できれば社会的意味もあるし、わたし自身にとっても今後の研究方向も見えてくるのではないか。
 準備は、手持ちの書籍やコピーから関係ありそうなテーマを選んでいくことから始まる。それらを並べ替えながら歴史的・論理的なストーリーを組み立てていく。ところがたちまちにして、こういう資料があったはず、ああいう論文があったはずということになって作業は大渋滞に陥る。
 電子化が済んでいる画像や資料はキーワード検索ができる。単行本や、コピーでも半冊以上のボリュームがあれば厚紙のフラットファイルに綴じてある。しかしスポット的に見つかった数枚の論文コピーは、ほとんどがチョイ置きである。テーマのまとまりもなくそのつど順番に重ねておく。そういう山がパソコン机の横に2カ所、本来の机の上と下に数カ所、本棚からは本を抜いて積み上げてあるというありさま。たまに雪崩が発生してやむなく整理することもあるが、多くはそのままである。

   コノハナサクヤヒメのお父様は大山祇神であるが、わが家に繁殖しているのは大山積みの紙である。
 それでも今回のような大きなテーマにとりかかるときには、記憶の限りにひっかきまわして山積みの紙を1枚ずつ剥がして、発掘していく。見つからなければテーマから外す。逆に、探してもいない思わぬ宝石が出てくることもある。
   富士山信仰に係わるもっとも古い女神像が南アルプス市の江原浅間神社にある。11世紀の一木づくりである。この女神のカラー写真が確か、『富士山−信仰と芸術』(「富士山−信仰と芸術」展実行委員会編・発行、平成27年)に載っていたはずだ。

 


 めくっていると5〜6枚のA4コピーが落ちた。1枚目は『岳人』の表紙で、「1994 MAY No.563」とある。
 これだこれ! ここに載っているのが安井純子の「まぼろしの富士山を検証する」、つまり本稿冒頭に書いた「尾州不二見原」を詳細に検証した論文である。
 実にうれしい。紙の地層をいくらめくっても出てこないわけだ。
 時たま舞い込んでくる原稿依頼や講演依頼があると、たいていこういう発見があって、わが家の大山積みの紙はわずかながら整理される。ありがたいことである。

 

富士山のまだら豪雨 その4

 

 前回、6月3日の村山古道補修についてはやり残しがあることを書いておいた。
 札打場の上の土嚢10俵3段の水切りが壊れて越流が起こっていて、早急に補修しなければ水切りの足場自体が流されてしまう危険性があると。
  世の中良くしたもので、強力な助っ人が2人も現れて10日に改めて入山しようということになった。
 難点は天気である。関東・東海に入梅宣言が出されて4日目、そろそろ本格的な雨があってもいいのではないかと思っていると、前日予報では10日の降水確率は90%。

   10日09時の24時間予想天気図はちょっとおかしなパターンで、停滞前線が2本平行している。強い寒波が張り出すときには寒冷前線が2段、3段と構えることは時々あるが、今回はどういうモデルになるのか。帰りには浅間大社の湧玉池で水行して泥を落とすことも覚悟で、土嚢袋75枚、鶴嘴、スコップなどを準備した。


  10日午前5時の気象庁レーダー・ナウキャスト画像をみると予想天気図とはちょっと違う。台風5号の直接的影響はまだこないだろう。この位置の台風はむしろ北寄りの風を呼び込んでくれるで、富士山南斜面では有利ではないか。
 藤沢の自宅を出るときはベッタリ雨雲が垂れ下がるような重い空だったが、丹那トンネルを抜けるとしだいに明るくなり、富士宮に近づくと薄日まで差してきた。
 日曜とはいえ天気予報のせいだろう、一般観光客のクルマはなく、春の花は終わって ヤマボウシとマタタビの白が目立つ。山椒の実を集めているという爺さまが、どこかにないかと話しかけてくる。


 まず壊れた水切りだが、上流側にどっさり土砂がたまっているので、仕事は楽である。排水路を掘り下げて 土嚢12俵を造り、壊れた土嚢の上に積んで、その上に丸太を並べて杉の落ち葉で擬装、登山者に踏むなよと意思表示するのにわずか30分。

 

 空は暗くなってきたがまだ雨は来ない。
 むずかしいのはこの100メートル上の大斜面だ。


 

 左への下りは小型運材車が利用している可能性があるので、通行の邪魔にならないよう、右の少し低いところに2〜3段の土嚢の壁を造ることにした。
 しかもここは斜面の途中で土砂が堆積していないので、土を詰めた土嚢をウンコラウンコラ運んでこなくてはならない。〆て47俵。

 

 上に丸太を並べて擬装するまで合わせて85分。終わったときにポツリポツリと雨が降りはじめた。

 

  この2段構えの水切りがあれば、札打場近辺の足許はかなり安定するだろう。

富士山のまだら豪雨 その3

 すでにお知らせしたように、村山古道の今年の点検は5月4日と20日に行った。1回目は宝永遊歩道から1250メートル下り、2回目はスカイライン横道から350メートル下ったのだが、いずれも膝関節症の悪化を招いたので、3回目は村山から750メートル登ることにした。
 まずは六辻のすぐ上、右側から1トンほどの大岩がぶら下がっていて迂回路を通るようにしたのだが、15年6月にようやく自然落下。しかしこれではとても歩きにくい。


 昨年秋、村山の寺田さんがこの岩を砕いてくださったので迂回路標識も撤去した。 しかし足許は草茫々、両側のアジサイや蔓草は伸び放題。まずは1時間ほどかかって草刈り・藪掃除を済ませて、さらにここに流れ込む雨水量を少しでも減らそうと土嚢積み。あとはできるだけ多くの人に歩いてもらって草を踏みつけていただくほかはない。


 次に、北井久保林道のちょっと下、標高800メートル地点で、間伐材を搬出したトラックの轍が登山道の登り坂を横切っている場所がある。去年から気になっていたのだか、やはり春先の豪雨が登山道に大量に流れ込んで路面を抉り下げている。
ここでは轍を、1本刃の鍬で掘り下げて排水路にして、その下方に倒木を並べて土嚢11俵を積んだ。

 登山者の皆さんには土嚢を踏んで壊さないよう注意を払って欲しい。
 さらに札打場に上がる手前から路面が抉れていて、登山道を大量の雨水が流れたようである。案の定、札打場のすぐ上のこれまで階段状に固まっていた岩が緩んでいる。この上は数百メートルにわたって水平に近い凹んだ作業道が続き、左側の大斜面の雨水を一手に集めて流れ込む地形になっている。だからこの登山道の段差の上には土嚢10俵を3段に積んだ大型水切りを造って右側の大斜面に分散する仕掛けになっている。
 がしかし、土嚢の最上段はすべて破れ、何人にも踏み込まれて凹んだ個所からは越流した様が、一目瞭然である。このままでは段差部分がどんどん後退して、水切り自体が流されてしまうかも知れない。本日は土嚢袋の不足と体力消耗のため、ここの補修はできない。100メートルほど先にも予備の水切りのできる地形がある。いずれも日を改めて来るほかないだろう。
登山者の皆さん、とくにガイドの皆さんには重ねてお願いしたい。土嚢を踏まないでほしい、土嚢の上に乗らないでほしい。
  天照教に近づくと4輪駆動とバイクの傍若無人ぶりが酷くなる。古い作業道から入り込んで登山道を走り回って、路面の岩を掘り起こし、山肌を削り、水切りは踏みつぶしている。「注意!! 対戦車用地雷埋設」なんて警告を提げてもいいのだが、自衛隊の地雷処理班が本気になって出動してきても困るので、なすすべなしである。
* * *
  村山古道沿い、いちばん奥の家は鯛津さん。ちょうど蕪の出荷準備で大忙しだった。水田一枚持たない畑作の専業農家だから、雨水や地下水路の動きにひときわ敏感である。

 春先の雨の降り方は酷かったが、総量は大したことはない。多い年は神社の石垣から水が染み出すこともある、ということだった。

カワカブ会からの講演依頼

 カワカブ会から講演の依頼があった。
 中国はチベット高原の南東部に梅里雪山がある。長さ30キロほどの連山で、最高峰がカワカブ、6740メートルである。といえば何でもないようだが、長江・メコン川・サルウィン川の源流部といえば、冒険家が聞けば心騒ぐ秘境だと想像がつくだろう。

 


 1991年に日中合同登山隊がここをめざして、17人が全滅した。この一帯はチベット仏教徒の聖地として入山禁止となったこともあって、いまだに全山が未踏峰。4半世紀経ったいまでも全員の遺体は発見されて居らず、巡礼の旅を続けているのがカワカブ会である。
  与えられたテーマは富士山で村山古道が中心になるが、この数年係わった甲斐修験にも触れたい、伊勢志摩に残っている富士山信仰も紹介したい、あれもこれも……。
 次の日の未明、役行者が夢枕に立ち、おっしゃった、「まずはカグヤヒメ問題をしっかり押さえること」。
* * *
   金春禅竹の作とされる謡曲「富士山」は、中国・昭明王の臣下が不老不死の薬を求めて、富士の裾野にやってくる。そこで応対するのが赫夜姫。
《おう浅間〔せんげん〕大菩薩とは、さのみは何といふ女の姿。……そもそもこれは、富士山に棲んで世を護る、火の御子とはわが事なり。》(金春禅竹「富士山(金剛流)」『新装愛蔵版 解注謡曲全集巻五』中央公論社、1985)
  15世紀前半、都人士にとってみれば、富士山の赫夜姫信仰は常識であったことがうかがえる。
  では地元、富士山南麓・岳南地方ではどうか。
《一浅間 赫夜姫 本地大日……》(「K11 村山浅間七社相殿」『村山浅間神社調査報告書』富士宮市教育委員会、2005年)
書かれた年代は不明であるが、富士山興法寺境内にあった浅間社の祭神は赫夜姫であり、本地は大日如来だという。富士宮市村山にある富士根本宮村山浅間神社のことであるが、いまは祭神は木花之佐久夜毘売命である。
《六所浅間宮……祭神 赫夜命姫》(新庄道雄『駿河国新風土記』天保5=1834年成立、『修訂駿河国新風土記下巻』国書刊行会、1975年)
  今日、富士市の富知六所浅間神社こと、通称三日市浅間神社の主神は大山祗命、木花之佐久夜売命は配神の一柱である。
  これらの事例は研究者の間では知られていたが、一般には富士山を祭る浅間神社の祭神は万葉の昔からコノハナサクヤヒメだと信じられている。
《主祭神 木花之佐久夜毘売命(別称:浅間大神(あさまのおおかみ))
相殿神 瓊々杵尊(ににぎのみこと)大山祇神(おおやまづみのかみ)
「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだ清らかで気高く美しい富士山。この霊山を御神体として鎮まりますのは、浅間大神・木花之佐久夜毘売命にまします。》(富士山本宮浅間大社ホームページ)
  ところが、富士市今泉にあった古義真言宗の旧東泉院に残っていた社寺などの縁起類によると、岳南一帯はもとより富士山の北側になる忍野あたりまで、ガグヤヒメ信仰が広がっていたことが分かったのである(『富士山縁起の世界−−赫夜姫・愛鷹・犬飼』冨士市立博物館編集・発行、2010年)
 ではなぜ、カグヤヒメがコノハナサクヤヒメにすり替わったのか。
* * *
  事の発端は、たぶん、こうである。  

 江戸時代初期の朱子学者・林羅山は元和2年(1616)東海道を旅行している。
《伊豆の三島は、むかし伊予国より遷して、大山祇紳をいわゐまつる。いつぞや相国の御前にて、三島と富士とは父子の神なりと、世久しく云伝えたりと沙汰有ければ、さては富士の大神を、木花開耶姫と定め申さば、日本紀の心にも、かなひ申べきなり。竹取物語とやらむにいへるかぐや姫は、後の世の事にてや侍らん。》(林羅山『丙辰紀行』) 
事実関係を『日本書紀』に合わせろと主張している。

 ここに出てくる相国というのは徳川家康のことで、「いつぞや相国の御前にて」と思われる文章も残っている。場所は駿府、いまの静岡市である。
《余、駿府に在りて幕下に侍る。次で富士浅間の縁起を見る。聊か其の要を標出して以て此に記すること右の如し。其の余は観るに足らず。》(林羅山『本朝神社考』、谷川健一編集委員代表『日本庶民生活集成 第二十六巻 神社縁起』三一書房、1983年)
「右の如し」とあるようにこの前段で「富士浅間の縁起」がかなり細かく引用してあるのだが、ここ(このブログ)では長すぎるので割愛する。講演会資料ではみなさんのお目に掛けよう。

 まずは仏教批判。
《或は曰く、此の山天竺に有り、飛び来る。或は曰く、浅間大明神は本地大日如来、愛鷹の大明神は本地毘沙門。又曰く、不動明王と。或は曰く、弘法諸尊の石像を造る。或は曰く、智証理智一門記を作ると。皆是れ浮屠氏の誇謾にして世人多く之を信ず。余が取らざる所なり。》(同前)
  つづいてカグヤヒメなど大嘘だと主張。
《且つ又竹中の女を以て桓武天皇の時の事と為し、使者を以て坂上田村丸と為す。是等は大謬説なり。余、万葉集を観るに既に竹姫の事を載す。又竹取物語、賀久夜比売、其の時世を云はず。国史、桓武を山城国柏原の陵に葬る。然らば則ち何ぞ富士崛中に入ることを得むや。》(同前)

 このとき林羅山が目にしたのは静岡浅間神社の資料だったはずで、現物を見ることはできない。しかし前段で引用してある内容を子細に読み込むと、たぶんこれと同じ内容であろうというものがある。浅間大社が発行した資料集に収録されている「富士大縁起」である(『浅間文書纂』官幣大社浅間神社社務所編纂兼発行、昭和6年)。
  今日のホームページとはずいぶん違う内容である。

 


 こちらは漢文の白文で読みづらいことおびただしいが、これまで研究者からも引用されたことがないようなので、これからテキスト化して皆さんにご披露することにしよう。
  * * *
 講演会は6月24日(日)午後2時から、新宿歴史博物館・講堂にて。委細が固まったらまた順次お知らせします。

富士山のまだら豪雨 その2

 

5月4日につづいて20日にも村山古道に入った。こんどは西臼塚駐車場バス停から水ケ塚方向へスカイライン横道を歩いて、標高1350メートル地点から下った。
その手前、二合目林道入り口のすぐ先に「富士市 Fuji City」のプレートがあってその手前に「日沢」と書かれた標識がある。ほんとうの日沢は富士市側に50メートル入ったところにあって、山側の窪みに石垣があって真ん中に土管の穴が開いている。「日沢」と書かれたほうは高鉢駐車場のすぐ東から流れ下っている沢で、一般に通用する名前があるのかどうか分からない(地図参照)。


クルマで走る人には見えないが、スカイラインの谷側を歩いていると異様な林床の光景が目に入ってくる。無名沢手前50メートルから日沢までのあいだ100メートルが瓦礫で埋まっているのである。土石流がスカイラインを越えたのではなく、大量の水が越流したものであろう。前回の記事で中宮八幡堂付近の日沢の底をえぐり取った雨である。

 


村山古道に入ると路面は安定している。熔岩の塊が登山道に散らばっているのは、周辺の高みから転がり落ちてきたものではなく、路面の砂や粘土を雨水が洗い流したあとの残り滓である。歩きやすい登山道にするためには、雨水の勢いを弱め、登山道脇に水流を誘導する“水切り”をこまめに設置するほかない。
ひいてはそれが、登山道を保護することになる。
スカイライン横道から中宮八幡堂までのあいだは、登山道が高みにあって水切りがつくりやすい。周辺から雨水の流れ込みが少ない地形なので、水切りも効果的で、たまった落ち葉を掻き出す程度の掃除で補修は終わる。

 


中宮八幡堂から大淵林道の間はずうっと窪地で水の逃がしようがないので、ダム式の水切りをあと1〜2基造って水勢を弱める以外にないだろう。
今回初めて、大淵林道から村山古道へ、富士山麓山の村から村山古道へと大量の雨水が流れ込んだ形跡が見つかった。これは雨水の通り道のできるだけ上流に堤防のような水切りを造るほかないだろう。

      *          *         *

今回は村山古道で特筆すべき出来事があったことを落とすわけにはいかないだろう。

中宮八幡堂の対岸にある八大龍王・水神祠が日沢の氾濫で流失する危険に晒されていることは前回にも触れたが、この左岸部分についてはなぜか文化財の指定もなく、これまで行政からは何の保護も受けることもなかった。

しかも、勝手に動かしてはいけない!

しかし地元・村山の度重なる要請によってようやく事が動いたのである。

村山古道については、学術調査が行われていないという理由らしいのだが、世界文化遺産の構成要素とは認定されていなかった。富士宮市の当局者によれば、「村山古道は存在しない」のだそうだ。それではユネスコに対して示しがつかないということで静岡県が乗り出すことになり、今年度から学術調査がおこなわれることになった。

先週は火曜日・15日に静岡県と富士市の文化財担当がここに集まり、調査の一環として、とりあえずは保存しておこうということになったのだそうである。

その場に居合わせた村山の人たちがわっさかわっさか、八大龍王と水神祠は、左岸の熔岩流の末端の高台に引っ越してしまったのだそうである。

地形図に見る乙女高原自然観察路の不可解


5月12日(土)山梨県は乙女高原に登った。6月に入れば予約バスが焼山峠まで上がってくれるのだが混雑もするだろうというので、1回乗車200円という山梨市営バスで洞雲寺まで行き、そこから歩いた。ウスバシロチョウが舞いラショウモンカズラとイチリンソウが並んで咲いている焼山林道を2時間弱、乙女高原自然観察路入り口から登山道になる。
元は伐木造林用に造られた作業道であろうか、地形に逆らわない緩いカーブで傾斜は一定である。間もなくベンチのある小さな峠を越えて、ゆったり広い谷の左岸を斜めに登るようになる。地形図ではこの峠から稜線を登っていくことになるが、この斜行道のゆるい傾斜は、こちらが正しい登山道だと主張している。緑といえば沢沿いに点々と跋扈するハシリドコロ、稜線を見上げるとミツバツツジのピンク。ここから上はまだ春の入り口である。


標高1450メートルぐらいだろうか水流を2回跨ぐところに、ベンチが2基ある。脇に乾燥したヌタ場があり、荒れてはいるが正しい登山道であることは間違いない。
しだいに路面が悪くなる。雪解け水や豪雨が凹みに流れ込んで土砂を流して石ころが残り、冬には霜柱が立って持ち上げるので文字通り浮き石になる。その上に去年の落ち葉が積もったままなので足の踏み場がない。
乙女高原の樹冠が見えてくると傾斜がきつくなり、凹み道は分からなくなり、草地に古い踏み跡が現れたり消えたりするようになる。浮き石を嫌った登山者が、高みにルートを採ったものであろう。かつて杣人たちが寝泊まりし、焚き火を繰り返したのであろうか、消し炭が広く散乱している。
葉先が裂けているのでエイザンスミレか。花も蕾もないが一面に広がっているほか、丸い葉・ハート形の葉・細長い葉、さまざまなスミレが葉っぱだけを覗かせていて、踏まずに歩くのがむずかしい。1〜2週間後に来たらどんな光景になるだろう。
下りは浮き石を避けようと、地図をよく見て左岸稜線ルートを下ろうとしたが、どうしても沢筋に下りてしまう。ジグザグの付け方は、登山者が造った路ではなく作業道である。ただしこちらは、倒木や浮き石の状態から考えて、ここ4〜5年はだれも通っていない。やむなく途中から沢筋の浮き石道を下る。3時間前に通過したヌタ場が新しく掘り返されている。鹿か猪か、すぐ近くでわれわれの通過を待っていたかもしれない。


ここに示した地図は国土地理院1:25000地形図「川浦」(平成元年発行)で、赤線はわれわれの歩いた経路をGPSデータでなぞったものである。地図に記載されている観察路が30年前に存在していたことは確かだとしても、では、現在残っている踏み跡やベンチはいつ造られ、いつ荒廃したのであろうか。