富士山のまだら豪雨 その2

 

5月4日につづいて20日にも村山古道に入った。こんどは西臼塚駐車場バス停から水ケ塚方向へスカイライン横道を歩いて、標高1350メートル地点から下った。
その手前、二合目林道入り口のすぐ先に「富士市 Fuji City」のプレートがあってその手前に「日沢」と書かれた標識がある。ほんとうの日沢は富士市側に50メートル入ったところにあって、山側の窪みに石垣があって真ん中に土管の穴が開いている。「日沢」と書かれたほうは高鉢駐車場のすぐ東から流れ下っている沢で、一般に通用する名前があるのかどうか分からない(地図参照)。


クルマで走る人には見えないが、スカイラインの谷側を歩いていると異様な林床の光景が目に入ってくる。無名沢手前50メートルから日沢までのあいだ100メートルが瓦礫で埋まっているのである。土石流がスカイラインを越えたのではなく、大量の水が越流したものであろう。前回の記事で中宮八幡堂付近の日沢の底をえぐり取った雨である。

 


村山古道に入ると路面は安定している。熔岩の塊が登山道に散らばっているのは、周辺の高みから転がり落ちてきたものではなく、路面の砂や粘土を雨水が洗い流したあとの残り滓である。歩きやすい登山道にするためには、雨水の勢いを弱め、登山道脇に水流を誘導する“水切り”をこまめに設置するほかない。
ひいてはそれが、登山道を保護することになる。
スカイライン横道から中宮八幡堂までのあいだは、登山道が高みにあって水切りがつくりやすい。周辺から雨水の流れ込みが少ない地形なので、水切りも効果的で、たまった落ち葉を掻き出す程度の掃除で補修は終わる。

 


中宮八幡堂から大淵林道の間はずうっと窪地で水の逃がしようがないので、ダム式の水切りをあと1〜2基造って水勢を弱める以外にないだろう。
今回初めて、大淵林道から村山古道へ、富士山麓山の村から村山古道へと大量の雨水が流れ込んだ形跡が見つかった。これは雨水の通り道のできるだけ上流に堤防のような水切りを造るほかないだろう。

      *          *         *

今回は村山古道で特筆すべき出来事があったことを落とすわけにはいかないだろう。

中宮八幡堂の対岸にある八大龍王・水神祠が日沢の氾濫で流失する危険に晒されていることは前回にも触れたが、この左岸部分についてはなぜか文化財の指定もなく、これまで行政からは何の保護も受けることもなかった。

しかも、勝手に動かしてはいけない!

しかし地元・村山の度重なる要請によってようやく事が動いたのである。

村山古道については、学術調査が行われていないという理由らしいのだが、世界文化遺産の構成要素とは認定されていなかった。富士宮市の当局者によれば、「村山古道は存在しない」のだそうだ。それではユネスコに対して示しがつかないということで静岡県が乗り出すことになり、今年度から学術調査がおこなわれることになった。

先週は火曜日・15日に静岡県と富士市の文化財担当がここに集まり、調査の一環として、とりあえずは保存しておこうということになったのだそうである。

その場に居合わせた村山の人たちがわっさかわっさか、八大龍王と水神祠は、左岸の熔岩流の末端の高台に引っ越してしまったのだそうである。

地形図に見る乙女高原自然観察路の不可解


5月12日(土)山梨県は乙女高原に登った。6月に入れば予約バスが焼山峠まで上がってくれるのだが混雑もするだろうというので、1回乗車200円という山梨市営バスで洞雲寺まで行き、そこから歩いた。ウスバシロチョウが舞いラショウモンカズラとイチリンソウが並んで咲いている焼山林道を2時間弱、乙女高原自然観察路入り口から登山道になる。
元は伐木造林用に造られた作業道であろうか、地形に逆らわない緩いカーブで傾斜は一定である。間もなくベンチのある小さな峠を越えて、ゆったり広い谷の左岸を斜めに登るようになる。地形図ではこの峠から稜線を登っていくことになるが、この斜行道のゆるい傾斜は、こちらが正しい登山道だと主張している。緑といえば沢沿いに点々と跋扈するハシリドコロ、稜線を見上げるとミツバツツジのピンク。ここから上はまだ春の入り口である。


標高1450メートルぐらいだろうか水流を2回跨ぐところに、ベンチが2基ある。脇に乾燥したヌタ場があり、荒れてはいるが正しい登山道であることは間違いない。
しだいに路面が悪くなる。雪解け水や豪雨が凹みに流れ込んで土砂を流して石ころが残り、冬には霜柱が立って持ち上げるので文字通り浮き石になる。その上に去年の落ち葉が積もったままなので足の踏み場がない。
乙女高原の樹冠が見えてくると傾斜がきつくなり、凹み道は分からなくなり、草地に古い踏み跡が現れたり消えたりするようになる。浮き石を嫌った登山者が、高みにルートを採ったものであろう。かつて杣人たちが寝泊まりし、焚き火を繰り返したのであろうか、消し炭が広く散乱している。
葉先が裂けているのでエイザンスミレか。花も蕾もないが一面に広がっているほか、丸い葉・ハート形の葉・細長い葉、さまざまなスミレが葉っぱだけを覗かせていて、踏まずに歩くのがむずかしい。1〜2週間後に来たらどんな光景になるだろう。
下りは浮き石を避けようと、地図をよく見て左岸稜線ルートを下ろうとしたが、どうしても沢筋に下りてしまう。ジグザグの付け方は、登山者が造った路ではなく作業道である。ただしこちらは、倒木や浮き石の状態から考えて、ここ4〜5年はだれも通っていない。やむなく途中から沢筋の浮き石道を下る。3時間前に通過したヌタ場が新しく掘り返されている。鹿か猪か、すぐ近くでわれわれの通過を待っていたかもしれない。


ここに示した地図は国土地理院1:25000地形図「川浦」(平成元年発行)で、赤線はわれわれの歩いた経路をGPSデータでなぞったものである。地図に記載されている観察路が30年前に存在していたことは確かだとしても、では、現在残っている踏み跡やベンチはいつ造られ、いつ荒廃したのであろうか。
 

きょうは梅雨の走り、オオヤマツミノカミに親しむ

いつ頃から始めたものかわれながらはっきりしないのだが、静岡・山梨両県に残っている新聞を全ページめくって、富士山関係の記事をぜんぶ拾ってみようと思うようになった。

両県内に通うのは青春18きっぷが利用できる期間に集中して、それ以外の時季に晴耕雨読、まさにきょうのような日にコピー整理をすることにしている。

きょう引っ張り出したのは『静岡民友新聞』の明治35年11月〜36年2月のコピー。

 

 

この紙面は明治35年12月21日付2面の下ほうである。

お分かりのようにこの時代、べた記事には見出し活字が使ってないので、◎の下の文章をいちいち読まなければ記事が拾えない。

しかもコピーは新聞1面がA3に縮小してあるから、見出し部分は頑張って読むけれど、本文を読むときには141%拡大コピーをかけないと、眼がストライキを起こす。

きょうは午前10時から始めて午後7時まで、見出し60項目を拾い、本文3本をテキスト化した。

以下にその結果の一部をご覧に入れよう。

「 」内が見出し、日付の後ろの〔 〕は検索用のキーワード、《 》内がテキスト化した文章である。

 

『静岡民友新聞 Vol.35 明治35年11月〜明治35年12月』
「◎富士川の難破船」明治35年11月1日〔富士川水運〕
「◎演習一般方略」明治35年11月1日〔軍事演習〕
「◎第三師団機動演習」明治35年11月2日〔軍事演習〕
「◎大宮町の混乱」明治35年11月4日      ←拾い漏れ
「◎取消」明治35年11月9日〔11月4日付「大宮町の混乱」の取り消し広告←拾い漏れ〕
「◎大宮町々長助役の決定」明治35年11月11日
「◎小学校運動会」明治35年11月12日〔北山尋常高等小学校〕
「◎富岡村政紊乱(六)」明治35年11月12日
「◎富士郡大宮だより」明治35年11月18日〔福地神社〕
「◎上井出小学校の改築」明治35年11月28日〔上井出尋常小学校〕
「◎本門寺五重の塔の大修繕」明治35年12月日〔北山本門寺〕
「◎大宮町有給助役」明治35年12月9日
「◎富士郡農林学校」明治35年12月10日
「◎富士四本山会議」明治35年12月14日〔久遠寺〕〔妙蓮寺〕〔西山本門寺〕〔北山本門寺〕
「◎社寺上地下戻」明治35年12月17日〔御料林〕〔上げ地下げ戻し〕
「◎昨今の富士」明治35年12月17日〔富士山眺望〕
「◎富士の扁額」明治35年12月18日〔富士山博覧会〕
「◎富士郡北部教員会役員」明治35年12月19日  〔佐野万太郎〕〔山口信義〕〔若林重作〕〔大柴亀太郎〕
「◎富士川船の運賃下落す」明治35年12月19日〔富士川水運〕〔中央線〕→テキスト化済み
《◎富士川船の運賃下落す  中央線の大月迄開通したるに付き富士川船の貨物は頓に減少し殆ど以前の半額だにも達せさる程なるか之れさへも賃金の余程低廉ならずは廻送するものなきより自然下落して目下一船三百貫の運賃は五円八十銭なりと》(『静岡民友新聞』明治35年12月19日付)
「◎富士郡の善行家(一)」明治35年12月20日〔白糸村〕〔村松治作〕
「◎富士馬車鉄」明治35年12月21日〔富士馬車鉄道〕→テキスト化済み
《富士馬車鉄  富士馬車鉄道株式会社客車の数は都合拾七台にして毎日十余回大宮鈴川間を往復し其乗客賃は一区弐銭拾区弐拾銭又其収益は六七八月頃富士参詣者の最も多き頃収入あり現今短日にて回転数も一回を減したるが毎日の収入高は約一日平均五拾円一ケ月壱千五百円ありと云ふ》(『静岡民友新聞』明治35年12月21日付)
「◎富士郡の善行家(二)」明治35年12月23日〔原田村〕〔仁藤嘉平〕

 

大山積みの紙との付き合いはこれからも延々と続くのである。

 


 

 

 

富士山のまだら豪雨

5月4日は朝から快晴、5:30、南西の空に居待ち月を見ながら藤沢の家を出る。
富士宮駅前9:00発車の富士山五合目行きのバスの乗客は2人。立ち寄った水ケ塚はフジザクラが満開だが五合目には大きな氷柱、雪はまったくないがまだ冬の世界だ。
まず気になったのは標高2500辰砲△詈永遊歩道。昨春大きなV字谷を刻んだ日沢(にっさわ)源頭部は、今年はどうなっているか。しかし宝永山荘から眺めてみるとなんら異変はない。渡ってみると踏み跡はきちんと残っている。何度かの大雨もここは無関係だったらしい。
日沢源頭部は昨年秋と変わりない一ノ木戸跡から下になると樹間に日沢の左岸が大きく抉り取られているのが見えてくる。標高2000叩富士宮市から富士市に日沢を渡る大きな岩組み「横渡」は、昨年3月時点で流された。日沢ではここ数年雪崩が発生していないので沢筋に土砂がたまることなく、雨でV字形に削られてきた。その挙げ句に岩が流され、河床が深く抉られてしまったのである。
それがきょうは土砂で埋まっていて簡単に渡れる。ズリ面に残された足跡から見ると5月3日未明の豪雨はここにはこなかったらしい。4月6日夜の豪雨を心配して翌朝登っていった 市川和秀氏が発見し、4月21日に登った三尾則之氏のFaceBookリポートの通りである。 昨年急造した「新横渡」は両岸とも高さ1メートル以上削られて河床への上り下りがむずかしくなっている。

新横渡の右岸取り付き

新横渡りの左岸取り付きしばらくは渡河地点が定まらないとになるだろう。昨年つけた「新横渡」の標識と張り巡らしたPP紐などをすべて撤収してさらに下る。
辟易したのは大倒木帯のなかを通じる登山道の荒れ方である。とくに岩屋不動分岐から大樅までの急坂の棒道は、雨を集めて奔流となり、このまま放っておけばV字峡になってしまうんではないかと心配になる。
ずっと下って標高1350鍛賄世蚤嫉蓋兎擦魯好イライン横道を横切る。このちょっと上側にスカイライン側溝の排水管があって、スカイラインの下をくぐって谷側に流す構造になっている。クルマで走る人には分からないが、この配水管の出口の先は不動沢熔岩流の苔庭になっており、「六観音」とされる史跡がある。ところが今回は雨水が流れ込んだ形跡はまったくなかった。
さらに標高1250辰涼羌榿幡堂。日沢を富士宮市に渡るのであるが、驚いたことにこれまで堆積していた土砂が流されて、河床の熔岩流の岩盤がむき出しになっている。

河床の熔岩流がむき出しになった日沢沢伝いに小さな滝を2本登ると、八大龍王・水神・井戸跡の遺跡がある。なぜか行政は史跡だと認知してはいない。
困ったことに洪水のたびに日沢の鉄砲水が左岸を削り、この史跡を脅かしてきたので、地元村山の人たちが蛇籠を組み土嚢を積んで応急策をとってきた。ところが水の勢いは思いもよらず、左岸と蛇籠の間を削り始めたのである。さてどうする、武田信玄でも呼んでくるか。
4月7日の市川写真では、水流が左岸を削りすぎて山が崩れ、大量の土砂が蛇籠を守る形になった。

左岸が崩れて蛇籠を守る(4月7日、市川)そして5月4日の畠堀写真では河床にたまっていた土砂が厚さ30其瓩流されて河床が下がった。

土砂が流されて河床が30センチ下がった
砂の上に残っている子鹿の足跡の新しさからすると、5月3日未明の豪雨は、土石流ではなく大水だったことが分かる。日沢の熔岩流むき出しもこの雨のせいであろう。

今シーズン初の村山古道巡回は延期

5月3日の静岡県は雨の予報だが、〔一般的に言って〕前線の通過が早まるので準備万端、4:00に起床。

ところが気象庁レーダー・ナウキャスト画像を見ると、まさに静岡県全域が強雨帯に覆われている。

 


富士宮駅に着くころには、雨雲が消えている可能性もあるが、日沢の土石流のために登山バスが発車しない可能性もある。

けさの出発は見送って、このところ溜まっている雑務を片付けることにしよう。

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きょうは朝のうちに前線が通過して午後から晴れました。