オールコック異聞 その2

「その1」を上梓(アップロード)したのが7月27日だから、あの殺人的な猛暑をくぐり抜けてずいぶん間延びした話のようになるが、舞台はまだ2017年が暮れて、新年になったばかりである。
  年が明けて3月初め、「富士山学を拓く」と銘打った国際シンポジウム(静岡県富士山世界遺産センター・ふじのくに地球環境史ミュージアム共同主催)が開かれ、2日目の3月4日にイリノイ大のロナルド・トビ氏による「富士山国際化の前史−−江戸期の言説を中心に」と題した基調講演があった。

 そのなかで『日本とペチリ』の著者であるエワード・ド・フォンブランクの紹介があった。おお! るこっく、彼こそはまさにオールコック隊の一員として富士登山に参加しており、オールコック登山の貴重な側面記録を残してくれていたのである。
 トビ氏の説明では、ド・フォンブランクは著書の中で《富士山の図》を紹介しているという。調べてみると『馬を買いに来た男−−イギリス陸軍将校の幕末日本日記』(宮永孝訳、雄松堂、東西交流叢書13、2010年)というタイトルで翻訳・出版されており、その絵図は《富士山の全景》として収録されている。

 

 どこかで見た絵図だなあと首を捻る間もなく、この絵図は《富士山表口眞面乃圖》(麗山白石圖、富士山別當村山興法寺三坊蔵板)の忠実な模写であることが分かる。


  この絵図は、駿河湾岸から富士山頂までを俯瞰した大画面で、西は三保の松原・清見寺から東は沼津・千本松原まで収められている。中間には、愛鷹山と麓を巡る根方街道と下方五社などの社寺、甲斐に向かう南西麓には日蓮宗の富士五山や白糸瀧などの名所が描かれている。登山道は富士川東岸から大宮浅間に向かうルートと吉原宿の西外れからじかに村山に向かう道も明記されている。

 歴史的に意味があるのは村山に「村山浅間御造営所 一山守護不入之地」とあって、周辺に「辻ノ坊」「大鏡坊」「池西坊」の3坊が配置されている。この村山3坊がこの絵図の板元である。山頂に「大日」があり、左上の囲みには村山浅間の由来が書かれていることにも注目しておきたい。
 ド・フォンブランクの絵地図ではマンガの吹き出しのような文字部分は完全な空白になっているが、図柄は《富士山表口眞面乃圖》に忠実にコピーされている。どういう技術を用いたのであろうか。        
 ここでもう一つ注意喚起しておきたいことは、全体の構図がしっかりしていて、細部の描写がひじょうにうまいことである。山襞や植生の描き方に写実性があり、社寺林の描き方も巧みに変化を持たせて画一的ではない。
 麗山白石とは何者であろうか。
 あまり詳しい研究はいまだないようであるが(「富士山と酒を愛した画家・神戸麗山」〔ローリング父さんの富士探遊日記〕)、分かっているところを簡単に紹介しておこう。麗山は享和2年(1802)、駿河国庵原郡で医師の家に生まれたが、幼少より書画に秀で、家業を弟に譲って、文政9年(1826)京都は岸派の人気画家・岸岱に師事している。

 絵図を描かせてもうまいわけだ。
《麗山為人清恬寡慾平生酒ヲ好ム時ニ或ハ連日頽然タリ其ノ画風勁抜能ク岸家ノ蘊奥ヲ得タリ富士図最其ノ得意トスル所ニシテ其ノ世間ニ伝フルモノ亦頗ル多シ静岡浅間神社ニ富岳図ノ扁額アリ天覧ノ印ヲ押捺セリ……岸岱曾テ猛虎図碑ヲ富士山頂ニ建立セントスルヤ麗山其ノ図ニ竹石ヲ合作ス》(「神戸麗山之伝」静岡県立葵文庫資料)
  その後の天保12年(1841)、岸岱から「白石」という号をもらっている。

 話はさらに脱線していくのだが、《富士山表口眞面之図》にはそっくりの絵図がもう1枚ある。



  よく似てはいるが、注意深く見ると大いに違う。まず描線に勢いがない。描かれた道幅が違う。富士山中腹は狭く手前の平地で広いのは遠近法を採ったためではないであろう。道のカーブの省略、山襞や里の田畑の描線が少ないことも勘案すると、手抜きと考えたほうが自然である。なによりも麗山図に比べて、全体から粗雑であるという印象を受ける。
 絵図の説明内容も違っている。「大宮浅間」は「本宮浅間」となり、「村山浅間御造営所 一山守護不入之地」は「奥院大日 根本宮浅間」となり、山頂にあった「大日」は消えて「頂上浅間神社」となった。富士山に吹き荒れた廃仏毀釈の結果である。
 左上の囲み記事は子持ち罫から表罫に変わり、内容は大山・江ノ島・身延山などまでの里程標、つまり観光案内になってしまった。
 作者は左下に《画工 彫工 太田駒吉》となっている。
 太田駒吉といえば、浮世絵の名人彫り師しか思い浮かばない。
《彫駒こと太田駒吉が語る、彫巳(ほりみの)についての技量です。すなわち、役者東海道五十三次の白須賀の猫婆を彫ったのは、巳の、十八の時だと言い、「あの猫婆の長い髪の毛が、ちゃんと毛筋が通り、本はこまかで末まで広がり、しかもフワリとして一本も乱れて居ない手際、あの百枚余りの続き絵の中で、第一等の出来で、当時大いに評判されたものだった」とするのです》(「浮世絵を読む」http://ukiyoe.cool.coocan.jp/kaisetsu.htm
 彫り師の天才も画家としては二流以下だったのか、あるいは駒吉工房のようなところでやっつけ仕事をしたものかもしれない。
 ところで、この地図はいつ発行されたものであろうか。
『富士山村山口登山道跡調査報告書』(富士宮市教育委員会編・発行、平成5年3月)には、「明治7年村山浅間神社発行登山案内図」としてこの地図が掲載されている。

『描かれた富士の信仰世界』(企画展図録、富士吉田市歴史民俗博物館編、富士吉田市教育委員会発行、平成5年5月)にはこれが「富士山表口真面之図 明治初期」として収録されている。発行年に疑惑が生じたのかもしれない。

 そして『村山浅間神社調査報告書』(富士宮市教育委員会編・発行、平成17年)には「富士山表口真面之図(明治13年 村山浅間神社発行)」として載せられている。どれが本当なのか。
  最近になってかなり信憑性のある論考が発表された。
《富士山大掃除は、多数あった仏像類を取り払い山頂景観を変えた。この変化は絵図からも確認できる。村山では、明治十三年に絵図の版木を再版した。「富士山表口真面之図」の版木背面には、「明治十三年庚辰年六月頂上図共再版之」「富士宗四郎・富士太郎・三井環・長谷川静宏・旭近尓」と刻まれており、村山の人々によって再版されたことが分かる。》(梶山沙織「富士山頂の信仰世界」『日本一の高所・富士山頂は宝の山』しずおかの文化叢書21、静岡県文化財団、2016年)

 

 では麗山図はいつ発行されたものだろうか。
 話を元に戻すことになるが、ド・フォンブランクは富士登山の翌月には中国に戻っている。日本で軍馬と糧秣を買い付けて中国駐留のイギリス軍に送ることが彼の任務だったからである。

 このことからオールコック登山隊は麗山白石の《富士山表口眞面乃圖》を携帯していたことが類推できる。この登山絵図はそれ以前につくられたものということになる。
  幕末の大宮には先の酒屋さんの日記のほかにもう一つ日記が残っていて、筆者は大宮町の町役人で、『角田桜岳日記』(28字×26行×2段、全5冊2000ページ、富士宮市教育委員会、平成16〜21年)として翻刻されている。
 桜岳は麗山白石の親しい友人であり、いっしょに酒呑んだとか借金取りから庇ったとかまで書かれているほどである。

 じつはわたしは前記通院中にこちらもぜんぶ目を通したのだが、この麗山の絵地図発行のヒントでもないかというのが一つの目的でもあった。しかし残念ながら、そのときは何の手掛かりも得られなかった。

 そしていささか遠回りではあったが、今回ここに図らずもこの地図の製作は、麗山が白石号をもらった天保12年(1841)以降、オールコック富士登山の万延元年(1860)以前だということが分かったのである。

 

  以上まで書いた翌日未明、夢枕に役行者が立たれた。
「角田桜岳日記はボロボロの底抜け笊ではないか、欠落部分に重要な情報が隠されていることを読者に伝えよ」
  その必要性は分かっていたのだが、じつはそれだけは避けたかった。旧暦の日数の計算が面倒なのである。

 当時の暦は現在と違って各月ごとの日数が固定していない。大の月30日、小の月29日を組み合わせって1年12カ月を構成することになっているが、組み合わせは幕府天文方が決定したその年ごとの暦を見ないと分からない。しかもときどき閏月を入れて閏年の調整をしているために1年13カ月の年もある。

 えいッ! 一日単位の計算はやめて一月単位に丸めた数字でも意味は通じるだろう。ということで計算したのが、以下の一覧表である。
 左の日付は『駿州富士郡大宮町 角田桜岳日記』の目次から拾った数字、右は日記の残っている部分と欠落部分を計算したものである(内田正男編著『日本暦日原点』雄山閣出版、昭和50年を利用した)。
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 天保12年閏正月11日〜天保12年6月5日      5カ月残って1カ月欠落
 天保12年7月9日〜天保12年8月26日        1カ月残って8カ月欠落
 天保13年4月24日〜天保13年5月29日       1カ月残って1カ月欠落
 天保13年7月7日〜天保13年12月2日        5カ月残って6カ月欠落
 天保14年5月24日〜天保14年8月14日       3カ月残って4カ月欠落
 天保15年正月11日〜天保15年7月8日        6カ月残って4カ月欠落
 天保15年11月13日〜弘化3年6月15日       20カ月残って5カ月欠落
 弘化3年11月1日〜弘化3年12月9日         1カ月残って3カ月欠落
 弘化4年3月16日〜弘化5年5月16日         14カ月残って2カ月欠落
 嘉永元年8月1日〜嘉永元年9月20日          1カ月残って1カ月欠落
 嘉永元年10月11日〜嘉永2年5月30日        8カ月残って2カ月欠落
 嘉永2年8月19日〜嘉永2年9月20日         1カ月残って57カ月欠落
 嘉永7年5月17日〜嘉永7年7月9日          2カ月残って8カ月欠落
 安政2年2月21日〜安政2年4月11日         2カ月残って2カ月欠落
 安政2年6月16日〜安政2年7月26日         1カ月残って38カ月欠落
 安政6年正月23日〜安政6年4月6日          3カ月残って5カ月欠落
 安政6年9月12日〜安政6年11月23日        2カ月残って1カ月欠落
 安政6年12月24日〜安政7年3月10日        3カ月残って30カ月欠落
 文久2年8月27日〜文久2年9月20日         1カ月残って……
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 残っているのはたったの3分の1かと言うべきか、よくぞこれだけ残っていたものだと評価すべきか。
 この一覧表の始まりと麗山が「白石」の号をもらった年は一致している。『角田桜岳日記』はまだまだ続いていくのだが、一覧表の最後のところ、安政7年3月11〜文久2年8月26日の後の30カ月間の日記欠落部分にオールコックの富士登山がおこなわれている。

 すなわち安政7年3月18日に改元があって万延元年となり、翌万延2年2月19日にさらに改元があって文久元年になる。この間の万延元年7月27日(グレゴリオ暦1860年9月11日)にオールコックが富士登頂を果たすのである。
 これら多数回の、長期にわたる欠落部分に、麗山の《富士山表口眞面之図》製作過程が書かれていたと考えていいだろう。

 しかしもはやこれ以上打つべき手段はない。